戸惑い
寝台の横にあるボードの上に、その本は置かれている。
他にも幾つか大事なものはあったが、とりあえず今回はこの本だけを持参した。黒い装丁に金色の飾り文字でタイトルが入れられた学術書だ。
本は大変に貴重なもので、その装丁は装丁師が一冊づつ丁寧に施してくれるものだ。活版印刷の普及で手に入りやすいといったところで、容易く購入できるものではない。
エイリクが暮らすヒースなどその最たるもので、本の入手は非常に困難だ。
それでも――兄は季節の折々に、誕生日に、何かの祝いにとこまめに贈り物を届けてくれた。当初など人形などが目立ったものだが、最近では学術書や新しい黒板、手紙の為の便箋と年齢にあわせたものを送ってくれる。
誰にも見向きされない弟を兄は忘れてはいなかった。
手紙の一つもつけてくれれば良いのにと拗ねたこともあるが、その気持ちだけでも嬉しかった。
家族の優しさを分けてくれたのは、兄だけだったのだから。
***
「奥様っ、お止め下さいっ」
珍しくクレオールの大声が響いた。
昼食が終わり、クレオールはファティナのことを家庭教師であるメアリに任せて屋敷内の掃除の状況などを点検していた。その矢先、足を向けた階下の厨房の入り口で一塊になっている使用人達の群れに「何をしているんだ」と叱責しようとしたのだが、半分だけ厨房に体を入れていたメアリがぎくりとした様子で顔を向け「奥様っ、クレオールさんですよっ」と、まるで悪戯の見張りまがいなことを言う。
クレオールは厨房内にファティナがいるという事実に血の気を引かせ、慌てて厨房の入り口に手を掛けて中を見た。
さして広くも無い厨房のテーブルの前、彼の女主はオフ・ホワイトの粉にまみれてけほけほと横を向いて咳をした。
その前では料理番のエマが腰に手を当てて、
「咳なんかしたら粉がまた撒き散らされちゃいますよ」
などと楽しそうに言っている。
楽しそうに言っている場合ではないだろう。
「奥様、何をしているのですか」
「あら、クレオ――丁度良かった。あのね、バターをホイップするのです。ホイップって判りますか? わたくしやってみたのだけれど、とても硬くて。お願いして構わないかしら?」
白くなった手でボールを示された。
クレオールは何をしているのか尋ねたのであって、クレオールが何をするのかを尋ねた覚えはないのだが。
軽く息をついてもう一度同じ問いを口にした。
「なにをなさっていらっしゃるのですか?」
「焼き菓子を作っているのよ? 今日のデザートです。クレオも楽しみにしてくださいな」
「……それは奥様のなさることではありません」
「母親は息子に焼き菓子を焼くものです!」
やけにきっぱりと言い切るファティナの様子に、思わずクレオールは薄暗い天井を見上げてしまった。
ああ、隅のほうにクモがいる。
クモは益虫だから殺してはいけないが、巣を作られる前になんとかしなければ……
現実を逃避している場合ではない。
「わたくしのお母様もわたくしの小さな頃にはお菓子を作って下さったのよ?」
けれどきっとファティナ様のお母様はファティナ様のように粉まみれになったりしなかったでしょうね――という言葉をクレオールは飲み込んだ。
幾つかの案が脳裏をめぐる。この場を収めるのにいったいどういう言葉が相応しいのか。
クレオールは困ったような柔らかな笑みを浮かべ、ついで厳しい眼差しで使用人達に命じた。
「生地ができあがった後に入れるように沐浴の準備を――エマ、材料は全て測って用意してさしあげてくれ。それと、私にエプロンを」
結論。
早めに終わらせる。
おそらくこの焼き菓子をヴァルファム様は召し上がるだろう。きっとファティナ様は誇らしげに自分が作ったのだと報告もする筈だ。
菓子を作ることに対してヴァルファム様は軽く苦言を呈し、それでもお喜びになられるに違いない。自分の為に作ってもらったものだと勘違いしている間は。
「クレオ?」
クレオールの引きつった口元に、ファティナは小首をかしげて名を呼んだ。
「エイリク様に作ってさしあげたいのですよね?」
「ええっ。あ、勿論クレオの分も」
気を使って頂いて申し訳ないが、その気はまったく別のところに使ってもらいたかった。
「ヴァルファム様もお喜びになられますよ」
「だといいのですけど」
ふと、ファティナは言葉をとめ、頬を染めた。
「美味しくできたら……今度旦那様に作って差し上げたら喜んでいただけますかしら」
――無理ですね。
旦那様は甘い菓子を好まない。かろうじて果物を召し上がるくらいだ。
クレオールは一旦停止してしまった思考をたたき起こし、微笑を湛えた。
「バターをホイップですね」
ちらりとメアリへと視線が向いた。自分以外にこの女主を止めることができるとすれば彼女くらいだと信じて女主を任せている。だがその効力はあまり強いものではないようだ。
しかし最終的にクレオールだとて女主をとめられないのだから、結局は誰をつけても同じなのかもしれない。
今のところ転職は考えていない。
とりあえず二度くらいしか。
せっせと生地を作り上げ、最終的に姿を現したのはカップケーキだった。生クリームを添えてお茶の時間に出すのだと意気込んだファティナを浴室へとおいたて、クレオールはオーブンをエマへと任せて大きく息をつく。
どうして女主はああ破壊的に不器用なのだろうか。
