給仕
母が自分を捨てたのは、5歳の頃のことだった。
父と母とが別れた原因は判らない。もともと父親とは滅多に会うこともなく母も奔放な女性で、自分を育ててくれた乳母のジゼリが言うには「お忘れなさいませ。あの方は多大な金でもって貴方を売り渡すような人でなしなのですから」と冷たいものだった。
母は人でなしであったので、子を育てる気などさらさらにない女だった。そう思えば感慨も浮かばない。
母は必要ではない。
ジゼリがいる。そして自分には兄がいる。年の離れた兄への思慕は募るが煩わせない為にも自分達は別々で暮らすのだ。ジゼリは時折りその兄のことを冷たく言うこともあったが、それは彼女なりの慰めでもあった。多少表現がおかしなこともあったが、ジゼリはいつだって養い子の為に生きていたのだ。
母は必要ではないが、父は再婚を果たした――自分が八つの頃のことで、再婚したのだという言葉しか知らなかった。
「新しい母君になられたというのに、なぜエイリク様の元に来てくださらないのか。情の無い」
ジゼリが憤慨するように言い、その後にいつものように抱きしめてくれた。
「エイリク様にはジゼリがおります」
もうどうでも良かった。
自分と五つしか変わらない娘が母などと滑稽過ぎる。父のすることに文句は無いが、あまりにも分別の無いということくらいは理解していた。
初めて義母に会った時――その時、胸に湧き上がった感情はおそらくまったく初めて感じた種類のものだった。怒り、憎しみ、憤り。まったく気にも掛けていなかったというのに、激しい嵐のように胸の内でそれらは吹き上がった。
彼女は、まるきり悪意も何もなく嬉しそうに微笑んだのだ。
その時に理解した。
この女は自らの義息を無視し続けていたというのにそれを罪とも思わずにいる――人でなしなのだ。
人でなしだからこそそんな笑顔を向けられる。
自らの罪など欠片も気付かずに。
――まるで自分を生み落としたあの女と、この女は変わらない人でなしなのだ。
「エイリク様は悪くありません。あの方が無神経なのですよ」
ジゼリは憤慨した様子で言葉を募らせた。
彼女の口は素直に言葉をつむぐ。それは時折心地よくもあるが、また時折酷く苛立ちをも与える。
エイリクは落ち着かない気持ちにさらに追い討ちをかけられたかのような気持ちに舌打ちをもらした。
「ジゼリ、もういい。部屋に下がれ」
「判りました。その前に何かお飲み物でも用意いたしましょうか」
ジゼリは主の機嫌のよしあしをすぐに捉えることのできる女だった。だが、飲み物という言葉にエイリクは不機嫌を増し、睨むようにして相手を追い立てていた。
紅茶をあの女に投げつけたのは、確かに短慮が過ぎた。
あの執事がかばったことに関しては正直にほっとしていた程だ――だが、その後は更に苛立ちを覚えた。
「クレオっ、クレオっ」
あの女は狼狽して必死に執事の顔を覗き込み、相手の上着に手を掛けてその無事を確かめていた。
それはまったく理解しがたい光景だ。何故、執事の身を案じるのだ。あの女は義理の息子を案じることなどできずとも、たかが使用人ならばその身を思うとでもいうのか?
――人でなしの分際で。
何よりもエイリクを落ち着かない気持ちにさせるのは、兄が――この屋敷の主である兄が何も言って来ないことだった。
あの女は、兄に何を告げているのだろうか。
あることないことを兄の耳に吹聴し、自らの都合の良いように操作しているのではないかと思えばいてもたっても居られない。面会を申し込んだが受け入れてももらえず、正餐は客室でとるようにと執事によって告げられた。
悔しく、そして苛立つ。
あの女が何を兄に告げたのか!
