試練
高価な白き封書に、聖教会を示す紋章の蝋封――
敬愛する兄から渡された一通の封書を前に、エイリクは眉間に皺を寄せてただじっと考えていた。
兄が望んでくれたことならばどんなことでも諾とうなずき、兄に褒めてもらいたい。だが、これはまさに自分の一生を左右する問題だった。
聖騎士――神に身を捧げ、騎士の中でも高位に位置され尊敬、敬われる存在だ。高潔な兄が子供の頃にあこがれたというのもうなずける。
――ただし、エイリクはそこにあまり魅力は感じていなかった。
だが兄が薦めてくれたものだし、わざわざ教会の人間にまで打診し推薦状をとりつけてくれたと思えば魂が震える程に嬉しい。
確かに高潔な兄こそ聖騎士という職柄はふさわしい気がするが、果たして自分はどうであろうか。
「聖騎士! まぁ、なんてことでしょう」
乳母はこの世の終わりのように声を荒げた。
「止めて下さいまし、エイリク様。私はあなた様の可愛らしい赤様をこの腕にお抱きするのが夢なのです。聖騎士になどなってしまえば、赤様など望めないではありませんか!」
金切り声で言うジゼリを無視し、更に眉間に皺を寄せる。
妻帯することができないということは何の問題ではない。女などどうでもいい――母も、そして義母もオンナだ。あんなものと関わらずに生きていけるのであれば、喜ばしい程だ。
そう思えば、ぐんと聖騎士という道も身近に感じる。
断る理由はないように感じられた。兄の信頼も望みも嬉しい――残念なことがあるとすれば、兄の補佐につこうと思っていた夢が廃れてしまうことだった。
いいや、聖騎士といったところでやがてはその身を退くことになろう。そうすればいくらでも兄の為に尽力を尽くすことができる。聖騎士という崇高なる職種なればこそ、兄の為になろうというものだ。
そう、何も悩むことは無い。
「私の可愛いエイリク様がトンスラだなんて!」
聖騎士の道は申し分ない……だが、もう少し悩んでも兄は怒らないだろう。
***
エイリクは信じられない思いに首を振った。
母屋の一室、日当たりの良いテラスへと通じるその部屋に籐籠で作られた椅子があり、それにはふんだんにクッションがすえられている。
クッションに埋もれるようにして寝ているのは、蜂蜜色の髪を結い上げもしていないファティナだった。
部屋には誰もいなかった。
普段であれば誰かが必ず付き従っているというのに、今日この時の彼女は無防備にくーくーと寝息をたてて眠っているのだ。
いいや完全に誰もいない訳ではない。侍女が一人。
エイリクが居間へとたちいると、顔色を変えて「エイリク様……」と声をかけてきたものの、エイリクが冷たく睨みつけると更に顔色を悪くして「奥様はお休み中でございます、退出を願います」と必死の様相で言うのだがこれは無視した。
侍女はエイリクが女主に害を生さないにと心底気が動転しているようだが、一人しかいない為に人を呼ぶこともできずにただ白くなっている。
こんなものはいてもいなくても同じだ。
エイリクはもとより侍女など気にしなかった。
そんなことよりも、こんな場で居眠りなどしているこの愚かな女だ。
――馬鹿だ。
こんな風にこんな場で眠るなど本来あってはならない。
それを冷淡な眼差しで見下ろし、エイリクはふつふつと湧き上がる苛立ちと戦った。
蹴り飛ばしてやりたい。だがそんなことをすれば兄は怒るだろう。兄は騎士道精神のある素晴らしい人間で、こんな小娘を義母と認めて敬っている。
なんて素晴らしい崇高な精神の持ち主であろう。
だが、生憎とエイリクにはそんなことはできかねた。できかねたが、聖騎士を目指すのであれば何事も寛大な気持ちでもって接するべきなのだろう。
そう、聖騎士とは何事にも動じることもなく平等に接するものこそが相応しい。
ふっと、ファティナの睫が小さくふるえ、その翡翠の眼差しがゆっくりと開いた。
びくりと警戒するようにエイリクは自分の胸元に手を当て、一歩退きそうになった。
