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秘め事

 犬がいる。

尻に大きな尾をつけてぶんぶんと振り回している犬が。

 ヴァルファムは執務用の机に座り、肘掛けに肘を預けて胸の前で指を組み合わせ、穏やかな調子で言った。

「知っている通り、私はこの家の跡取りだ。だからこそ道を定められ、望むものにはなれなかった。

 だからといっておまえにそれを押し付けるのは間違いであるとは理解している。だが、一度考えてみないか?」

 磨き上げられた机の上には銀のトレー。

そしてその上には一通の封書がおかれている。もうすでに蝋封がはずされたそれは、ある教会筋の人間から届いた返信だった。

「聖、騎士ですか」

 エイリクは嬉しさと戸惑いの滲む言葉でつぶやいた。

「ですが、ぼくは……」

じっとその封書の紋章をたどるように見つめながら、それでもエイリクの言葉は探るようにつづられる。

「将来は兄さまの補佐をする心積もりで」

「その気持ちはありがたい。だが、聖騎士は名誉ある職種だし――何といっても私も子供の頃にはあこがれたものだ。おまえもきっとそうだろう」


嘘だが。


ヴァルファムは穏やかに言いながら、完全に嫌がらせを楽しんでいた。

聖騎士はその名の通りの神職だ。神に誓願し、その身を捧げる。当然一生を清いまま、端的に言えば童貞で過ごすことが定められ、見習いの間は司祭等同様にトンスラ――頭髪の上部をそり落とす――こととなる。

 完全無欠の嫌がらせだった。

どこの誰がそんな職種にあこがれようか。いや、いるのだろう。世の中にはそういった信仰心の厚い(やから)が。だが生憎とヴァルファムはそれに該当はしない。


「私には進めぬ道だ。おまえが進んでくれれば嬉しく思う」

「考えてみます」

「それと、おまえが義母うえを嫌っていることは承知している。ならばこそ、これ以上あの人に関わるな」

 まるでついでのように、けれどしっかりと釘を刺した。

何より大事なことを。


受け取った封筒を両手で持ち、エイリクはもっと話をしたい様子ではあったが下がるようにと命じるとそれまでぶんぶんからぱたぱたと振り具合をかえた尾を、最期には巻くようにして退出した。


「なんだ?」

 何か言いたげにじっと見ていたクレオールに視線を向けると、執事は淡々と言った。

「若様が聖騎士にあこがれていらっしゃったとは初耳でございます」

暗にとがめていることは容易く知れた。

「知らなかったとは意外だな」


――自分でも知らなかったが。


 ささやかな報復でほんの少しばかり溜飲が下がった。

おそらくエイリクはもう少し押せば聖騎士の道を歩むことだろう。生涯を神に捧げて一生キヨラカに過ごせ。

馬鹿め。

 時折(よこし)まな心を持つ者もいるというから男に襲われないようにせいぜい気をつけろ。

 ヴァルファムはその手紙と同時に届いた父からの手紙にとんっと指先を乗せた。

「義母うえは悲しまれるだろう」

「……」

「だが仕方あるまい。怪我ではな」

 

自然と口元が緩むのを引き締めて、悲しむようなそぶりでもう一度囁いた。

「馬車の主軸が折れるとは、運の無いことだ」

つぶやきながら、まったく別のことを考えていた。


――なんて悪運の持ち主であろうか。

馬車の主軸が折れるような事故などそうそうありはしない。そしてその事故のせいで従者が一人命を落としているというのに、この男ときたら足の骨を折る程度の軽症ですんだのだという。

 日々の祈りが通じたのかもしれぬが、ツメが甘い。

やはり神に祈るのではなくこの際悪魔にでも祈るべきかもしれない。


 手紙の内容はその間の仕事の指示、そしてしばらくは領地の本邸にいる旨――そして、ファティナへは、本邸を訪れるようにという文面。

 ヴァルファムは冷ややかにその文字を見つめていたが、おもむろに暖炉に放り込んだ。

「義母うえは?」


ただの時間稼ぎだと笑いたくば笑えばいい――自らの愚かさなど、自らが一番理解している。


***


「旦那様のどういったところがお好きなのですか?」

 メアリ女史の言葉に、ファティナは一度瞬きをし、そして穏やかな笑みを浮かべてみせた。

「全てです」

「すべて?」

 メアリの言葉は多少硬かった。

彼女の女主はレース編の手を止めて、少しばかり考えるかのように小首を傾ける。最近の彼女は随分と大人びた表情を浮かべるようになり、言葉さえ口にしなければ思慮深い女主とさえ思える。


