憤慨
ヴァルファムはその音を確かに聞いた。
ぶちりと何かが切れる音を。
結婚相手を決めたと義母に報告するために居間へと向かったというのに、そこに義母の姿を見つけることはできなかった。
挙句、丁度居間にいた侍女の一人がまるで叱られるのを畏れるようにがばりと頭を下げたことも気に障る。不調法な使用人など必要が無いと自らのリストに留め、義母の居場所を問えば、更にばね仕掛けの下らぬ玩具のようにびくりと跳ね上がり、女は慌てた様子で「中庭においでです!」と悲鳴のように高い声をあげた。
家族の為の居間があるのは二階。そこから中庭を確かめれば噴水の近くに白い物体と共に座る義母の姿が見えた。
ふわふわの体毛に抱きつくようにしているのはまさに子供いがいのなにものでもない。
いったいいつまであの人は子供でいるつもりだろうか。
ヴァルファムは苦笑をこぼし、瞳を細めた。
いいや、子供でいればいい。
いつもそうやって日の下で無邪気にくつろいでいればいい。自分の心が激しく揺れるのは、あの人が時々大人のような顔をするのがいけないのだ。
十三で嫁いだまま、そのままの小娘様であれば自分はきっと揺るぎなどしなかったものを。
かつりと長靴の音をさせて身を翻し、ゆっくりと自分の心を定めるように落ち着くように一つ一つ考えながら歩く。
あの人と自分との間にある距離を。
女史と結婚し、子を成せばあの人はきっと嬉々として孫の世話をするに違いない。まるで自分の子のように愛し、慈しむに違いない。
それはどれだけ素晴らしい光景だろう。当然子は男子がいい。男であれば跡継ぎとなれるし、おそらく父親である自分に似ることだろう。決して母親似の女子など要らぬ。父親似の男子だ。色素の薄い金髪に碧玉の瞳。やがて歩き出し、ファティナのドレスにまとわりついて抱っこをせがむ。
――ババ様。
……
夢想にぴくりと眉が寄った。
「お祖母さま」
来年子供が産まれるとして、喋り始めるのは三年後か――いや、二年後。その時はファティナは二十歳前後。それを思えばお祖母さまなど不似合いだ。いくら舌足らずの子供でも、さすがにそれはおかしい。
ファー様、ファティ様。
孫はファティナを名で呼ぶだろうか。それは由々しい。不敬だ。許されない。
などとヴァルファムは激しく下らない思考に埋没していた。やがて孫の姿がしっかりと立ちあがり、ファティナの腰の辺りに張り付くのを夢想する。
「――」
何故かだんだんと腹がたつような気がしてくるのが不思議だ。
おそらく孫――自分の息子はファティナに良く懐くだろう。彼女は子供が好きだから、愛情をたっぷりと向けられた子供はファティナに甘やかされて育つに違いない。
子供が十歳になればファティナは三十前後か。それでもまだ若く穏やかに微笑む彼女が想像できる。そして――
一階の部屋のテラスに出た途端に視界に飛び込んだその光景は、まさに想像のままだった。
十歳前後の少年が、義母と共にいる。
白い犬にもたれたままのファティナと、そしてエイリク。エイリクはまた懲りずに何をしているのかと眉を潜めたヴァルファムの前で、エイリクの手がファティナの手に触れ、その指先に唇で、触れた。
すっと自分の中で何かが冷えた。
血の温度が急速に冷えて、脳裏に薄いもやがかがるような不快さが満ちていく。ファティナが慌てて立ち上がり、エイリクの額に手を当てて何事か言えば、エイリクはファティナを引き寄せ、抱きしめた。
――駄目だ。
下がっていた体温が一気に沸騰するようにあがった。目の前が真っ赤になるような衝撃。あえぐように息をつき、軽く首を振っていた。
義母に触れるものが誰であろうと、許せる気がしない。
セラフィレスの声がからかうように「子供相手に大人気ない」と耳をよぎった。
知るか。
エイリクがこちらに気付き、けれどまるで照れるような笑みを向けながらファティナから離れた。足早にファティナの前に立ち、その体を抱き上げるとファティナは悲鳴を上げたが、ヴァルファムの指先はわずかに震えていた。
自分の腕の中に収めてやっと、少しだけ安堵した。抱き上げた柔らかさも、重みもぬくもりも誰のものでもない。自分のものだ。
――自分だけの。
その安堵の息が唇から漏れるのに、腹の中でくすぶるものが消え去らない。
大人気ない。
確かに。これではセラフィレスに笑われても致し方ないのではないだろうか。
