動揺
そっとこちらを伺う様子は、腹立たしいことに言葉を使わなくとも相手の真意を伝えていた。
翡翠の瞳が不安に揺れて、時折ちらちらとこちらを伺う。
昼間の出来事でエイリクが何を考えているのか。そして、それを口にしてしまうのではないかという恐れ。
エイリクはうんざりとしながら、食事の途中にも関わらずナプキンで口元をぬぐって席を立った。
「失礼します――」
途中で退席するのは礼儀に反することだろう。だが、この場に留まり食事をする気にはもう到底なれない。
「あの、エイリク様デザートは?」
ファティナがおろおろと声をかけてくるが、それを拒絶して退出しようと足が扉に向かう。
「エイリク」
失礼にたいしての咎めかと思いつつ、兄の言葉にエイリクの足が止まる。
「進学についての考えはまとまったか?」
「――もう少し、考えさせて下さい」
自然と視線が落ちた。
兄の期待に応えたいが、果たして自分にはその資格があるのかどうか――この数日の心の乱れを思えばエイリクは早急に答えを弾き出すことができずにいた。
苛立ちのままにその足を食堂室からさほど離れてもいない居間へと向けた。昼間、あの女が来客をひっぱたいた場だ。
部屋の中はほのかに暖かく保たれ、今は人もない。
それでも幾つもの明かりがともされているが必要最低限に留められている為に部屋の端々は薄暗い。
昼間。茶などどうでもいいが、来客に詫びなければと思いなおし居間へと立ち戻ったのだが、客は早々に退出していた。侍女に問えば困惑顔で「怒っている様子はありませんでしたが……エイリク様、奥様はどのような?」心配そうに問い返され、エイリクはそれを睨みつけて黙らせた。
「主人の行動を容易く口にするな」
――何故、泣いたのだろう。何故叩いたのだろう。
どちらが非礼を?
苛立ちのままに窓辺から外を見れば、中庭が良く見えた。月明かりに芝生が反射し、ほんのりとした明るさが満ちている庭だ。エイリクの暮らすヒースには中庭に迷路が作られているが、ここにはそんなものは無い。それだけの敷地が無いのだ。ここは王都――広大な土地を持つヒースとは違う狭い箱庭。
中庭の左手にの三階、やがて明かりの灯されたのは兄の私室だ。カーテンが引かれている訳ではない為に兄が動いているのが見える。
執事と何やら話しているのを捉えながら、何故か複雑な心境になった。
聖騎士となって兄の期待に応えたい。果たしてそれが自分にできるのだろうか。
「まだ離れに行くおつもりですか?」
どれくらいぼんやりと兄の部屋を見ていたのか、ふいに人の話し声が耳に届いた。
開け放たれた居間の二枚扉から廊下の声が入り込む。
「せっかくエイリク様に焼き菓子を作りましたのに……昼間のお茶も召し上がらなかったようですもの」
「奥様、トレーは私が持ちますから。離れにたどり着く前にこぼしてしまいますよ?」
呆れたような声は、それでも楽しげだった。
声の女は確かにメアリだとエイリクはちらりと考えた。ファティナについている付添い人は、使用人としては馴れ馴れしい程にあの女と会話を交わしている。
「エイリク様に……――」
ふっと、ファティナは言葉をとぎらせ、そして室内にいるエイリクの存在に幾度も瞼をふるわせた。
開かれた扉を隔て、廊下と室内で。
「まぁ、こちらにいらっしゃいましたのね?」
「いけませんか?」
きつい口調で応えたが、ファティナは淡い笑みを浮かべて室内に入ると、自ら部屋の明かりを増やそうと蝋燭へと手を伸ばし、銀のトレーを持って持っていたメアリが慌ててトレーをテーブルにおいて彼女の手からその仕事を取り上げた。
仕事を取り上げられたファティナはくるりと身を翻し、エイリクにソファを示した。
「お茶に致しましょう?」
「……そんなことを言いたいんじゃないだろ」
ぶっきらぼうに言えば、ファティナは多少強張るような表情を浮かべ、すぐに姿勢を正した。
「昼間はごめんなさい。おかしなところを見せてしまいました」
「紳士を叩くなど、常識外れもはなはだしい」
「そうですわね――ええ、そのとおりだと思います」
顔色が白くなり、瞼が伏せた。
自分の手を組み合わせ、もぞもぞと動かしながら、そして思い切った様子で一旦さがりかけた顔をひたりとエイリクへと向けた。
ありったけの勇気を振り絞るように。
「ヴァルファム様にはナイショにしていただけませんか?」
「――自らの失態を兄に知られるのはお嫌みたいですね」
「イヤです」
嫌味ったらしく陰湿な口調で言ってやったというのに、ファティナは意外なほどさらりとそれを認めた。
「心配をさせてしまうのは、イヤです」
判ってる。
彼女が叩いたのは――何か、あの男がそれだけの非礼を働いたからだ。こんなほやほやとしたバカが自ら好んで暴力的にでるとは思わない。
ちっと舌打ちをし、エイリクは苦い思いで視線をそらした。
「言いません」
自分だって兄に無闇に心痛を与えるのはイヤだ。
エイリクはぶっきらぼうな調子で応え、そしてふっと視線をあげるとファティナは満面の笑みを浮かべて自分を見ていた。
「ありがとうございます!」
そして、それはおこった。
ファティナは容易くエイリクの前に近づくと、心持ち身を低くしてほんの優しく、音すらしない――キスを、した。
「約束です」
ふっと柔らかく触れた唇の感触に全身が硬直し、まるでオイルのさしていない蝶番のような不自然な強張りが体を支配する。
両目を見開いて面前の女を見ても、この女ときたら自分が今やったことに対して何とも思っていないのか、晴れやかな微笑を湛えていた。
「お茶に致しましょう?」
「なっっっ」
はじき出された言葉は、ただの音となった。
ずざりと身を引き、無様にも口が戦慄いて次の音を必死に探す。
今、今……
「何をするんですかっ」
「何か?」
きょとんっとしたファティナと、その背後で顔色を悪くして顔をそらしているメアリ。
「どうしてキスなんてっ」
「まぁ、エイリク様はご存知ないのですね」
ファティナはふふっと微笑んだ。
「約束の印です。きちんと約束を守る証に家族はキスするのです。キスして交わした約束は絶対に守らないといけないのですよ? でないとおしおきされてしまいます」
精一杯こわいことがあるような表情と声音でおしおきという単語を口にして、けれど彼女は楽しそうにくるりとテーブルへと向かった。
「今日のデザートはわたくしが昼間のうちに作ったのです。生クリームと木苺も添えて召し上がりましょう?」
約束の証に家族はキスをかわす?
一般的な家庭というものを知らないエイリクだとてそれくらいは知っている。
そんな阿呆なことをしでかす甘ったるい家族などあるか、バカ!