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触れぬ心

ひんやりとした空気が世界の全てのように感じられた。

闇の内、窓から差し込む青銀の月明かりの下で眠れずに数字を数えるのはもう卒業した筈の遠い癖の一つ。

 あの頃は、父や母が安全に航海することを願い無事に帰宅する日々を願い月夜を眺めた。

けれど今は、今は……何を思えばいいのか、ファティナは自分でも理解ができないことに戸惑っていた。

 眠れぬ夜ならば、温かで安らかな眠りを与えてくれる義息の寝台に行けばすむはずだった。

 溜息を一つ、呆れた言葉を一つ。

それでも義息はそのキルトを持ち上げて安眠を与えてくれる。おそらく今日もそうしてくれるだろうというのに、ファティナは自らの寝台の上で体を丸めてただじっと冷たい夜をやり過ごす。


「旦那様……」


そっと囁いて、枕を抱きしめて瞳を伏せる。

共に居て欲しいと願いながら、瞼が震えるのを必死で堪えた。


「旦那様――」


 自分にとって唯一の人を求めているのに。その手に触れることは適わない。

触れて、抱きしめていて欲しい。

覚えているのは大きな手と、そして鋭い眼差し。正面から受け止めるには強すぎて、ファティナは相手の顔をまともに見ることも適わなかった。

 どきどきとはぜる心音のうるささと、緊張と、意味不明なほどの動揺。

婚姻するのだといわれたときは、その意味すら自らに溶け込もうとはしなかった。

忙しい父や母はいつもファティナを赤ん坊のように扱った。そして時々立ち止まり、じっくりと見ては「大きくなったわね?」と戸惑うように引き寄せた。

 父の領地は辺境で作物もあまり育たない。山に入れば獣が跋扈し、狼の遠吠えが怖くて眠れぬ夜を数えた。年に数名の子供が病や飢えで亡くなった。本当に悲しくなるくらい大地は恵みをもたらさず、それでも必死に羊を飼ってその肉と柔らかな毛を産業とした。だからこそ、父と母とは躍起になって商業に手を出したのだ。

 貴族といったところで下級貴族。商売に手を出せば更に貴族社会からははじき出されて立場を失う。だが、それでも領民を守る為に動くしかなかった父と母は――ある日、仕事の商談で海を渡りもう二度と戻らなかった。


 ファティナがその知らせを受けたのは、遠い地で葬儀も全て終わった後。たった一人残された娘に真実がもたらされたのは最後だった。

 その知らせと同時、ファティナは自らの夫と出会ったのだ。

 三十六歳も年上の夫。

自分の父親よりも年上の夫に、ファティナが望んだのは一つだけだった。


***


 表面上は何事もなく数日が過ぎていた。

エイリクは首にクラバットを巻きながら鏡の中の自分を眺める。

兄は忙しさが増してこの二日程は帰宅していないが、長期休暇をとるということでそれは仕方のないことなのだろう。

 話したいことは山とあったが、この先にいくらでも時間はとれる。


「今日はどうなさるのです?」


 身支度の準備を手伝っていたジゼリが嘆息交じりの声で言う。

ジゼリは早々に自宅へ戻ろうと相変わらずうるさいが、自分の慣れぬ場なのだから女にはきついのだろう。なんといっても、ヒースの屋敷では采配をふるうべき女だが、この屋敷ではすることもない。全ての手配をこの屋敷の執事がまかなっているし、下働きのようなものは多く居る。退屈が不平不満となって蓄積されるのかもしれない。

 エイリクは溜息をつき、確かにそろそろヒースに戻る頃合なのだろうと考えた。

この屋敷に留まることは――実際、楽しくなっていたが。


 兄とも多少は会話ができるようになっていたし、義母は……なんであの人はああ愚かしいのだろうか。兄という保護者がいないと生きていけないのではないかという惰弱ぶり。自分はおそらく見えもせぬ母という生き物に多く求めすぎていたのかもしれないと最近では自分を反省するほどだ。

