家族愛
右手に白く巻かれた包帯が痛々しさを誘うが――その実その怪我がまったくたいしたものではないということをヴァルファム自身承知していた。
痛みはあるだろう。おそらく明日、明後日になればその白い手には痣がはっきりと目立つこととなることも予想がつく。それでも骨に異常がある訳では無いこともその手に握りこんで確認をした。
だが万一を考えて医者を呼び寄せ、ファティナの治療を命じている間にヴァルファムは自分の執務用にと使っている書斎でペンを走らせていた。
「エイリク様が面会を求められておりますが」
二度目だった。
淡々とした調子でクレオールが言うのだが、勿論ヴァルファムは会う必要を感じてなどいない。だからそれについて返答はしなかった。クレオールは心得た様子で軽く視線を伏せ、ついで控えている侍女に合図だけを送る。
「義母うえは?」
「現在シアース医師が到着しておりますので、治療中でございます」
「誰をつけている?」
手元のペンは走らせたまま問えば、現在小娘様は彼女の家庭教師であるメアリ女史と共にいるという。
「家庭教師だろうに」
「職務と違うことは存じ上げておりますが、女史は時間が許すときは奥様の付き添いをなさっておいでですから」
付き添いという単語に、ヴァルファムは皮肉に口元に笑みを貼り付けた。まがりなりにも人妻でありながら付添い人がついているなど、まったく規格外だ。
むしろ逆であってもおかしくはない。メアリ自身が未婚女性なのだから。
「信用のしすぎではないのか」
「そのようにお感じになられますか?」
珍しく逆に問い返され、ヴァルファムは眉を顰め、しばらくペンを止めて「問題はない」と短く応えた。
――かの女史が自らの主へと向けるものを忠誠と分類してもおかしいものではないだろう。なんといっても、彼女は時折自らの女主の為にヴァルファムにさえ進言しようとする。
まったく意味はないが。
書面のほうに意識を戻し、署名をして吸い取り紙で一度しっかりとインクを吸い取る。
「僭越ではございますが」
と、前置きしてクレオールは言った。
「どちらにお届けすれば宜しいでしょうか」
「お前が知る必要は無いが、どうせあて先を見れば判る。届けておけ」
簡潔に言い切る主にクレオールは口を噤んだ。
――クレイディル聖教会。
恭しく書かれた文字が禍々しいと感じるのは間違いだろう。
***
呼び出された初老の医師ははじめのうちこそ慌てた様子を見せたが、ファティナの怪我に「舐めとればなおるさ」と豪快に笑っていた。
――冗談でもそんなことを言わないで下さい。
やけに真剣な顔でメアリ女史は医師に言っていた。医師の冗談にまで怒りを向けるほど女史を心配させたと思えばファティナも反省せざるを得なかった。
悪いのは自分だ。
叱られることも罰があるとしても甘受しよう。
だからこれは……その、つまり、罰なのだろうか。
上着を脱いだヴァルファムが白いシャツの袖を片手で器用に折り込んでいく。それを見ながらファティナは眉根を顰めた。
「あの、ですね」
「何です?」
「やっぱり髪の毛を洗っていただくのはちょっとご遠慮させて頂きたいのですけれど」
「その手ではろくに洗えないでしょう?」
義息はやたらと機嫌が良い様子で当然のように言うのだが、ファティナは完全に動揺してしまい気づいていなかった。
そもそも、彼女が自分の髪を自分で洗うなどということはない。
普段から侍女がやってくれることなのだから、右手が使えようと使えまいと、まったく関係が無いのだということを――生憎と進言してくれるものも無かった。
ヴァルファムはファティナの私室を訪れたおりにいたメアリ女史へと早々に仕事の終了を告げていた。作り物めいた笑みさえ浮かべ「ご苦労」などと労いの言葉まで掛けて。
「さすがに着替えを見るまではしません。早く着替えていらっしゃい」