どうせ自分の都合の良いようにしか言っていないに違いない。兄は――心優しい兄は、あの女の言葉をどう受け取っているのだろうか。
時が過ぎる程に苛立ちは増すばかりだった。
***
幾度かエイリクが面会を求めていたが、ヴァルファムはそれに対して会う必要など当然覚えたりはしなかった。
そわそわと落ち着かないのはファティナもだったが、エイリク自身落ち着かないものがあるのだろう。だが、ヴァルファムは忙しかった。
そう、とても忙しい。
「もう自分でできます」
「駄目です」
ファティナが嫌がることをするというのは実に楽しい。ヴァルファムはやんわりとした態度でファティナに接していたが、ファティナは困惑を隠さずに不満そうに見上げてくる。
翡翠の眼差し。眉間に皺を寄せて唇を尖らせ。
「わたくしは子供ではありませんし……不都合があれば、ほかの方にお願いいたしますから」
差し出された匙――そう、右手を怪我したファティナの為に、彼女の食事の介助を申し出ているのだが、小娘様ときたら居心地が悪いというように顔をしかめてしまう。普段であればほえほえと笑っている顔が困惑と窮屈さにしかめられるのを見るのは、存外悪いものでは無かった。
おそらく、良い趣味だとはいえないだろうが。
「義母うえ、早く食べていただかないと私も疲れます」
「ですから、スープならば左手でも食べられますし」
「頑固ですね」
嘆息してとりあえず現在匙の上にある琥珀色をしたコンソメスープは自分の口の中に入れた。
冷えすぎてしまった。
いっそこのまま口移しで無理やり飲ませてしまおうかとよぎる。
軽く自己嫌悪に陥った。
まったく何を考えているのか。愚か者。
「それに、怪我はもう平気です。大げさに包帯など巻く必要など――」
そんな義息の心情など知らぬ気に、ファティナは不満を隠さずに唇を尖らせた。
右手の白い包帯へと視線を向けて、吐息を落とす。わずかに引き攣れるような気がするが、ただそれだけだ。この包帯さえとってしまえば、おそらく自分で食事だって可能だろうとさえ思うのに。
「駄目ですよ。あと数日は右手を使うのは禁止です」
ファティナは淡々と言われる言葉にますます不満そうに顔をしかめた。まるで重病人のような扱いだが当然そんなことは無いし、何よりファティナに不満を抱かせるのは、
「ヴァルファム様」
「なんでしょう」
「……ずいぶんと楽しそうですわね?」
そう、怪我をしてからというもの何故か彼女の義息は実に楽しそうにしているのだ。
微笑をたたえて嬉々としてファティナの面倒をみようとする。
髪まで洗われてしまう始末だ。
ヴァルファムはその後しばらく仕事だといって自室に引きこもってしまったが、夕餉の頃合には当然のように――このありさまだった。
怒るように姿を消してしまった義息に、また機嫌をそこねたかと不安にさえ思っていたというのに彼女の義息はむしろ機嫌が良い程だ。
「あなたは先日私の病気のおりに似たような反応をしていたと思いますが」
「まぁ! わたくしは心配して看病しておりましたのよ!」
「ええ。私も純粋に心配して看病しています。同じですよ。さぁ、我儘はもうお止めなさい。口を開いて。きちんと食事を済ませなければデザートは食べさせてあげませんよ」
純粋といいながらそれは激しく濁りを感じさせるが――それに気付かないファティナはデザートの誘惑に眉根をひそめた。
――絶対に楽しんでいる。
ファティナは恨めしそうに最後の抵抗としてヴァルファムを上目遣いに睨んだが、本日のデザートはファティナの大好きなチョコレートと生クリームのかけられた酸味の強い果物だ。自分の中でほんの少しだけ葛藤し、仕方なく口を開いた。
新しく匙にすくいあげられたスープを、ヴァルファムが息を吹きかけて軽くさまし、あまつさえそれを自分の唇に押し当てて温度を試して差し向けてくる。
ファティナは泣きたくなった。
洗髪の件といい、この食事といい居心地が悪すぎる。
救いを求めてクレオールへと視線を転じれば、クレオールはすっと視線を逸らしてしまった。
――見てませんから大丈夫ですよ。
まるで無言の慰めが聞こえてくるようだ。
と、決して友好的ではないにしろ食事を再開したところで廊下側が騒がしくなり、ヴァルファムとファティナの視線が自然と食堂と廊下とをつなげている二枚扉へと向けられ、いち早く動いたのは控えていたクレオールだった。
