恋愛物語
離れに邪魔な荷物があるが、二日もたてばこれといって生活は安定したように見えた。
ただ、ファティナの様子が少しばかり気がかりでもあった。
怪我の間は決して目を離すなと命じたとおり、義母にはクレオールかもしくはメアリ女史がついている為に体の心配はしていなかったのだが、ほんの少しづつファティナの笑顔にかげりを感じていた矢先――彼女はヴァルファムに告げた。
苦しそうに、切なそうに。
「お話が、ございます」
ぎゅっとドレスのプリーツをつまみ、きゅっと眉根を寄せて思い悩む様子で言う義母に、ヴァルファムはまたエイリクと何かあったのかとも思ったがエイリクは昨日今日と寄宿舎の見学とやらで忙しくしている。ファティナさえ近づかなければ問題などない筈だ。
ヴァルファムはいつも通りに上着をクレオールへとあずけ、首を緩くしめているクラバットをさらに緩めながら穏やかに問いかけた。
「何か欲しいものでも? それとも――」
「まじめな話なのです」
きっぱりといわれ、ヴァルファムは首をかしげたがファティナの腕を引いて一人がけのソファに座らせると、自らはその顔を覗き込むようにして問いかけた。
「どうぞ」
彼女はとてもいいにくそうにもぞもぞと身を動かし、ますます顔をしかめて泣きそうな顔をしている。手元はせわしなく自分の指をつまんだりひっぱったりするものだから、ヴァルファムは落ち着かせる意味でその手をやんわりと包み込み、穏やかな調子でその顔を覗き込んだ。
「義母うえ?」
「わたくし……子供ができたかもしれません」
かぼそい声で囁かれた言葉に、ヴァルファムは聞き間違えかと「は?」と間抜けな音を出し、ついで「パールが妊娠でもしましたか?」と彼女の愛犬の名を持ち出してみた。あの犬はオスだったかメスだったか忘れたが。ぽろぽろと増えてもおかしくはない。
「違います、わたくしです」
しかし、ファティナはそう言い切り、ついでヴァルファムは声を荒げた。
「相手は誰ですっ。いつの間にっ? 隠し立てすると為になりませんよ!」
一気にぶわりと腹を満たしたのは怒りと殺意だった。
血液が沸騰したようにあわ立つ。
義母が妊娠? ファティナが、つまり、誰か別の男と?
クレオールか? それともカディル・ソルド? まさか下男や――くそっ、どこの誰がっ。
激しくきしむような気持ちのヴァルファムに追い討ちをかけるように、ファティナは顔をあげて言った。
「ヴァルファム様ですっ」
「殺すっ」
事務官と言えど、銃の腕も剣の腕も自信がある。正々堂々などとは言わない。後ろからでも物陰からでも構わない、その相手は絶対に――
「誰、ですって?」
地底から這い登るような言葉が漏れた。
「ヴァルファム様ですっ」
「……」
しんっと室内に静寂があり、はっと気付くとその場にいた侍女とクレオールの視線がやけに冷ややかに自分を見ていた。
ヴァルファムはごくりと喉の奥をならし、一旦きつく使用人達を睨みつけるとゆっくりと自分の呼吸を整え、引きつる顔面筋と戦う羽目に陥ったのだった。
「申し訳ありませんが、まったく意味が判りません」
身に覚えもない。
まったく全然絶対に潔白だ。
少なくとも妊娠するようなことを彼女にした覚えはない。
現実には――妄想で妊娠できるものならばしてみせろ。
「でも……仲の良い男女が寝台で休むと子供ができてしまうのです。なんということでしょう。わたくしちっとも知りませんでした!」
「生憎と私も知りません!」
体力というものが目に見えるものだとすれば、今の自分は激しくそれを削られたに違いない。
ヴァルファムはいやな汗をかいてしまった額をぬぐい、引きつった笑みを浮かべて義母をねめつけた。
「まぁ、ヴァルファム様もご存知ではありませんでしたの?」
「子供の作り方なら知ってますが。少なくとも男女が寝台に入った程度で妊娠するならば、あなたはもう随分と子沢山であったことでしょうね?」
「あら……そうですわね?」
やっとそのことに気付いた様子のファティナは、その翡翠の瞳を幾度か瞬いた。
ぎしぎしと胃が痛む。
ヴァルファムは脱力に凶暴な気を覚えながら微笑んだ。
「その知識はどこからきたのでしょう?」
「【白き騎士の剣】です。とっても素敵な恋愛物語でした」
ぽっと頬を赤らめる義母に、激しく怒りが募った。
――つまり、その本の内容は単純にして明快。
愛を囁きあう男女が同衾し、何という描写もなくその数ヵ月後には娘の腹は妊娠するという寸法だ。
乙女小説としてはありきたりの話なのだが、あまりにもあんまりな内容だ。
たかがこんな本の為に使用人に冷たい視線を向けられ、最低の烙印を押されかけたかと思えば腹立たしい。事実であればいくらでも甘受してやるが、事実無根で向けられると思えば腹立たしさもひとしおだ。
しかし今はすでにその誤解も解け、ファティナは罪もない義息を冤罪で苦しめたという罰の為にしゅんっと膝の上に両手を乗せている。
読む本くらい選べ!
まったくこの小娘様は。
忌々しいとばかりに言葉を募らせていたが、ファティナの反省を見てとるとヴァルファムはやがて大きく息をついてファティナの硬くなった手を握りこんだ。
「とにかく、あなたは妊娠などしておりませんから安心なさい」
それで話は終いだとぽんっと叩くと、あからさまにファティナは大きく息をつき、ふと自分の腹部を撫でた。
「赤ちゃん、いませんのね」
「……私の子などできたら困るのはあなたでしょうに」
冷たく言えば、ファティナは切なそうに微笑んだ。
「困りますけれど、でも――いないと思うとなんだか寂しいですわ」
他意はない。
他意などないのだ。
この小娘は、ただ子供というものを欲しているだけだ。
だが獰猛なものがせりあがるのを、どうして止めることができるだろうか。
ぐっと強くその手を掴み、ヴァルファムは微笑んだ。
――私の子供でよければ、産んでみますか?
そう言葉にしようとしたのを、ファティナは微笑でさえぎった。
「でも、今度旦那様が子供のことで来て下さるのですもの。寂しいのはほんの少しだけですわ」
「……子供、ですか?」
声が、震えた。
「ええ! 子供が欲しいのだとお手紙をさしあげましたの。この間のお返事では、子供のことで来て下さるって――きっとわたくしに子供を授けてくださるのですわ」
言ってしまってから、ぱっとその頬を染める。
「いやだわ、秘密にしてましたのに」
――息子は、こういう時に一般的な息子は、どのような顔をすれば良いのだろうか。
私は、うまく笑えているのだろうか。
生憎と自信はない。