自分で自分の分別ない行いに多少辟易としながら、それでも虚勢をはるように「義母うえに近づくなと言った筈だな」と低く告げた。
まったくどうかしている。
これでは年端もいかぬ子供が弟に母をとられたと暴れるようではないか。本当にどうかしているとしか言いようが無い。いったい自分は幾つだと自らに説教をしたいほどだ。
それでも現実として自分は咄嗟にファティナの体を抱き上げてしまっている。ここは強く叱責して済ませてしまえばいい。
そう、思っていた。
エイリクの口がその言葉を落とすまで。
「あの、ぼくの態度は……良くなかったです。反省しています。もう二度と義母さまに酷いことはしません」
照れたように困ったようにはにかみながら、エイリクは切々と口にした。
義母さま。と。
聞き間違いかと一瞬眉を潜めた。
エイリクの口から落とされた音の意味がいまいちつかめずに、口の中で幾度か転がしてしまったヴァルファムは、やがてその音が小娘様を示し、親しげに告げられた声音が脳内でゆるりと広がり、そしてぶちりと何かが切れるような音を聞いた。
いや、感じたというのが正しい。
ぶちり、と。
怒り。憤り。
競りあがった気持ちを必死に押さえ込んだのは、ともすればその怒りのままにたかが十歳前後の子供を本気で殴り倒し、その腹に長靴を叩き付けたい衝動に駆られた為だ。
大人気ない? ああ大人気ないだろう。
それがどうした。
「クレオール、エイリクを叩きだせ」
目障りだ。
狭量だろうが何だろうが知るか。
ヴァルファムは射殺す眼差しでエイリクを睨みつけ、くるりと身を翻した。
腕の中のファティナが激しく暴れ、怒ったように「ヴァルファム様!」と怒鳴る。それを睨みつけてやると、ファティナは一瞬息をつめたような顔をして、ついで義息の機嫌をとるように眉を潜めて唇を尖らせた。
「エイリク様は何も酷いことはしておりませんのに。 何を怒っていらっしゃるの」
「怒っているように見えますか?」
「それいがいにどう見えるのですか」
ファティナの手がぎゅっとヴァルファムの襟飾りを掴む。
「では怒っているのでしょう」
「ヴァルファム様!」
理解してもらえるとは思えない。到底無理だろう。
この激しい憤りを、苛立ちを、嘆き、悲しみを。
自分が一番理解したくないのだ。
幾度見てもたかが愚かな小娘のこと。
だがその小娘の為にこれほどにも感情は激しく揺さぶられ、熱を持つ。
――今、許されるなら……
ヴァルファムは口の端に笑みを浮かべ、困惑したように自分を見る相手を瞳を細めて見つめた。
許されるなら――握りつぶしてしまいたい。
「エイリク様は優しい子ですわ。ヴァルファム様が心配するようなことはもうありません。
ですからどうぞ怒ったりなさらないで。帰れだなんてかわいそうです」
「私が何を心配しているのか、あなたには判りませんよ」
鼻で笑うように言えば、ファティナはますます唇を尖らせた。
「まぁ、判っておりますわよ。わたくしが傷つけられたりしないかと心配なさっているのでしょう? ヴァルファム様はちょっと過保護すぎです。わたくしは小さな子供ではありませんのに」
「違いますよ」
傷つけられるくらいどうということもない。
多少傷つけられても、それを補うことはできる。傷ついたあなたを慰めることなどいくらでもしてやる。
「違います」
力強くもう一度言葉を落とし「とにかく、もうあの子供にかかわ――」
あの子供に関わらないように。と更に強く言おうとしたというのに、ファティナの手がぎゅっとヴァルファムの頬をつねった。
そんなことをされたのははじめてでヴァルファムは驚愕に瞳を見開き、ついで足を止めた。
「兄君は弟君に優しくしてさしあげるものです! どんな理由があろうとも、あんな風に冷たくして良いわけがありません」
いつになく強い口調でファティナは言い切ると、唖然としている義息の腕からのがれて床に着地し、厳しい表情で言い切った。
「家から追いだすなんて、酷いことを言ってごめんなさいとエイリク様に謝るまで、ヴァルファム様のデザートは抜きです」
「……はい?」
「本気ですからね!」
……デザートはまったく気にしないが、いったいこの人は突然何を言い出すのだろうか。
まさか自分が食べ物如きでエイリクに頭を下げるとでも?
馬鹿にされているような生暖かい気持ちがじわりと胸に広がっていく。それと同時にファティナが母親の顔をしてエイリクを擁護するのが激しく――気に入らない。