三人三様
メアリは女主の言葉に幾度も心の中で知っている歴代の聖人の名を並べ立てた。
「やっぱりヴァルファム様の寝台には虫がいます!」
これは由々しき事態ですという女主だが、まったく別の次元で由々しき事態だとメアリは思っていた。
朝食を終えて女主のもとを訪れれば、彼女は眉をひそめて不平顔で自らの胸元に手を当てた。
――聞いて下さいませ! また虫にさされましたっ。
唐突な言葉に、本当の虫に噛まれたのかと思ったのだが、その二の腕の内側にある鬱血の跡も、はたまた鎖骨にある跡も、明らかに虫害ではなく人害だった。
同じ室内にいる侍女達が困った様子で視線を下げているのがまたなんとも切ない。
「ですから、ヴァルファム様の寝台で休んではいけませんと」
あれほど申し上げましたのに……
「酷いのです。わたくしばかり。ヴァルファム様は虫にちっともかじられないなんてどうしてでしょう」
「……どうしてでしょうねー」
――貴女様をかじっている悪い虫が、そのヴァルファム様だからです。
言ってしまうべきか。いや、言ってはいけない。
メアリは自らの手の甲をぎゅっとつねった。
「もういっそ燻蒸してしまったほうがいいかもしれませんね」
棒読みでメアリは嘆息した。
――煙でいぶされて果ててしまえ。
***
「エイリク様!」
とうとうジゼリが声をあげた。
もともと短気な面も持ち合わせている乳母は、だらだらといつまでもヴァルファムの屋敷に滞在することも、ファティナと茶を飲んでいることにも反対していた。
「ヒースのお屋敷にいつお戻りになられるつもりですか」
「進学先を決めてからだ」
うんざりとしながらそれでも応える。
ジゼリはエイリクにとって育ての親――今までは唯一の肉親のようなものだった。
「ジゼリは聖騎士は諦めて頂きたいと思います。将来エイリク様がお子を成せないなどとても耐えられません」
ハンカチをぎゅっと握り締めてせつせつと語られる。
――聖騎士。
それを思うとふっとファティナが浮かんだ。
ジゼリはこういうが、あの女はどう言うだろうか。想像してみたが、おそらく反対はしないのではないかと思われた。
あのほやほやとした笑顔で「素敵ですわね」と言うだろう。
聖騎士。
兄であるヴァルファムが憧れた――そんな事実は無い――高潔な職種だ。
だが、素直に進むには心に迷いがある。果たして、それは正しいのか。自分は聖騎士たる資格を持っているのか。
「義母さまは……」
ふっと唇から零れ落ちた言葉に、ジゼリが目に見えて反応した。
「エイリク様! 何故あの女をそのように呼ばわるのですっ」
苛立ちを撒き散らす言葉に、エイリクはむっとした様子で相手を睨んだ。
「他に呼びようがないだけだ」
「あんな性悪女に騙されてはいけません! ヴァルファム様などは完全にたらしこまれているではありませんかっ。自分の義理の息子に手を出すような女ですよっ、汚らわしいっ」
すでにヒステリーをおこしているジゼリはまるきり憎むように暴言を吐き捨て、その内容の酷さにエイリクは呆気に取られた。
「旦那様がご一緒でないからといって淫らなっ」
「黙れっ」
咄嗟に吐き出した言葉に驚いたが、ソレ以上に驚いたのは次に出た言葉だった。
「義母さまがそんな計算高いものか! 性悪女? おまえはいったい何を見ているんだ? 愚か過ぎて悪意にちっとも気付かないような人なんだぞ」
「エイリク様っ、ああっ、私のエイリク様があの女に毒されてしまわれたっ」
「うるさいっ、出て行けっ」
怒鳴りあげて退出を命じ――ついで激しい虚脱感にエイリクはゆっくりと首を振った。
――計算高い?
そっと自らの唇を無意識のうちに指先でなぞった。
あの口付けも、優しさも、微笑みも、すべて計算の上だと?
