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親離れ

 エイリクは喉の奥がやたら乾く感覚と、身が強張る思いに戸惑っていた。

突然兄の屋敷から出て行くようにと言われる意味もまったく判らず、不安のようなものが辺りを支配する。何よりもまず兄と話し合わなければいけないのだと判断しても、この屋敷の執事がそれを阻む。

 焦りがどんどんと広がり、なんとか兄の元へと駆けつければ事態はすでに好転の兆しを見せていた。


「エイリク様に謝って下さい」


 何故、義母の家庭教師が偉そうに胸を張っているのか理解はできないが、さすがに兄に頭を下げさせるつもりはない。

「ぼくは居て構わないんですよね。兄さまが許してくださるならそれでいいのです」

 兄の謝罪は必要ではない。兄に対する支援として声を掛けると、義母がふわりと柔らかい微笑みを浮かべ、その手を伸ばし、


「エイリク様は良い子ですわね」


頭を撫でた――腹立たしいことに。


この人はぼくのことをいったいいくつだと思っているのだろうか。

十一だ。来年には士官学校なり神学校なり教会に入ることのできる年齢だ。決して子供ではない。身長だって義母とたいして違わないというのに、この、明らかに小さな子供を相手にするような扱いは許しがたい。

咄嗟に文句がこぼれそうになったが、それではまた兄に叱られてしまう。ぐっと耐えたが掴んだ拳はふるふると震えた。

 やっと乗り越えられたかと思ったというのに、果たしてなんと高い壁だろうか。

おそるべし、義母さま。


「それでは、仲直りのしるしに」

しかも義母は明るい口調で言った。


「お二人とも握手なさいましょうね」


 にこやかに言ったファティナとは違い、ヴァルファムもエイリクも――その場にいたほかの使用人達もさすがに絶句し視線をそらした。


敬おうと誓った筈だ。

エイリクは必死に何かを耐えた。

具体的に言えば、思わず口からこぼれそうになる「馬鹿ですか」という言葉を。


まったく本当に、この人を相手に怒りを覚えていた自分こそが馬鹿らしい。


***


「義母うえに話があったのですが……」

 夕食の後、どこか疲れた様子のヴァルファムが前髪をかきあげてゆっくりと口火を切った。

 一日があわただしく流れ、やっと穏やかな空間を取り戻したヴァルファムだったが、なんだか本日は敗北感が身に染みている。

 いったいぜんたい何故こんなことになったのか本当に理解しがたい。

 エイリクはすでに離れへと戻っていたし、残っていたファティナもそもそも自室へと引き上げる頃合だ。

 そこではじめて、ヴァルファムはファティナに話があったのだと思い出した。

「わたくしにですか?」

 ファティナは小首をかしげ、笑みを浮かべた。

「なんでしょうか」


――結婚相手を決めました。


 そう、言葉はするりと落ちずにヴァルファムはふっと苦笑した。

今更何を迷うことがある。これは定められたことで、立ち止まるべき事柄ではない。

だというのに、どうにも往生際の悪い義息は遠まわしな言葉を選んでいた。


「私が結婚するといったら、どう致します?」


――まぁ、おめでたいことですわ!


 おそらくファティナは嬉しそうに微笑んでそう言うだろう。それこそ、おめでたい(・・・・・)調子で。

ヴァルファムがそう予想したのと違い、しかし面前の義母の表情は、一瞬かげるように強張りを見せた。ふっとほんの一瞬、微笑みが固まるように。

「……義母うえ?」

 問いかければぴくりと反応し、慌てて唇を笑みの形へと持ち上げる。

「素晴らしいことですわ」

 意外な反応を引き出したことに、ヴァルファム自身が戸惑い義母の瞳を覗き込んだ。だが、義母の視線がついっと逃れるように泳ぎ、ついでそのまま身を翻そうとするものだから、ヴァルファムは咄嗟にその腕を捕まえていた。


「義母うえ?」

「なんでしょうか」

「こちらを向いて下さい」

「――もう、休みますから」


 心臓が無意味にその鼓動を早める。

ファティナが見せた表情に、ヴァルファムは身勝手な妄想を重ねあわそうとしている。そう、違う。これは間違いだ。こんな勝手な思い込み――


私が結婚するのを嫌がっているのではないのか?


 それまで決してそんな反応を示したことは無かった。

義息の婚姻を誰より望んでいた筈のファティナが見せた動揺に、ヴァルファムは自分の思いが反応するのを止められずに力任せに引き寄せた。

「義母うえ、私の婚姻を――喜んではいただけないのですか?」

 口元が笑みを刻み付ける。

腕の中で身じろぐ義母を無理やりに自らに向けて、泣きそうな戸惑う顔を――

心臓が早鐘を打ち鳴らし、とろりとした誘惑が腹部を満たしていく。


 イヤだと言って欲しい。

結婚などして欲しくないのだと。そう告げてくれれば、この義息を他の誰にも奪われたくないと望んで欲しい。

 そうすれば――


「ごめんなさい……」

「いやなのですか?」

何故?

自分の中で期待が膨れ上がる。かぐわしく、柔らかく甘美なものが胸の内で――


「子離れできない義母で情けないです!」

「――」

 ファティナは泣きそうな顔で言うと、ヴァルファムの肩口に顔を沈めた。

「ごめんなさい、ヴァルファム様。わたくしお嫁様を虐めたりするつもりはありませんけれど、やっぱり世の中のお姑様の気持ちは判ってしまうのです」

「……」

「ああ、どうして嫁姑戦争を楽しみなんて思っていたのかしら。きっとヴァルファム様はお嫁様と義母の間で板ばさみになってたいへんな想いをなさることになりますわ」


ぎゅうっと義息の肩口を抱きながら切々と語る義母の様子に、ヴァルファムは歯を食いしばった。

「がんばって子離れ致しますから」

「子離れ……」

低く唸るような言葉が落ちた。


 子離れ――

腹をたてるな。もともと期待するだけ無駄なのだから。こちらの勘違いであってファティナが悪い訳ではない。

 勝手に勘違いをし、期待し、また落胆しただけのことだ。

そう、ファティナが悪い訳では――いや、これはある意味一歩前進ではないだろうか。

嫉妬の一種と捉えることもできない訳ではないではないか。

 ヴァルファムは自分の幸せが随分と低い位置に移動していることに気付いていたが、あえてそこには触れたくなかった。


「義母うえは私から離れておしまいになるつもりですか?」

「そのほうが宜しいでしょう?」

 眉根を寄せる義母の頬に自らの頬を摺り寄せて、ヴァルファムは苦笑した。

「義母うえがどんなに子離れしたいと望まれても、私は親離れする気はありませんよ」

それに、

「私が婚姻したところで、何かが変わる訳がない。

きっと貴女は喜んでくださるでしょうね。

私はあなたの家庭教師と婚姻するつもりです」


 ファティナの身が強張ったのは、そう……――だから、ただの勘違いでしかない。

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