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悋気

「子供は、結局どうすればできますの?」

 ファティナの唇から吐き出された言葉に、クレオールは天を仰いだ。

空は高く雲はゆっくりと流れている。小鳥が時折さえずっているし、中庭にある噴水から流れる水のせせらぎが耳に心地よい。

最近は天候がよいが、朝は霧が濃く辺りを覆いつくしていた。ゆっくりとだが確実に季節の変化が……


「クレオ?」


――現実に引き戻された。

「……もうしわけありませんが、それにお答えすることはできかねます」

 やんわりと断ると、ファティナは驚いた様子で瞳を瞬き、クレオールは先手を打った。

「どうぞその質問は旦那様にお願い致します。決して他の誰かにお尋ねしようなどとなさらないで下さい」

「ヴァルファム様にお尋ねしてはいけませんか?」

「はい。奥様にそれをお教えすることができるのは旦那様だけと定められておりますから」

――絶対にヴァルファム様に聞いてはいけません。

そこはしっかりと釘を刺したが、ファティナはもう一度口を開いた。


「夫婦でないと子は成せませんわよね?」


 いつもであればしっかりとクレオールを見つめて話す女主が、視線を伏せてさまよわせて言う言葉に、クレオールは息を飲み込んだ。


「ヴァルファム様と何かありましたか?」

「え?」

「――失礼致しました。僭越ではございますが、何故そのように思われるのです?」

こほんと一つ咳払いをし穏やかな調子を取り戻して問いかけると、ファティナは幾度か逡巡するようにしていたが、やがてゆっくりと首を振った。


「いいえ。ただ……疑問に思っただけなのです」


――ヴァルファムとの間に子を成したいなどと思ったのだろうか。

 クレオールはちらりと考え、その思考の危うさに小さく首をふった。

いいや、そんなことはありえない。何故なら、ファティナは夫を愛しているのだから。

 最近少し情緒不安定なのだろう。いたわしいと半眼を伏せ、そろそろ庭ではなく居間へと移動をうながそうとしたところでクレオールの視界にきびきびと歩くエイリクが入り込んだ。


義母(かあ)さま」


 まっすぐにファティナのもとへとやってくる少年の様子に軽く警戒をしていたクレオールだったが、その言葉に息をつめてぶしつけに相手を見てしまった。


「――今、わたくしを呼んで下さいましたか?」

 呼ばれた当人も随分と驚いた様子で瞳を瞬いているので、どうやら幻聴ではなかったようだ。

 ファティナは実際にはこの名称で呼ばれたのは二度目のことだったが、すでに一度目のことなど記憶にないのか、その翡翠にはありありとした驚きだけがあった。


「他の誰を呼んだと思うのですか」

 しかし気恥ずかしい単語を更に聞き返されたエイリクはむっとした様子で眉をひそめた。

「そう……ですわよね?」

 幾度も口の中で確認するようにしていたファティナだったが、次の瞬間にはふわりと微笑んだ。

「何でございましょう、エイリク様」

「今、戻りました」

 どちらかに行かれてらしたの?

そう問いかけようとしたファティナであったが、子供の剣呑な瞳ににらまれて口をつぐんだ。

 何故かエイリクは緊張した面持ちで自分をにらみつけてくるし、どうしてよいものか判らない。困り果てて、それでも何か用があるのかともう一度エイリクをよくみれば、どうやら熱でもあるかのように頬に赤みが差していた。


