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提案

 廊下ですれ違う時、彼女は意を決するように深く息を吸い込んだ。

ぎゅっと腹部の辺りで指を組み、まっすぐにヴァルファムを見返して。


「ヴァルファム様、お話がございます」


 話すまでもない。

彼女がヴァルファムに対して口を開く時、その理由は知れている。

彼女の女主――そして、ヴァルファムの義母。彼女が戦いの意思を示したとき、それは決まってファティナのことだった。


 ヴァルファムは煩わしさに相手を睨みつけたが、面前の女性は一歩も引くまいとするように強い意志をひらめかせている。

 幾度か解雇(クビ)にしてやろうとも思ったが、生憎と女性の教師は珍しい。何より彼女は更に珍しいことに中流階級の出ではない。

 女家庭教師といえば、たいていが中流階級、商家の娘であることが多い。貴族の娘が仕事に狩り出されることなどはないものだ。

 ファティナにつける者は相応しいものでなければならない。男教師などもう二度とつけようとは思わない。以前のような過ちを許す訳にはいかないのだから。


「聞いておられますか?」

「聞いている――だが、廊下で話すことでもない。図書室で構わないな」


一番近い適当な場を提案しながら、ヴァルファムは面前で静かに怒りを蓄えている女についての書類を思い浮かべた。


***


 ファティナが未だに不安定な心をもて余していることにクレオールは気付いていた。何かが彼女の心を捉え、そしてそれを何とかやり過ごそうとしている。

 彼女の白く大きな愛犬のふっさりとした体毛に寄りかかり、ファティナは彼の耳の裏をしきりにかいてやっていた。

「ヴァルファム様が再来週にはお休みをいただけるとおっしゃってくださいました」

今朝の会話の一旦を、まるで救いの綱のように囁く。

「旦那様はわたくしがお見舞いに行ったら喜んでくださるかしら」

「きっと喜んでくださいます」

「……だと、宜しいのだけれど」

 ふっと物憂く吐息を落とし、ファティナはぎゅっと愛犬の首を抱きしめた。


「奥様」

「なぁに?」

――もう一度、問いただしてみようかという思いがクレオールの口を開かせたが、だがそれは大気に溶けて消えた。


――あの男は何を言ったのですか。

あなたの心を苦しめるものの正体は何なのですか。

そう、問い詰めて更に心痛を与えてしまう訳にはいかない。一旦伏せた瞳を開き、クレオールは微笑んでみせた。

「寒くはありませんか? 何かお飲み物を用意いたしましょうか?」

デザートでも?

矢継ぎ早に甘やかす言葉に、ファティナはくすりと笑い、ついで思い切るように口を開いた。


「――ヴァルファム様のご結婚のことなのだけれど」

突然の話題展開に、クレオールのほうが戸惑った。

「進んでいるの?」

「いえ、現在はヴァルファム様もお忙しく」

「……そう」

 ふっと視線を伏せたファティナは唇の隙間から呼気を落としこみ、困ったような微笑を浮かべた。

「判っているのです。わたくしも子離れしないといけませんわよね?」

 そうですね、とはさすがに追従できずにクレオールは穏やかな眼差しだけを向けた。

「判っては、いるのです」

ゆっくりと落ちる声音に、クレオールは(ひざまず)いてファティナの翡翠の眼差しと自らの視線を合わせた。

「ご理解なさっているのであれば良いのです。急に全てを変えようとしても無理がでるものですよ。ご自身の心に留めて、ゆっくりとそのようになさればいいのです。私にできることであればどんなことでもお力添えいたします。どうぞ、お一人で思い悩むことなどして下さいませぬように」


低く力強く言われる言葉に、ファティナはまるで全ての音を吸収するかのようにじっと耳を傾け、そして微笑んだ。

「では、今度眠れぬ時はクレオに添い寝を頼もうかしら」

「……それは」

「ふふ、冗談です」

 暗く沈んでいた瞳が、悪戯を喜ぶようにきらきらと輝きを取り戻し、クレオールは小さく笑んだ。


――いつもの主とは言いがたいが、それでも必死にいつもの彼女であろうとする。

彼の女主は、弱々しく見えて実は強い部分を持っているのだ。


***


「聞いておりますか?」

 厳しい口調でヴァルファムの寝台の悪い虫についての苦情を向けたメアリを前に、ヴァルファムは腕を組んで思案していた。


 メアリは言いたいことを一度も言葉をさえぎられず言えたことには(おおむ)ね満足していた。


つまり、女主と寝台を共にすることは倫理に反する行いであると。

害虫の駆除を真面目にして欲しいと。


まあ、概ねそのようなことをいつもより更にきつい口調で訴えたのだ。

そして、珍しくこの屋敷の主はその言葉をただ静かに聞いていた。反論の一つや二つ、嘲笑の三つや四つあるものと思っていたメアリにとって、それは意外なものだった。


 しっかりと苦情を言い切ったところで、ふいにヴァルファムが組んでいた腕を振りほどき、自らの頬と顎先に触れるようにして手を添えた。

「ヴァルファム様?」

 やけにじろじろと見られていることに不安を覚え、メアリは眉をひそめた。


「女史、確か御生家は――男爵家だったとか」

「今は叔父が継いでおりますので関係がございません」

「そう、貴女の父親の爵位は貴女の叔父に受け継がれ、そして貴女は現在では女家庭教師という訳だ」

 淡々といわれる言葉に、事実とは言え多少ムッとした。


「それが何か?」

「あなたは義母が好きか?」

「……ファティナ様は好きです」

 この男はいったいどうしたのだろうか。

いぶかしみながら応えれば、ヴァルファムはその冷たい碧玉の眼差しを細めた。


「そう、あなたは義母がたいそう好きなようだ」

「何か問題ですか?」

「いや、たいへん結構」


ゆるく口元に笑みを刻みつけた男の様子に、メアリは我知らず一歩退いた。

心臓がとくとくとやけに激しく鼓動し、なんとも落ち着かない気持ちにさせられる。それでも虚勢でもって背筋ばかりはしっかりとぴんと伸ばし、負けまいと対峙したものだが、ヴァルファムは口角を引き上げるようにして笑った。


――実に悪魔的な微笑を。


「あなたは幾つです?」

「……女性に年齢を聞くのはたいへん失礼です」

「ああそうですね。確かに――なに、私は気にしませんよ。あなたが私より随分と年上だとしても」

「失礼ながら年下です!」

 たかが二つ程度だが、年下だ。


「だから私は気にしません」

――そうですよね。あなたが気にする相手はいつだってファティナ様だけだ。

そう嫌味ったらしく言ってやろうかと口を開きかけたところで、ヴァルファムは言葉を落とした。


「あなたならば義母を大事にしてくれそうだ」

「どういう意味です?」


「あなたが私と結婚するのに相応しいということです」


淡々と言われた言葉にメアリは意識を飛ばしてしまいそうになった。



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