「旦那さま……?」
ぼんやりとした小娘は馬鹿なことを口走り、それから面前にいるのがエイリクだと気付くと幾度も瞬きを繰り返し、小首をかしげた。
「エイリク様?」
「――」
「何をしているのでしょう?」
それはむしろこちらの台詞であったから、エイリクは冷たい眼差しで「貴女こそ」と言葉を返した。そう、これはある種の試練だ――これに打ち勝てねば聖騎士など到底なれよう筈が無い。
「わたくしは……」
ファティナは辺りをきょろきょろと見回し、
「レース編みをしておりました」
と、 おかれた丸テーブルにあるソレにはじめて気付いたように笑ってみせたが、エイリクの表情は更に冷たさをはらんでしまった。
「居眠りですよね」
「……そうとも言うかもしれません」
「だらしの無い」
そんなことではいけないと思うのだが、どうしても口からこぼれる言葉が冷たくなる。
これは試練なのだ――大嫌いなこの女を相手に平常心を保つ。それができずしてどうして聖騎士になどなれようか。
兄の期待に応えられる男になりたい。
残念なことにエイリクは本気だった。
「エイリク様はお昼寝なさいませんの? 日当たりの良いところでうとうとするととても気持ちがよろしいのよ?」
むっとしているのか、唇を尖らせて言う。
エイリクは冷ややかさを増した。
「自室でなさればいい。居間などでそんなことをする淑女がいますか」
「ここはとっても気持ちが良いのです」
「そういう問題ではないでしょうに」
本当に馬鹿だろう。
エイリクが平常心など到底もてないと思ったところで、ふいにファティナはくすくすと笑い出した。
またその笑い方が癪に障る。
ムッとしたエイリクに、ファティナは言った。
「エイリク様は本当にヴァルファム様にそっくりでいらっしゃいますわね」
「……」
その言葉は、ほんの少しだけ嬉しかった。
敬愛する兄に似ているというのは褒め言葉だ。姿形は確かに似ていると自身でも思っている。だが、エイリクはその中身までも兄のようになれたら良いのにと願っていた。
心から。
「そんなに似ていますか?」
心臓がとくとくと期待に脈打つ。
頬が熱を帯びて、嬉しさに口元が緩みそうになるのを必死に押さえ込んだ。
ファティナはふわりと微笑んだ。
「はい、とっても似ていらっしゃいます」
「どこがでしょうか」
期待を滲ませて尋ねると、ファティナは微笑を湛えて言った。
「おこりんぼうなところが」
――急速に何かがしぼんだ。
口元が緩みそうになっていたものが、あっという間に別の緊張で引きつる。
この女はいったい何を言い出すのか。
「怒り方もそっくりです」
「……」
「兄弟って宜しいですわね!」
元気いっぱいの調子で言われたが、何が宜しいのか理解できなかった。
――ふっと、鼻から息がもれた。
ふ、ふ、ふっと三度程同じリズムで息をつき、ギっと面前のオンナを睨みつけていた。
「失礼致しますっ」
試練だ。
これは試練に違いない。
聖騎士を目指すには、まずあの女の前で平常心を保てるようにならねばならないだろう。
もとより高潔な兄が目指したその道を、容易く進める訳など無かったのだ。
あの女を前にして怒りに流されない自分になる。
見ていてください、兄様!
ぼくはきっと立派な男になってみせます。
どんな時にも平常心を保ち、誰よりも立派な聖騎士へとなってみせます。
兄様が目指すことすら許されなかった道を、きっとこの僕が歩んでみせます。
ぐっと拳を握りこみ、エイリクは部屋を出かけてもう一度足を止め、不思議そうに眉間に皺を寄せているファティナへと挑発するように言った。
「また明日お会いして宜しいですか」
「勿論ですわ」
ファティナがにこにこと応えるのがまたしても胸をかきむしりたいような苛立ちを与える。
この女を乗り越えてこそ、自分はきっと立派な聖騎士となることができるに違いない。
兄様もこの試練に打ち勝ち、あのような素晴らしい騎士道精神を鍛えたに違いない。
この女こそが試練なのだ!