「エイリク様?」

「今日は教会に行く」

「……本気でいらっしゃるのですか?」

「ああ。来年から教会に入り、聖騎士を目指す」

 自分の性格上我慢の利かないこともあるだろう。だがそれはゆっくりと自分を律して成長していけばいいことだ。

「どうしてでございますか。私がこれほどお頼みしておりますのに」

「ジゼリ、もう決めたことだ」

「私はイヤでございます! 騎士になられたいのであれば士官学校で宜しいではありませんか。なぜ教会なのですか。妻帯もできないのですよ?」

 そう口にし、ハっとジゼリは気付いたように瞳を開いた。

「そうです。妻帯できないなど駄目ですよ。もし兄君様になにかあった時はエイリク様がこの家の跡取りなのです。その跡取りが妻帯できないなどと許されることではありませんよ。こんな話はあってはいけません」


 せわしなくわめきたてるジゼリの言葉は確かに一理ある。だが、半ばうんざりとしていたエイリクは自分に縋ってこようとする相手を軽く手を払った。

「ならば義母さまがお子を成されればいい。義母さまは未だお若いのだから、この先にいくらでも弟など生まれる」

 ファティナの旦那様談義に幾度か捕まっているエイリクは、思わず小さく笑ってしまった。義母は子供を欲しがっている。自分の下に弟や妹が生まれることも――悪い話ではないだろう。自分とは違い、きっとあの人はあの人自身の手で子供を抱き上げ、頬を寄せて愛情を込めて子供達を育て上げる。

 それを思えば多少うらやましいという思いがわきあがり、ついで――子育てに協力しなければ、いったい自分の弟や妹はどんな風に育て上げられてしまうのか危険ではなかろうかという危惧も生まれる。


滑稽なことだ。


「あの女の産む子など、誰の子かも判りませんよっ」

 しかしそんな夢想を打ち破る悲鳴のように言われた言葉の酷さに、エイリクは咄嗟に自らに更に縋ろうとする乳母を押しのけて怒鳴りつけた。

「いい加減にしろっ。退屈だからといっておまえは何を考えているんだ。もういい。そんなにヒースに戻りたければさっさと一人で戻れ。ぼくは手続きをすませたら戻る」

 当然のようにジゼリを連れて来たが、もとよりヒースにおいてくれば良かったとエイリクは後悔していた。

 まったく、ジゼリの過保護はいったいいつになれば治る病なのだろうか。 

まるで子離れの出来ぬ酷い母のようだ。

 そうまで考えてエイリクは顔をしかめた。

「私の可愛いエイリク様が……」

 ジゼリがわなわなと身を震わせてぎゅっと自分の手を握りこむ。それを見ているのことに煩わしさを覚え、エイリクは冷たくもう一度告げた。

「おまえは疲れてるんだ。ヒースでゆっくり休めばいい」

 最後の言葉は多少優しさを滲ませたが、ジゼリはうつむいたままいつものように「私のエイリク様が……」と熱に浮かされるように呟いていた。


***


 籐の椅子の中で身を丸めるようにして眠るファティナの横で、クレオールは膝をついてファティナに手を握られている状態だった。

 この数日、ファティナが夜眠れていないことには気付いていた。

添い寝が必要であればメアリ女史に声をかけましょうかと進言してみたが、ファティナは儚い微笑みを浮かべて「いつまでも子供でいる訳には参りませんもの」と気丈に言ってはいたが、昨夜などは明け方に力尽きて眠るという様子で決して健全な眠りでは無い。