浴室の中にある衝立を示す義息は両腕の袖口を二の腕の辺りまで折り曲げ、「全裸になれと言っている訳ではないでしょう? 化粧着で入浴なさればいい。髪を洗い終えたら出て行きますから。それとも、体も洗って差し上げましょうか?」などと完全にからかって楽しんでいる様子のヴァルファムの言葉に、ファティナはむっとした様子で唇を尖らせた。
「結構です!」
ぷいっと怒って衝立の向こうに消えてしまった義母をくつくつと笑いながら見送り、ヴァルファムは湯を張ったバスタブに腰を預けるようにして座った。
ファティナが嫌がっている様子がとても心地よい。憤りながらも彼女は結局は義息の言葉に従うのだ。
なんと愚かで愛らしい生き物であろうか。
侍女が洗い流し用の湯桶を幾つも用意していく。それを見るともしれずに眺め、十分な湯が届いたと思えば軽く手を払った。
「下がっていい」
「ですが――」
戸惑いにあふれた侍女が顔を見合わせる。
「体を洗う段になれば呼ぶ。髪を洗うことにおまえ達の手を借りることもない」
端的に言われ、それでも侍女の一人が思い切るように衝立の向こうにいると思われる女主へと声を掛けていた。
「奥様っ、宜しいでしょうか」
この時の侍女の言葉は多少足りなかった。
――退出して宜しいでしょうか。そう告げていれば、違う返答が戻ったかもしれないが、多少腹をたてながら侍女の一人に手伝われて着替えを済ませていたファティナは、着替えが済んだかどうかを問われたのだと思い、容易く応えていた「はい」と。
バスタブには首を預ける窪みが作られ、そこに首を預けて頭を出し、仰向けに細長い湯船につかるようにして髪を洗えるようにとなっている。
ファティナはこの真新しい【罰】に憤慨しながら、それでもヴァルファムの手に引かれて湯船に身を預けた。
寝巻きとして使う薄い化粧着が湯に触れて沈んでゆく。ところどころに空気の泡がぷかりと布地を押し上げ、やがて抵抗をうしなって湯に溶け込むように沈んでいく。何故か普段よりも多く湯船に落とされた幾つものユリの花の花弁が体から離れては近づくのを感じながら、どうしてもファティナは落ち着かない気持ちで眉根を寄せてしまった。
「窪みに首を預けて」
「まだ、怒っていらっしゃるの?」
諦めたのか、ファティナは瞳を伏せて言われたように窪みに首の後ろを預けて自然と自分の胸元に左手を乗せた。
ヴァルファムはファティナの頭の横――バスタブの縁に腰を預けるようにしながら微笑を落とした。
「怒っているとお思いですか?」
「これは……罰なのでしょう?」
居心地が悪いし、どう考えても普通のこととは思われずにファティナは言うのだが、言われた義息は喉の奥を鳴らして機嫌良く「返礼だと申し上げていますでしょうに」といいながら指先をゆっくりとファティナの髪に絡めた。
頭皮を指の腹でなぞるように丁寧に、軽く力をこめて触れていく。サボンを湯に浸して水分を十分しみ込ませ、ファティナの髪をゆっくりと湿らせる。ふわふわと揺れる髪が、いまや水気を吸ってその色の濃さまで変えていく。
そのやり方はいつも侍女がしてくれるそれとは違っていた。彼女達は乱暴でこそないが、髪を湿らせる為にそのようなまどろっこしいことはしない。髪の下のほうから決して顔に湯がかかったりしないようにと注意しながら、湯を直接掛けていくのだ。
だが彼女の義息はゆっくりと髪に湯を湿らせ、その都度もう片方の指で濡れた髪を解くようにすきあげていく。
はじめのうちこそ緊張か羞恥だかに支配されて強張っていた体が、やがてその強張りも解けてファティナはいつしか小さな吐息を漏らしていた。
「痛くはありませんか?」
「……とても」
うっかりすると欠伸が漏れてしまいそうで、ファティナは苦笑するかのように柔らかな言葉を続けた。
「とても、気持ちいい……です」
ぴくりと義息の手が止まり、その不自然さにファティナは伏せていた瞼を震わせて瞳を開いた。
「ヴァルファム様?」
「――気持ちいいですか?」
「ええ、とても」
「もっと気持ちよくして差し上げますよ」
ヴァルファムは不自然に力が入りそうな指を押さえ込むように逆に力を加え、苦笑を落として囁いた。
