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勝利

 メアリは苦悩していた。

ファティナにヴァルファムの悪行を洗いざらいぶちまけてやりたいと怒りのままに思ったものだが、それは同時にファティナの心をも損なうものである。

 もし、信じていた相手が自分を騙していたと知ればあの方の心はどうなってしまうだろう。自分の行いがファティナにとって悪い結果ばかりをもたらすものであっては決してならない。

 そもそも自分はいったいどのようにあの腐れ悪魔の害虫馬鹿義息のことを語ろうというのか?


「親子は口付けしあったりしません」


……否、しないとは言い切れない。言い切れないが、なんというか、程度とか何かが違うのだ。親子間の口付けはさらりと爽やかなものだろう。だが――いや、あの二人にしても爽やかといえば爽やかといえるかもしれない。

 いわゆるフレンチキスをしている様子は見られないし。

そこまで考えて更にメアリは頭を抱えて絶叫してしまいたくなった。自分はいったい何を考えているのだろうか。自分の主に対してなんという妄想を!

 メアリはあまりの気恥ずかしさに近くの壁になつきそうになってしまった。

なにより嫁入り前の女がキスの妄想ってどうなのだろう。なんて破廉恥な。


 ああ、駄目だ。こんなことではいけない。

よし、次。気をとりなおして次だ。

次――そう、親子は同衾しない。

訳ではない……だが、二十歳を過ぎた男は実の母親といえども寝台を共にしたりしない。いや、これにしてもヴァルファムが好んでしている訳ではないことは承知している。いつだってファティナ様が「眠れない」とか「寂しい」を理由に義息の寝台に入り込むのだ。


 くぅっと苦痛のような呻きが唇の隙間から漏れた。

これでは悪いのはファティナ様であってヴァルファム様ではなくなってしまう。何か、何かと探すうちに、メアリはハっと息をつめてやっと回答を得られたようにぴんっと背筋を伸ばした。


――息子は母にキスマークなどつけない!


そうだ。これは絶対にありえない。たとえ実の親子であってもありえない。

そのことをとっくりと説明すれば、いかなファティナ様といえどヴァルファム様の行いの悪さを理解して下さるに違いない。


 しかし、今まで虫刺されだと言っていたのだからこれをどうキスマークなのだと理解させればいいだろうか。キスマークの説明……なんと難解な。

「メアリさんっ」

 突然呼ばれ、夢想の中にいたメアリは危うく悲鳴をあげてしまいそうになった。

あまりのばつの悪さにきょろきょろと辺りを見回し、自分が現在使用人達が使用する狭い石廊下を歩いていることを思い出す。

 そして相手は石廊下をばたばたと走っていた侍女の一人。


「エイリク様とヴァルファム様が喧嘩になりそうなんですっ、どうにかして下さい」

「なっ、そんな無理をっ」

 クレオールさんに頼んで下さい!

「とにかく中庭にっ」


メアリはこめかみの辺りにつきつきという小さな痛みを感じた。


――確か自分はしがない女講師であった筈……

  

***


 その時、メアリの胸に飛来したものは感動だった。

あのファティナ様が、きっぱりと義息を拒絶するように言葉を叩き付けたのだ。普通の義息を諫める正しい母のように。決然とした態度で。

 なんて素晴らしい。立派です奥様!


「――ごめんなさいとエイリク様に謝るまで、ヴァルファム様のデザートは抜きです」


 しかし、最後の一文はちょっと駄目だ。

メアリは感動が一転、なんというか切ないものにかわってしまうことに胸を痛めた。

今までこんな風に母親らしく義息に強く出たことなど滅多になかった人が、なんと成長したものかと称賛したいのだが、二十歳過ぎの男を捕まえて「デザートを抜く」といったところで痛くもかゆくもないだろう。

 そんな言葉が有効なのは他ならぬファティナ様くらいしかいない。いくら自分がいやなことだろうと、彼女の義息には何の心痛にもなりはしないだろうに。


 案の定、彼女の義息ときたら物凄く見下したような視線を義母に向けている。

あんな視線をとっくりと向けられ続ければ、ファティナ様の心が容易く折れて、意味不明に「ごめんなさい」と謝り出してしまいそうだ。

 まさに蛇に睨まれたカエル。

狼の前のか弱き子猫だ。耳が伏せて体が小刻みに震えてしまいそう。

メアリの視界の中、ファティナの凛とした姿勢が気弱に前かがみになっていくのを感じる。それに合わせてヴァルファムが更に大きく感じるのは気のせいではないのではないだろうか。