それが事実であれば、あれほど性質の悪い女はいない。
だがエイリクはもうその言葉を信じることができない自分に気付いていた。
義理とは言え息子である自分を今まで放置していた女だと憎み続けるのは、どうしても難しい。
あの人と、そして母とは違う。
――エイリクを金で売り払った冷たい母とは、違う。
「義母さま……」
やはり兄は正しいのだ。
随分と年下の義母をきちんと慕っているし、敬っている。
自分も、きちんとあの人を義母と認めよう。認めることはまだ難しいかもしれないが、それでも、極力そうするように勤めよう。
新たな決意をすれば、何故か腹部にあった苛立ちが落ち着く気がした。
これならば聖騎士の資格もそう遠くなく得られることだろう。
エイリクは心底ほっとしていた――
そう、兄のすることに間違いなどない。
兄の言葉をもとから信じていれば良かったのだ。
――という完全に間違った思考を新たにするエイリクだった。
***
目覚めは――小さな憤慨するような声。
「ヴァルファム様っ、起きて下さいませ」
腕の中の義母が必死に声をあげている。軽く腰にまわした腕が揺れて、とんとんっと二の腕を叩かれる心地よさ。
微笑を浮かべてファティナの頬に自分の頬をすりあわせようと身を寄せたのだが、それよりも小娘様は忙しいらしい。
「やっぱり虫がいます!」
というファティナは自分の二の腕を「見てくださいませっ」というように示した。だが、どこに幾つ「虫刺され」があるのか当然ヴァルファムは知っている。
付けた当人であるのだから。
笑いを堪えながら「ここで眠ると虫に刺されてしまいますよと言っておいたでしょうに」と言うと、ファティナは上半身を起こして真面目に言った。
「どうしましょう。虫干しでは退治できませんでしたのね」
「なかなかしぶといですからね」
「ヴァルファム様は刺されておりませんの?」
「この虫はどうやら私を刺す気はないようですね」
笑いを堪えながら身を起こし、刺された腕をまんじりと見ているファティナに、ヴァルファムは更に意地悪く言った。
「首の下、鎖骨の辺りも刺されてますよ」
つっと指先でその部分をなぞると、ファティナは情けなさそうに眉をひそめた。
「寝台、交換してしまったほうが良いのではありません?」
「私は被害にあいませんから平気です」
さらりと言いながら、ふとヴァルファムは思い至った。
「消毒してさしあげましょうか?」
「まさか毒虫なんですか?」
「そんなことは無いと思いますが、念のためです」
どうして彼女はこんなにも愚かで無防備で――どうしようもなく愛しいのだろう。もう少し他人を疑うということを知るべきだろう。そう、他人を。
ヴァルファムは他人ではない。
だから自分のことは疑わなくとも良いのだが。それ以外の人間は全て疑うべきだ。
身を伏せて、昨夜彼女が眠っている間につけた幾つかの印にもう一度ゆっくりと全て口付けしていこうとしたところで、無粋なノックが扉を開いた。
「おはようございます」
義母の鎖骨の窪みに口付けようとしたところで無遠慮に扉が開かれ、ヴァルファムは不機嫌にそちらへと視線を転じた。
「クレオ、おはよう」
「おはようございます、奥様。よくお休みになられましたでしょうか?」
クレオールの後に二人の侍女がつき従い、その手には顔を洗う為に湯桶が持たれている。頭をたれて寝台の両わきにまわった侍女達は、静かに黙々と自らの主の朝の身支度を手伝った。
「よく眠れました」
ファティナは微笑を湛えて言うが、すぐに唇を尖らせた。
「でも、やっぱりヴァルファム様の寝台には虫がいるようなのです。クレオ、ヴァルファム様は寝台を交換なさる必要は無いとおっしゃるのですけれど、わたくしは交換したほうが良いと思うのよ。どう思います?」
ヴァルファムは笑いを堪えつつ、ちらりとクレオールを伺った。冷静な執事はほんの少しだけ言葉に窮したようではあるが、すぐに半眼を伏せて女主に答える。
「交換なさる必要は無いと思います」
「でも……」
困惑するファティナの頭を引き寄せ、そっとその額に口付けた。
「お好きになさい。何をしたところで変わらないと思いますが」
「わたくしは本気で心配していますのにっ」
「私の寝台で寝なければ良いのですよ」
そう、もう入り込まなければいい。
あの誘惑を堪えることに、そろそろ限界を感じている。
一つだけ、彼女の体に残した印――
それがゆっくりと数を増していくように、自分の感情を押しとどめることは困難なことだ。
口付けの回数が増すように、自分の体を重ね合わせその身を苛み、すすり泣きの内に名を呼んで欲しい。
ふっと自嘲的な笑みがこぼれた。
いつからこんな感情を持つようになったのか、愚か者。
――欲しかったのは女では無かった筈だ。
義母と共にいたい。ただそれだけであったはず。
その想いの変化はおそらくあまり良いものでは無いと理解しているが、ヴァルファムにはもはや止める術がない。
「さぁ、部屋に戻って着替えなさい。
それとも、私の着替えを見ていたいのですか?」