純粋に完全に楽しんでいた行為が、ファティナの不用意な言葉でまったく違う緊張を孕んだなどということを無防備に湯船に浸る小娘様は欠片も気づいていないのだろうか。
獣油ではなく植物油で作られた香り豊かな石鹸を丁寧に泡立てて、髪を洗ってやりながら、ヴァルファムは自らの内に宿るものとせめぎ会う羽目に陥っていた。
ほんのささやかな楽しみの筈であったというのに。
ファティナの髪に触れ、本来することのないことをただ楽しむ為であったというのに。一度意識してしまえば何もかもがまったく違う感覚を呼び起こしてしまう。
たとえば、首筋に、耳元に――泡のついた手のままでなで上げて、そしてまた逆に手を滑らせればどこまで触れることができるだろうか。
首筋をたどり、鎖骨をなであげ華奢な肩に触れて――髪を洗うのと変わらぬそぶりで、そのまま化粧着の下に触れて……何がいけない。
義母は嫌悪などしていない。
気持ちよいのだと吐息を落としているほどなのだから。その感覚を更に深く快楽へとかえてしまえば彼女は――
ヴァルファムはゆっくりと喘ぐように喉を上下させ、置かれた湯桶を掴むと一息にファティナの髪についた泡汚れを流した。
「終わりです」
「……最後はちょっと乱暴です!」
顔に掛かったではありませんかっ。
ふるふると顔を振る義母の言葉に、更にヴァルファムは身のうちのどこかが――逆に冷えた。
「時々あなたを見ているとムショウに腹がたつのは何故なのでしょうね」
「ほらっ、やっぱり怒っているではありませんかっ」
「怒っていませんよ。でも髪洗は終了です――侍女を呼びますから、あなたは湯船に沈んでいらっしゃい」
体を起こそうとしたファティナを乱暴に押し留め、ヴァルファムはおかれているタオルを引っつかむようにしてくるりと身を翻した。
――体を起こすな! 化粧着が張り付くじゃないかっ。
華奢な体に化粧着がはりついて、それでも膨らんだ胸が判る。
どくどくと脈打つ己を叱責し、ヴァルファムは隣室に控えている侍女にファティナを任せてその部屋を出た――途端に、ぶつかりそうな勢いで目の前に女がいた。
「何をなさっているのですか」
冷ややかなメアリは慌ててやってきた様子でヴァルファムを睨みつけた。
「また文句を言いにきたのか?」
ヴァルファムは苛立ちのままに冷ややかな眼差しを向けていた。
「文句かどうかはわかりません――貴方様が奥様に何もしていらっしゃらないのであれば文句ではありません」
だがその瞳は完全に信用していないようだった。
さぁ、白状しろという眼差しに、ヴァルファムは憎しみすら抱いた。
――何もしていない。
何も!
容易く手を出して失うことなどできないのだ。
信頼も愛情も、その優しい声音も、泣き声も囁きも! その全てを、今ある全てを失ってでも欲しい。だがその欲望に従い、完全にその全てを失い、彼女の憎しみだけを向けられた後の世界など――地獄に等しい。
死んでしまえ!
獰猛な怒りが腹を満たし、ヴァルファムはやがてゆっくりと微笑んだ。
「下衆の勘ぐりだな」
かっとメアリの頬が怒りに染まる。
「望む答えを与えてやろう――私が彼女に向けるものは家族愛でしかない」
地を這うような低い声でヴァルファムは告げた。
「理解したか」
言葉というよりも音のようなそれを吐き捨てて去るヴァルファムの背を呆然と見送り、メアリはぎゅっと自分の二の腕を握り締めた。激しく走る震えを必死に押さえ込むように。
――ヴァルファムはその時にメアリの身を震わせた感情を知れば激怒しただろう。
どれ程愛したとしてもその想いが適うことなどありはしない。
一度教会によって親と子として認可された彼等は、一生涯親子としての烙印を押されるのだ。
たとえ、この先ファティナの夫が死去したとして、その関係が親子以上の何かに発展することはありえない。
その時、彼女ははじめてその感情をヴァルファムへと抱いていた。
身を引き絞る程に切ない、哀れみを。