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眠れず

誰もいない静寂の中、何かに触れていないと背中から嫌なものが這い登るような感覚に、自分の体を抱きしめた。

耳の奥にどろりとこびりついたたった一言が自分の中に浸透し、悪いことがおこる不安で手足の先まで冷たく自らの一部ですらないような恐怖。

 こわくて、こわくて。

けれど、救ってくれる筈の人は、いない。


***


 強い酒の筈なのに、まるで水を飲むように味気なく何も蓄積されない。二杯をあおるように、三杯目は無意識。四杯目は、ただ睨んでいた。

 ヴァルファムは自室でブランデーを飲みながら、客間から持ってこさせた葉巻を手の中で弄んだ。

来客用のもので、ヴァルファムは好んでそれを使うことは無い。煙草を旨い不味いと考えたことはなく、煙草はただ煙草だった。

 だが腹にある感情を殺す為に必要であれば、煙草であろうと他の何かであろうと歓迎しても良い。

 葉巻の先端をナイフで切り取ると、ふいに扉のノックの音に視線をあげた。

「何だ」

クレオールが顔を出したのかと剣呑な口調で問えば、しかし扉をおずおずと開いたのは小娘様だった。

 ヴァルファムは手の中の葉巻を握りこんだ。程よい硬さで巻かれたそれはほんの少し形を歪ませる。口の中に、未だ吸ってもいない苦い味が広がるような気がした。


「何です?」


 ヴァルファムは出迎えなかった。

応接用の椅子に座ったまま眉宇をひそめて不安そうにしているファティナを見る。よく見るまでもなく、彼女はすでに就寝の寝巻きにローブというまったく出歩くに不都合ばかりな格好だった。

 義息の部屋を訪れるのにも不都合極まりない。

「あの、お邪魔……しました?」

「あなたが邪魔であることはありません。飲みますか?」

 煙草をケースへと戻し、ついで軽くグラスを掲げて見せるとファティナは戸惑うように瞳を揺らしたが、ほんの少しの好奇心か、やがてこくりとうなずいて見せた。

「美味しいのですか?」

「あなたにとって美味しいかどうかはわかりませんが、私は嫌いではありません」

 ファティナはぱたりと扉を閉ざしてヴァルファムに近づくと、テーブルを挟んだ反対側の椅子に軽く腰をかけ、ヴァルファムが新たにグラスに注いだ琥珀色の液体をしげしげと眺めた。

 その様子は小動物が得体の知れないものに対して警戒し、鼻を引くつかせているのによく似ている。そっと口をつけようとするのに対し、ヴァルファムは半眼を伏せるようにして冷ややかに言った。

「おそるおそる舐めるように飲むより、一息に喉の奥に流してしまいなさい。舌先で苦味を捉えるのではなく、喉の奥で感じるものです」

 その言葉に、ちらりと翡翠がヴァルファムを捕らえ、ついで思い切るように息を吸い込み、ファティナはそのグラスに唇をつけた。


 唇がグラスに触れた途端、くいっと一気に流し込む。

グラスの三分の二程も流し込み、だがそれは一気に彼女の喉を焼けつくしたに違いない。途端に激しくむせ返り、苦しげに胸元をぎゅっと押さえ込んで激しくむせこむ。

それを見ても、ヴァルファムの溜飲は下がらなかった。

 席を立ち、テーブルを超えて胸元にあるハンカチでファティナの口元をぬぐえば、恨みがましい眼差しが睨みつけてくる。

「美味しくありませんっ」

「飲むと言ったのは貴女だ」

「――意地悪なさいましたでしょう?」

 涙目のままのファティナを冷淡に見つめ、ヴァルファムは口元に笑みを浮かべた。

「ええ。意地悪をしました。そうなることは判っていた」

 素直に認めれば、ファティナは眉をひそめ唇を尖らせる。


うんざりとした。

腹の中にあるものを吐き出せる程子供ではない。そしてまた、いつまでも相手の心内をほうって置けるほど大人でもない。

「何かありましたか?」

「……眠れなくて」

「お酒は眠るのに役立ちますよ。それとも、アヘンチンキでも飲みますか? 少しばかり思考を損なうが、すぐに眠れる」

 また、意地悪を言っている自覚があった。

だがそれが何ほどであろうか。彼女はもっと底意地が悪い――この次に出る言葉は判っていた。


「一緒に寝てよろしいですか?」


怒らせた瞳が、今度は不安そうに揺れて自分の指を無意味に撫で回す。

耳が赤いのは、添い寝を必要とする年齢はすでに過ぎているのだと自分で理解していながらそれでも求める自分に対しての羞恥か、それとも酒によるものなのか。


――義息を男と意識して?


 あいにくとヴァルファムもそこまで楽観的ではない。

ファティナの思考回路は問題外だが。

 ヴァルファムはあからさまに溜息を吐き出して見せた。

「怖い夢でも?」

「……はい」

「一人では眠れそうにないのですか?」

「――はい」


更に深く息をつき、ヴァルファムはファティナの残した酒を一息にあおった。

「私の寝台には悪い虫がいるかもしれませんが?」

「大丈夫ですわよ。きちんと虫干ししてますもの」

――虫干しで抹殺されたと思っているらしい。

 皮肉に口元をゆがめてみれば、すでに眠れないと言っていた筈のファティナは小さな欠伸を一つ。何より、瞼が重いのか視線が下がっていた。

 強い酒の影響だろう。

このままファティナ自身の寝台に戻ったところで彼女は安らかな眠りを受けることとなれるだろうが、ヴァルファムはファティナの赤くなった耳たぶを見つめながら囁いた。

「先に寝台にいっていらっしゃい。灯りを落としてから行きますから」

その言葉に添い寝を許され、ファティナは小さくこくりとうなずいた。


――誰がヴァルファムを責められる。

 自分の妻を息子にまかせきりにした男にその権利があるとでも? 