 クレオールは瞳を細め、吐息を落とした。


「まだナイショですわよ?」

 そう唇に人差し指を押し付けてファティナが囁いたのは、すでにヴァルファムから告げられていたことだ。


 男主と家庭教師の婚姻。


 それはまさにクレオールとしても青天の霹靂だった。

ヴァルファム本人から告げられた時も、クレオールは「は?」としか浮かばなかったものだ。

「女史はまだ何も言って下さいませんの。こういう場合はわたくしからおめでとうと言うものなのかしら? それとも言われるまで待つものでしょうか?」

「どうでしょうね」

 果たしてそれがめでたいことであるのか理解しかねる。

「女史が報告してくれるまでに、女史の部屋やお祝いの品を用意しようと思うのですけれど、クレオはどう思います?」

 ファティナは楽しそうに告げるのだが、時折見せる吐息にクレオールは憐憫さえ覚え、そんな自分を恥じた。


 何に対して憐憫などと。

自分の浮かんだ考えに首を振り、クレオールはふっと小さく微笑んだ。

「クレオールさんでもそんな風に笑うんですね」

 突然の声に視線を向ければ、歴史学の資料を手に開いたままの扉から件の女家庭教師、メアリが顔を出した。

「入室の際はノックをするものです」

「両手が塞がっておりますから」

 メアリは肩をすくめ、ついでふっと眉を潜めた。

「奥様、お休みですか?」

「今日はこのまま休ませて差し上げたいので、あなたももう引き上げて頂いて結構です」

 そう言葉にし、ふとクレオールは眉を潜めた。


「若奥様、そう言ったほうが宜しいですか」

「止めて下さい。何ですか、それっ」

 メアリは突然寒気に襲われたように身震いし、あやうく手の中の資料を落としてしまいそうになった。

「貴女と若様が婚姻すると報告を受けていますが」

「――お断りしております」

 心底嫌そうに言うメアリの様子に、クレオールはくっと喉の奥を鳴らした。

「そうでしょうね」

 その相手を軽く睨みつけ、メアリは憤慨するように言葉を落とした。


「笑い方にも差別を感じます」

 ファティナ様相手とは随分違いますね。

嫌味っぽく口にしながらメアリ自身随分と淑女らしからぬ態度だと内心で慌てていた。

 淑女であればそつなく対応できる筈で、こんな嫌味など恥ずべき行為だ。

 クレオールは声のトーンをあげたメアリを咎めるようにきつく一度睨み、女主の為に声を潜めるようにに告げ、ついで思い出すように口調をかえた。

「私はまだ仕事があるのですが」

「え……?」

「もし貴女に何もなければ」

 穏やかな調子で言われる言葉にメアリは自然と頬に熱を覚えながら「何ですか」と相手を促した。

「ファティナ様に付き添ってさしあげて下さい。人に触れていれば安心なさいますから」

「……」

「無理でしょうか」

「いいえ」

 メアリは乱暴に返答し、持っていた本をテーブルに置いてクレオールと場を入れ替わった。

 クレオールがファティナに掴まれたままの手をゆっくりと丁寧に引き剥がし、メアリの手を掴んでファティナの手に重ねる。

 まさかクレオールに手を掴まれると思っていなかったメアリは、目に見えて動揺した。普段であれば白手に包まれている手が、今は直手で温かく触れる。

 男性の手に触れるなどはじめてのことではないだろうかと思えばメアリの腹部はあわだつように奇妙な感覚に狼狽した。

「しばらくお願いします」

 しかし相手ときたらメアリの動揺などどこ吹く風でそ知らぬ調子でさっさとその手を離した。

 すっと立ち上がる執事の背を睨むように見送り、メアリは何故か不貞腐れるように顔をしかめた。


――あなたはいつもファティナ様ばかり。

なんて台詞、口から飛び出す前にメアリは重い塊のように慌てて飲み込んだ。


***


 それからどれくらいの時間が経過したのか、繋がる手のぬくもりにメアリ自身うとうとと船をこぎ始めてしまった頃合に、ふと人の気配を覚えて視線をあげた。

 部屋の入り口に立つ女は見慣れぬものであったが、メアリは記憶のどこかに引っかかる相手に小首をかしげ、ああと小さく呟いた。

「確か、エイリク様の――」

きちんと紹介を受けている訳ではない為に名前までは浮かびはしなかったが、それはエイリクの使用人の一人であったはずだ。

「その、奥様にお話があるのですが」


 強張ったような口調で言う女はただじっと眠るファティナを見つめていた。

「奥様はお疲れですので、話があるのでしたらまた日や時間を改めていただいたほうが」


「その女に話があるのです!」

激しく訴える女の眼差しに、メアリは我知らずぎゅっとファティナの手を握りこんだ。

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