 メアリは咄嗟にファティナに駆け寄り、そして考えるより先に声をあげていた。


「デザートでは効きませんでしょう。いっそのこと――」


 言葉にしながらすでに後悔していた。

ヴァルファムとファティナの視線が驚いたように自分に集中する。

それを畏れるようにメアリはあえて遠く、ヴァルファムの背の向こうでエイリクがこちらに来ようとするのを執事が止めているのを見ていた。

 自分が聞いたのは確かヴァルファムとエイリクが揉めそうで止めて欲しいという話だった。だが現状揉めているのは女主と馬鹿義息だ。


 ああ、よく判らないがややこしい。

そして更に言えば突然口を挟んだメアリを憎しみまみれの視線で自らに求婚した筈の男が見ている。

 自分より二つ年齢が上で、そして身分は侯爵家嫡男――現状は騎士団所属の将来有望株。腹立たしいことに貴公子などと影で言われる女性達の垂涎の的の男は、この自分に求婚したのだ。

 本来であれば頬を染めて喜び、恥じらいさえみせて「お望みのままに、我が君」とさえ応えるだろう。


相手が病気持ちでさえなければ。


 ヴァルファムは害虫でも見る眼差しで自分を見ている。

見下(みお)ろしている。見下(みくだ)している。

その冷ややかな視線にふっと何かが、切れた。

結婚? 冗談ではない。

たとえ結婚など便宜上のことといえど、自分がこの面前の男と結婚することはありえない。


「奥様、ヴァルファム様にデザートを抜いたところでまったく痛くも痒くもありません。むしろ、奥様を抜いたら(・・・・・・・)良く効くと思います」


 ええ、確実に。


メアリは宣戦布告を込めてヴァルファムへと微笑みかけた。


 ヴァルファムは自らの前に立ちはだかった壁に一瞬怯みかけた。

ほんの少し前に、自らの妻にと定めた女は、まるで現状でその地位を手にしたかのような傲慢さでもってその場に立ち、そしてファティナを盾にでもするように下らぬことを言い放ったのだ。


「女史?」

 戸惑うようにファティナが自分の一歩後ろに立つ女史を見上げると、メアリは教師の顔で囁いた。

「エイリク様に謝らない限り、ヴァルファム様と口を利かないで下さいませ。挨拶のキスも、触れるのも禁止です。宜しいですね?」

「何を言っているんだ」

 ヴァルファムがいらだって声をあげれば、ファティナが慌ててヴァルファムに話しかけようと口を開く。だが、メアリは優しい母や姉のように、ファティナの唇に指先を当てた。


「喋ってはいけません」


 その言葉に、はじめこそ戸惑いをみせていたが、やがてファティナは楽しい遊戯のはじまりと言うようにぱっと表情を明るくした。


――良い考えかもしれません! その顔が爛々と輝いてそう告げている。 


 かっと熱が生まれ、ヴァルファムはファティナへと手を伸ばしたがメアリがそれを阻んでファティナの体を引いた。


「触れるのも禁止です」

「女史!」


「さぁ、ファティナ様。エイリク様とお茶にでも致しましょうか?」

 どんな理由で揉めているのかは判らないが、どうせまた下らぬことなのだろう。メアリはふんっと鼻を鳴らしてしまいそうになったが、生来の淑女教育がそれを押し留めた。没落しても淑女(レディ)であることに代わりは無い。

 腐っても侯爵家嫡男に求婚される程度には。

それを思い出すだけで腹部にもやもやとしたものが溜まり、激しい動力にかわった。


 視界の端にいたエイリクが乱暴にクレオールを押しのけて駆けてくる。

(かたく)なな少年の顔立ちは強張って見え、メアリは複雑な気持ちを味わった。

 


「エイリクはたたき出すと言ったでしょう」

辛らつに言う義息の言葉に、ほんの数メートル背後の少年がびくりと身をすくめる。ようやくファティナが何について怒っているのか理解したメアリは更に意地悪い口調で言葉を続けた。


「まぁ、エイリク様はお帰りですか? でしたらいっそエイリク様にお願いして旦那様の御領地までお送りして頂いたらいかがでしょう?」

「まぁっ」

 嬉しそうにファティナが声をあげたのを皮切りに、ヴァルファムは苦痛の呻きをもらし、


「判りました! エイリクを追い出したりしませんっ。それでいいですね?」


――あまりにも早すぎる。

高い矜持が邪魔をして一日程度は絶えるかと思えば、即効手のひらを返した。

ファティナという餌は疑似餌ではなくまさに生餌ということか。

メアリは内心で乾いた笑みを浮かべた。

なんという入れ食い。

 

 忌々しいという憤りを惜しまないヴァルファムの視線を真っ向から受けて立ちながら、メアリはほんの少しだけ溜飲を下げつつ、

「駄目です。確か、条件はエイリク様に謝ったら、でしたよね? 奥様」

とどめを刺した。


さぁどうだ!


メアリはすがすがしい気持ちで胸を張った。

――脳裏に解雇という単語がちらついたが、自分のしたことに悔いは無い。 

気の弱い自分が成長したものよと、なんとなくメアリは自分が誇らしかった。

女のイベントを汚されたメアリの恨みは深いのです。

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