体の深い場所でうねるのはどす黒い感情と欲望。ひねりあげて痛みとともに全て飲み込んで、無視するには大きいなにか。

 悪いのは、愚かな貴女だ。


暖炉の炎に灰をかぶせ、室内にある幾つもの灯りを全て消し去る。寝室に行けば、すでにファティナは寝台の中で身をまるめていたが、予想に反してその瞳は開いていて不安に揺れていた。

 眠れないというのは本当らしい。

吐息を一つ落としてヴァルファムが反対側から寝台に入れば、ファティナが身を寄せてくる。そうしてやっと小さく息をつくと、ファティナは小さな声で囁いた。


「ヴァルファム様」

誰もいないのに、その言葉は細心の注意を払うようにひそめられた。まるで、誰かに聞かれるのを拒むように。悪いことを招かぬように。


「妻は、夫の子しか産めませんわよね?」


――この小娘様は私を殺す気か?

 一瞬酸素の取り入れ方を忘れたヴァルファムは、まじまじと自らの隣で半眼を閉ざしてとろとろと眠りの淵に落ちようとしている義母を見た。

「何の話です」

 言葉が緊張に硬化するようだった。

「早く、旦那様とお会いしたい……ヴァルファム様、旦那様は――私に旦那様の子を授けてくださるのですよね?」

 言葉にしながら、ファティナはますます身を縮めるようにしてヴァルファムの体温を求めて安堵の吐息を落とす。

 とろりと睡魔に身をあずけながら、消え入る言葉をゆっりと落とし込む。


「旦那様、ずっと、ずっと……一緒に」

 音にならずに言葉は大気に溶けた。

睡魔と酒気にゆだねられた眠り姫は、とても幸せそうに。

「――っ」

 体の力が抜け切り、夢の世界に落ちた義母の姿を、ヴァルファムは憎しみすら込めて睨んだ。

「あなたはまだそんなことをっ」

 低く唸るような音が口から落ち、現と夢との狭間をさまようようなファティナが驚くように一瞬瞳を開き、やがてゆるゆるとまた沈もうとする。

 それがどうしても許せずに、無防備に身を摺り寄せて更に深い眠りを求めようとする小娘を前にヴァルファムは激しい感情の発露を求めた。

 どうしたら、この怒りが、憎しみが、憤りが――その全てが晴れるのかわからない。

あなたの子などどうでもいい。その体を激しく揺さぶり、そう怒鳴ってやりたい。

あなたの夫など死ねばいい。

――私だけを何故見ない。

 義息でも構わない。父を愛しているというならそれも認めてやろう。


共に生きて共に死ねと、ただそれだけのことを、あなたは何故許してくれないのか。


 乾いた笑いと共にうめくような声が漏れた。

「エイリクと――どんな約束をしたのです?」

ぼんやりとしたファティナが身じろぎし、その言葉の意味をゆっくりと逡巡するようにヴァルファムを見上げてくる。

 思考があやふやなのかもしれないが、ばつが悪いということは理解しているのだろう。

ファティナは困ったように眉を潜め、そっと自分を見下ろしている義息の頬に手を伸ばした。

「ご存知です、の?」

「私の部屋から二階の居間は良く見える」

 見たくも無いのに、見てしまった。

ファティナが自ら身を寄せて、自分以外の誰かに口付けする様など。

その時の感情は自分でもどう表現してよいのか判らない。咄嗟に窓ガラスを叩き割りそうになったのを留めたのはクレオールで、舌打ちと共に顔を背けた。

「怪我をなさいます。お気を沈め下さい。あれは――貴方様が奥様にお教えなさったことです」

 言われずともその口付けの意味を理解していた。

そう、それを教えたのはヴァルファム自身。自分との間だけのものだと釘を刺し忘れたのも自分。

それすら、必要など無かったのだ。今までは。


――約束。

それは、彼女にとってそれ以上でも以下でもないのだと。

だがそれはヴァルファムにとってどれだけの意味があることなのか、この小娘様は少しも理解していない。


「エイリクとどんな約束をなさいました?」

 先ほどよりは思考能力が戻ったであろう義母に、つとめて静かに問いかける。

その声音が冷たかろうと温かろうと、ヴァルファムは一向に気に掛けてはいなかった。もう、気にかけることを放棄していたのだ。

「……ナイショです」

 ファティナは眠気に抗うのがきついのだろう、重い瞼を幾度か瞬き、そっとヴァルファムを宥めるように頬を撫でる。

「もうあなたのナイショはうんざりだ」

頬に触れる手首を掴み、ヴァルファムはその中指の第二間接を噛んだ。


ファティナが一瞬その小さな痛みに瞳を開いて身をすくませる。


「私は言いましたよね? あの子供に近づくなと」

低く冷淡に聞こえるように言えば、ファティナは意識をすっかりと取り戻した様子で自らの手を引き戻そうと力を加えた。

「お、お説教ですの?」

 脅えの混じる瞳を覗き込み、ヴァルファムは口角を引き上げて微笑んだ。


「いいえ、理解の悪い愛しい義母うえ。

約束を違えれば、おしおきがまっていると――そろそろご理解いただいたほうが良いようですね」

掴まれた手首を必死で振りほどこうとするファティナは、すでに眠気など吹き飛んでいた。

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