クレオールは早足で扉の方へと動いたのだが、それよりも早く――扉は開かれた。
「失礼します!」
甲高い子供の声に、けれどヴァルファムは頓着しなかった。
すぐに視線をファティナへと戻し「食事中に注意を怠るとこぼしてしまいますよ」と諫めるように言う。
反対に突然入室した弟といえば、食堂で――決して狭くない食堂で、わざわざ女主の横に椅子を置いて食事の介助をしているという一見まっとうそうでありながら結構奇妙なその光景に瞳を見開いた。
その視界の中に屋敷の家人であるクレオールが割って入り、一礼する。
「エイリク様、主は現在食事中でございます。何か御用がおありでいらっしゃいますなら事前に打診をなさいましてから面会をお求め下さい」
「面会を求めても断られるのは判ってる。邪魔だ、どけ」
「エイリク様」
「兄さま、どうかぼくの話も聞いて下さい!」
その怒鳴り声に、ファティナはなんともいえない表情を浮かべた。
「聞いて下さい、兄さま! その女があることないこと吹聴しているのは判ってるんだ。確かにカップを投げつけたことはやりすぎたと思いますが、だからといってその女の言葉ばかりを信じてぼくの話を聞いて下さらないのは酷すぎる。こちらにも言い分が――」
「食事中に乱入して不快なことをわめき散らすのがおまえの流儀か。エイリク」
かたりと匙をテーブルに置き、ヴァルファムは冷ややかな眼差しを弟へと向けた。立ち上がろうとするヴァルファムへと咄嗟にファティナが手を伸ばす。
伸ばしたのは右手――包帯の巻かれたその手に、エイリクはざっと視線を走らせて一瞬息を呑みこんだが、すぐに勢いをつけるように言った。
「大げさに包帯など巻いて。そうやって酷いことをされたと訴えるのがその女狐の手管ですか」
――メギツネ……
ファティナは瞳を瞬きつつ、その言葉の意味を自分の中の辞書を引き出して探ってみたが、あいにくと引っかかるものはなかった。
メ・ギツネ、メギ・ツネ、メギツ・ネ?
あまり良い言葉ではないだろうと理解できるのだが。
「おまえは随分と粗野な言葉を知っているな。呆れる」
「……」
かぁっと少年の頬が赤く染まるが、それを振り切るようにして下がりかけた視線を上げた。
「クレオール、たたき出せ」
「兄さま! 話を聞いて下さい」
「食事中だ。また改めろ」
「ではいつでしたら時間を割いて頂けますかっ」
少年の言葉に、ファティナはおずおずと二人の仲裁をしようとするのだが、ヴァルファムは冷ややかに言い切った。
「自らしでかした失態の非礼もわびぬ、作法も知らぬ礼儀知らずに割く時間などありはしない。今この瞬間に屋敷を出て行けとは言わない。だが、明日には出て行くのだな」
「兄さま……」
ぐっとエイリクは拳を握りこんだ。
何かを堪え、それから決意するように。
悔しそうに身を翻し、そして引き絞るように言った。
「カップを投げつけたのは……やりすぎました」
「誰に対して言っている」
冷ややかに言われ、エイリクは唇を噛んでおもむろにつかつかとファティナの前に立つと尊大に言った。
「すみませんでした!」
――それは決して謝っている様子では無かったのだが、ファティナはぱっと笑顔を浮かべた。
「よろしいのですよ。わたくしが悪かったのです。だから、ヴァルファム様――明日帰れだなんて冷たいことをおっしゃらないで下さいませ」
エイリク様が謝罪なされば宜しいとおっしゃっておいででしたよね?
そう続けられ、ヴァルファムは忌々しいとばかりに口元を引き結んだ。
「今の謝罪を受け入れろと?」
「あら、受け入れるのはわたくしでございます。エイリク様はわたくしに謝罪なさってくださいました。ですので、わたくしはそれを受け入れますわ」
普段はほえほえとしているくせに、こんな時ばかりは無駄に思考を巡らせる。
確かに、ファティナに謝ればと言ったが――自分の求めたそれとはだいぶ違う。ヴァルファムは苦い思いで眉間に皺を刻んだ。
認めないと言ったところで、まるで鬼の首をとったかのようにファティナは「ヴァルファム様の嘘つき」とはじめるに違いない。言った言わないの水掛け論ですらない。
ただの子供の意地の張り合いだ。
そして子供は決して自分から折れるということをしない。
ファティナは話は終わったとでもいうように微笑を浮かべた。
「ところでエイリク様」
「……」
「メギツネって何ですか?」
エイリクは絶対零度の眼差しで「この馬鹿」とファティナに叩きつけていた。