「具合がよろしくないのでしょうか?」


子供はすぐに熱を出すというし、などと余計な一言を足すファティナに、エイリクはぐっと言葉を詰まらせた。

「子供扱いは止めて下さい」

「ごめんなさい」

 慌てて謝る義母の姿に、エイリクは更に喉の奥でくぐもった音をだし、吐き捨てるように言った。


「手をっ」

「……はい?」


 完全に意味を図りかねた様子のファティナを更に睨み、エイリクは白い犬の体毛の上にある義母の手を顎で示した。

 その傲慢な様子はまさに彼の兄によく似ている。

ファティナが戸惑いの中で自分の手へと視線を向け、おずおずとそれを差し出すと――エイリクはその手を乱暴に掴み上げ、その指先に唇で触れた。


 犬の温かさか、それとも彼女自身の体温からか、その手はほかほかとあたたかくエイリクは何故か自分には縁遠いなにかのように感じた。

 つきりと胸が痛む。

そのぬくもりがあんまり優しすぎて。


エイリクの突然の行動に、ファティナの瞳が驚愕に見開き、クレオールも何事か言うべきかと口を開きかけた程だ。

「あ、あの……」

 ファティナは突然の相手の行いがまったく理解できていなかった。

勿論、末の義息と仲良くしたいと願っていたが、だからといって突然手のひらを返すように親しげに振舞われることが不安を与える。

 囚われた手を無意識に取り返すように強く引くと、エイリクはむっとしたように眉をひそめて近い場所から睨んできた。

「あの、エイリク様――具合でも」

 本当に具合が悪いのでは無いかと心配になったファティナはその手を伸ばし、エイリクの額に触れた。


 途端、エイリクは自分の心の中で何かがびしりと砕けるのを感じた。


それは突然のことだった。

自分の中で固くしこりのように居座っていたものが、たかがふわりと柔らかな羽毛で撫でられた途端に砕けて、エイリクは感情が爆発するように眦が熱を持つのを感じた。止めようにも止まらぬ熱が、こみ上げては頬を伝う。

 ぎょっとた様子のファティナの翡翠を見返して、なんだかおかしくて肩が揺れた。


――ああ、なんて愚かなんだろう。

「義母さま」

「エイリク様? 大丈夫でいらっしゃいますか?」

「義母さま」


――ぼくは、孤独な子供だったのだ。


母など要らぬと頑なに言いながら、母親の愛情に触れたくて仕方のない子供。

今、目の前に立つたかが五つ程度しか年齢の変わらぬ母のぬくもりに大きな声で泣いてしまいたい程に。

 ファティナはスカートの隠しからハンカチを引き出すと、そっと優しくエイリクの眦にそれを押し当てた。

「どこか痛いのですか? あの、お座りになります?」

 自分が座っていたキルトを示し、困惑している様子のクレオールにちらりと視線を向けた。


「義母さま……ごめんなさい」


 言葉は素直にこぼれ落ちた。

手を伸ばしてすがるように抱きすくめる。相手のほうがかろうじて身長が高いけれど、その肩口に顎を預けられる程度には身長は引き合った。

 

義母の温かな体温とシナモンの香りとに安堵するように吐息をつくと、視界に屋敷のテラスから直に中庭におりた兄の姿を認め、照れくささにエイリクは義母から体を引き離した。


――兄に愚かしい醜態をさらしてしまった。


 ばつが悪くて何と言おうと言葉を捜していると、ヴァルファムはあっという間に間合いを詰めて冷ややかな眼差しでエイリクを一瞥し、エイリクには到底無理だと思われる容易さでファティナの体をひょいっと抱き上げた。

 突然のことでファティナの口から短い悲鳴があがり、クレオールが慌てたがヴァルファムはまるで人形でも抱くように義母を横抱きにした。


「エイリク」

「え、はい?」

「義母うえに近づくなと言った筈だな」

 冷たい口調に、エイリクは頬が赤くなるのを感じながら口を開いた。

「あの、ぼくの態度は……良くなかったです。反省しています。もう二度と義母(かあ)さまに酷いことはしません」


 兄は未だにエイリクが義母を傷つけると危惧しているのだ。

確かに前科があるのだからそれも当然だろう。けれどもうそんな気持ちは無い。

――この人を嫌い続けることは簡単なことではない。

優しくて、温かくて、まるで砂糖菓子のようだ。


義母(かあ)さま……?」

 兄の口からその単語が落ちて、ますますエイリクは気恥ずかしさを覚えた。

「――もう義母(かあ)さ」

まを煩わせるようなことは決してしません。

そう言葉を続けようとするのに、それは兄の低い唸るような言葉で遮られた。

義母(かあ)さま?」

 できればその単語を幾度も言うのは止めて頂きたい。

エイリクがますます身の置き所に困っていると、やがてヴァルファムは冷たい碧玉を静かにエイリクへと向けた。


「クレオール、エイリクを叩きだせ」

「ちょっ、ヴァルファム様?」

「今日中にこの屋敷から。私の手を煩わせることなくすみやかに」

 ファティナがぎょっとしたように声をあげたが、エイリクはそれ以上に驚愕した。


――兄さま?

何故突然そのような言葉を向けられるのか、エイリクはまったく理解できなかった。


 もう傷つけたりしないと言っているのに、どうやったら兄は信じてくれるのだろうか。

ヴァルファムに抱きあげられているファティナが抗議の声をあげながら暴れているが、ヴァルファムは少しも頓着していない。


ただ冷ややかな眼差しで――まるで憎しみさえ込めた眼差しで、エイリクを見返してくる相手の心がエイリクにはまったく判らなかった。



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