ただし、言葉を操ると途端にほえほえとした内面がにじみ出てしまう為に決して世の中に放逐はできそうにない。

「こんなわたくしと結婚してくださいましたし」

――それはただの政略結婚だ。

財産の為の婚姻。詳しいことを知らないメアリであろうとも、そのような噂話であれば耳の中に入り込む。ただし、この手の噂話が行われるのは決まって階下でのことで、ここの使用人達は階上にあがれば決してそのような無駄な口は開こうとしない。その為にファティナの耳には入らないのだろう。


 何故ならばここの主が簡単に使用人を切り捨てる為だ。

使用人のことなどちっとも認識していないかのように振舞うヴァルファムだが、その実しっかりと自分にとって使い勝手の良い人間かそうでないかの識別はしている。

「どのようなところがお好きなのです?」

 切り込むように言えば、ファティナはまるで判で押したかのようによどみなく応えた。


曰く、高潔で、精錬で、思慮深く、素晴らしい夫。


 メアリは吐息を落とした。

――顔すら会わせない相手を、よくぞそこまで良く言えるものだ。これではまるきり絵の中の恋人。

物語の中の主役に恋するかのようだ。

「女史?」

「……旦那様のことを、良くご存知ですね?」

 溜息交じりになってしまった言葉に眉が潜まる。これでは馬鹿にしているようだと慌てたが、ファティナは気付くことは無かった。

「勿論、存じ上げておりますわ」

 彼女は微笑した。

「夫だから、ですか?」

メアリはどこか哀れむかのように女主を見つめた。


 自分の夫であるからという理由だけで、何故こんなにも恋焦がれることができるのだろう。自分が結婚していない為に判らないのだろうか? 自分ももし結婚すれば、彼女のように一心に相手に想いを募らせることができるのだろうか。

もしかしたら、それはそれで幸せなことなのかもしれないが。


 ファティナはくすくすと笑った。

「だってヴァルファム様のお父様でいらっしゃいますもの」

彼女の言葉に、メアリの心は急速に冷えた。

「ヴァルファム様はとても素晴らしい方でいらっしゃいますでしょう? お仕事もまじめですし、時々ちょっと意地悪でいらっしゃいますけれど、でも優しくて逞しくて、お美しくて、素晴らしい方だと思います。そのヴァルファム様のお父様なのですもの。旦那様が素晴らしいのは当然です」


メアリは言葉を捜した。

喉の奥が乾くような気持ちで、無意識にぎゅっと自分の手を握り締めてしまった。


彼女の女主は――いったい誰に恋をしているのだろう。

心臓がぎゅうっと掴まれたように苦しい。

酸素を求めてそっとあえいだ。

彼女の女主は恋を語る。

――義理の息子を見ながら、夫を語る。

その想いは……いったい、


 酸欠で倒れそうなメアリを正気づかせたのは、扉を叩くノックの音だった。

「どうぞ」

 ファティナが気安く応えれば、扉を開けて現れたのは彼女の義息――仕事を終えた義息はちらりとメアリを一瞥したが、すぐに彼の義母の元へと歩み寄り、慣れた所作でそのこめかみに口付けた。

「勉強は終わったようですね。よろしければ正餐まで軽く遠乗りにでませんか?」

「まぁっ、宜しいのですか?」

「その代わり、私の前に座っていただきますが。それでよければ」

「勿論かまいません」

 嬉しそうに微笑する女主と、そしてヴァルファムを見ることができずにメアリは喉を上下させて瞳を伏せた。


――好奇心猫をも殺す。

知らなければ良かった。知る必要などなかった。

メアリは伏せた眼差しで自分の組まれた指先を見つめ、それからつっと視線をあげた。


「それでは私は下がらせていただきます」


 私は何もしらない――真実など彼女(ファティナ)ですら気付いていないのだから。

これは秘め事。

私は決して静けさの泉に石を投じたりなどしない。

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