いや、レース編みはとても得意だ。ただし刺繍は花をモチーフにしているのか奇怪なイキモノをモチーフにしているのか判別するのが難しい。
そして料理もまた、彼女にとって難解であると証明された。
クレオールはその疲れに思わず首筋に指を入れて襟首を軽く緩めてしまった。
そのタイミングを見計らった訳でもないだろうに、ばたばたと侍女の一人がやってきて執事の姿を認めると安堵の息をつく。
「クレオールさん、お客様がおいでのようです」
「来客の予定は無いが」
ベストのポケットから鎖につないだ懐中時計を引き出してその銀板を覗くと、菓子作りに半刻――手際よくすんだと口元が緩んだ。
「馬車の様子からソルドさんだと思われます」
「……あの人は事前に連絡するということを知らないのでしょうかね」
多少げんなりとしつつ、クレオールは一度緩めてしまった襟首を手早くなおした。
来客を迎えるのは執事の仕事だ――
***
お茶の頃合ということでエイリクは勉強を切り上げ客室のある離れを出て、母屋である屋敷へと向かう為に上着に袖を通した。
「エイリク様、そろそろお屋敷に戻りましょう」と乳母のジゼリが最近熱心に言っているが、未だ進路は決まっていない。聖騎士を目指す為にはあの腹立たしい壁を越えなければ自らが許せそうにない。まずはアレだ。あの馬鹿女を乗り越えてからのこと。
ジゼリの口やかましさはいつものことであると放置し、エイリクは中庭を抜けて歩んだ。
左手にある厩舎に箱馬車が止められている。来客のものかとちらりと考えたが、あまりそれに関心などは寄せなかった。
母屋の屋敷へは正面を回るのが面倒で一階のテラスから入り込んだ。そこで拭き掃除をしている侍女が慌てて頭を下げるのを無視する。
普段からお茶の場所は決まってはいない。天気も風の頃合もよい時には中庭にテーブルを並べたりもするようだが、通ってきたかぎり今日は中庭ではない。だから当然二階のプライベート・エリアにあるファティナが普段からいる居間だろうと中りをつけたのだが、エイリクの予想は見事に的中し、そこに彼等はいた。
――パシリという乾いた音。
見知らぬ男が身を屈め、この屋敷の女主の耳元に唇を寄せていた。
その光景に息を飲み込み、自然と瞳孔が萎縮する。
耳に口付けでもするのかと思ったが、それは何かを囁きかけるだけだった。
息さえ飲み込んだその時、執事であるクレオールが足を踏み出すより先に――彼女は咄嗟に男の頬を平手で叩いたのだ。
そして自分の行動におののくように瞳を見開き、やがてひどくゆっくり首を振った。
「わ、たくし……」
おびえてかすれた声。
眼鏡の男は口元に笑みを浮かべ、そしてクレオールが咄嗟に女主の宙に浮いたままの腕をとろうとしたのだが、彼女は身を翻して駆け出していた。
開いた扉にエイリクがいるのを、一瞬翡翠の瞳が捉えた。
だがそれだけだった。ファティナは唇をつらさにゆがめ、その翡翠の瞳に涙を溜めてエイリクの横をするりと風と共に駆け抜けたのだ。
「ソルドさんっ」
執事が珍しく声を荒げている。
それをぼんやりと耳にいれ、エイリクは咄嗟に身を翻していた。舌打ちと悪態が口から漏れる。聖騎士など到底なれそうにもないくらいの罵詈をはきながら、階段の踊り場でようやくファティナの腕を捕まえることができた時、小さな吐息が口から漏れた。
けれど相手の力も強くて、危うくぐんっと引かれそうになる。
男と女と言ったところで、相手は十六。自分は十一になったばかりで、身長だとて認めたくはないがあまり変わらない――わずかにファティナのほうが高いくらいだ。
「とまれよっ」
そのまま更に行こうとするからエイリクは怒鳴りつけた。
とまれ、このっ、馬鹿女!
さすがにそう言うことができずに、咄嗟にどう呼べば良いかわからずにエイリクは搾り出すように言った。
「義母さまっ」
――他に、言いようが無いじゃないか。
自分に対する言い訳は、次の瞬間吹き飛んだ。
ファティナがぎゅっとエイリクを抱きしめ、肩口に顔をうずめて身を震わせたのだ。
声を殺すようにファティナは泣いた。
熱い吐息と、涙とが伝わってくることに狼狽しながら、エイリクはわずかに背の高い相手をどうなだめたら良いのか判らずに、おずおずとぎこちなくその背をなでていた。
つらいとき、悲しいときに誰かにそうしてもらいたいと望んでいたことを。母親に抱かれてそうされたいと願っていたことを。
「……義母さま?」
もう一度途方にくれてそう囁こうとした言葉が、力強い言葉にかき消された。
「奥様っ」
階段を三段飛ばしという勢いでかけあがり、執事はその場においつくとエイリクの腕の中にいるファティナを容易く引き剥がし、抱き上げたのだ。
「ありがとうございました。お茶の用意が下にできておりますからどうぞご利用下さい」
慇懃、いやむしろ慇懃無礼な調子で言いながら執事はファティナの泣き顔を隠すように自分の胸に押し当てる。まるで害あるものから守るように。
その行動に激しい苛立ちと怒りが胸の奥にずんっと石のように落ちた。
――自分が彼女に害があるとでも?
咄嗟に浮かんだ言葉はやがて闇に沈んだ。
腹の中を奇妙な感情がめぐる。
優しく何かを囁きながら階段を上っていくその背を睨みつけ、ぐっと拳を握り締めた。
熱すら感じた首筋が、今はひんやりと冷たい。濡れて風に触れて、吐息は奪われた。
そんな女、嫌いだ。
大嫌いだ。大嫌いなんだ!
ちくしょうっ。