傲慢
大きく息を吸い込んだ。
どうせ義母が何かしでかしたのだというのは理解している。もともとエイリクというイレギュラー要素を前に、あの小娘様がじっとしているなど不可能に近いことだったのだ。
理解しがたいことだというのに、それがまたよく理解できた。
まったく言葉遊びのように面倒くさい。
彼女の奇行を止める為には一人になどしなければ良かったのだし、しっかりと手綱を握っているべきだった。
「何があった?」
乱暴に足を動かすヴァルファムの後ろ、息を切らして歩む侍女に問えば、苦しそうにしながらも精一杯というように彼女は口を開いた。
「エイリク様が奥様に紅茶を……カップごと、お投げになったのです」
だんっと足がいったん止まり、その背に侍女が危うくぶつかりそうになった。
「怪我は?」
「咄嗟にクレオールさんがおかばいになられましたから、奥様の怪我は……右手に少々カップが当たりましたようですが」
すぐに冷やしました!
おびえるように叫ぶ言葉に、ぎしりと奥歯をかみ締めた。
「酷いのか?」
「いいえ! ほんの少しかかった程度でございますし。即刻氷で冷やしましたので、水ぶくれなどにもなっておりません! 軟膏を塗れば明日にでも痛みはひくものと存じ上げます」
まるで強く言わなければ自らが怒られるとでもいうようにおびえて言う娘を一瞥し、ふっと息を吐き出した。
「義母うえっ」
いつもの居間の二枚扉を乱暴に押し広げれば、寝椅子に座るファティナと、そしてその斜めに跪いて女主の手を氷水で冷やしているクレオールの姿を目に入れることとなった。
その周りを侍女達が心配そうに見守っているが、ヴァルファムの姿にざっとよけていく。
「医師はどうした」
ヴァルファムは冷ややかな眼差しをクレオールへと向けたのだが、応えたのはファティナだった。
「それ程酷い怪我ではありませんわ。シアース医師をわざわざ呼ぶようなことはありません。シアース医師もお年ですもの」
分別臭い台詞を吐く義母へと、ヴァルファムは皮肉に口元を歪めてみせた。
「何故、怪我をするようなことになったのかお聞かせ頂いてかまいませんか? 我が親愛なる義母うえ」
やけに丁寧な口調にファティナはちらりと悪戯を叱られる子供のように義息を見上げ、
「ほんの些細な……意見の相違、のような気がします」
「ほぅ?」
「えっと、あの……本当は、良く判らないのです。でも、きっとわたくしが怒らせてしまったからで、エイリク様は悪くありませんわ」
歯切れの悪いファティナの言葉に、ヴァルファムはクレオールが持つ濡れタオルを抜き取り、執事がいた場に自らが跪くとファティナの冷たくなった手を掴んだ。
氷で冷やされた手は赤くなり、ぴくりと動くのはわずかにでも痛みがあるのだろう。
痛ましい気持ちに吐息が落ちる。
「エイリクはどうしている」
「客室のほうにおられると思いますが」
「あれは義母うえに謝罪したのか?」
その言葉には返答がなかった。
「謝罪がないのであれば会う必要もない。今夜の正餐も共に取ることはない。謝罪もなく客室に居座らせるつもりもない。一日だけ猶予を与え、退去させろ」
ヴァルファムは冷淡にそう命じた。
ファティナが慌てたように身を整える。
「そんなことおっしゃらないで」
「どんな理由があれば紅茶をカップごと投げつけてよい理由になるのか教えて頂けますでしょうか? それができないのであれば、どうぞ口出しなさいませんように」
「ですから、あれはわたくしが悪いのです」
「どう悪いのです」
冷たい手の甲が赤い。用意されている軟膏をもう片方の指先にとり、丁寧にその赤くなった手の甲へと塗りこめていけばファティナが居心地悪そうに身じろぎする。
なんとなくヴァルファム自身微妙な気持ちになりそうで、こっそり苦笑した。
「……エイリク様を叱ったりなさらないで」
「叱りませんよ」
ヴァルファムはあっさりと言った。
「あれに割く時間など私にはありませんから」
「……」
「叱る程の価値など無い。あなたに怪我を負わせたことは腹立たしい限りですが――もうご理解いただけましたでしょうね? 自らを嫌っている相手になどかかずらうものだからこのような目にあうのですよ。あれのことは忘れなさい」
何より、ああいう手合いには叱るよりも叱られないことのほうが身にしみるものだ、それにほかにも色々とやりようはある。所詮浅慮な糞餓鬼などに向ける気などありはしない。
――タダで済ませる気は毛頭ないが、それをファティナに言うこともない。
自らの手で暴力に訴える気はない、そんな価値など認めてやる気などない。だが馬車に細工して崖から落としてやりたいくらいの気持ちはある。どちらが良いかは判らないが。
ヴァルファムは淡々といいながら手当てを施すと、ついで軟膏の塗られた手に柔らかで薄いガーゼを当て、包帯を巻き始めた。
「でも、ヴァルファム様……」
「でも、何です?」
「あの方もわたくしの義息なのです。仲良くしたいと願うことは当然のことではありませんか」
「そうしてあなたは私を悲しませるおつもりなのですね?」
ぎゅっと強く包帯を巻かれ、ファティナが痛みに顔をしかめる。
ヴァルファムは微笑をたたえ、跪いたその姿勢――丁度視線を合わせて問いかけた。
「この怪我ひとつとっても、あなたの義息が悲しんでいないとお思いなのですか? でしたら貴女は考えを改めるべきだ。私はとても悲しんでいるし、怒っております。義母うえ」
「……ごめん、なさい」
真摯な眼差しにファティナは耐え切れない様子で視線をそらしたが、ヴァルファムはその頬に手を当てて固定した。
「エイリクを叱ってほしいですか?」
「それはだめです。悪いのは……わたくしなのですから」
「そうでしょうね。おそらく無駄にあれを刺激して怒らせたのは貴女でしょう。ですが、あなたに怪我を負わせた事実は消え去りはしない。それに対してあれが自発的にあなたに謝罪しない限り私はあれと対するつもりはない」
だから叱ることもないでしょう、安心してください。
不安そうに見つめてくる義母の瞳の下に口付けた。
ほんの少しの塩気は、涙の味だろうか。口元に更に笑みが浮かんだ。
肉体的にではなく精神的な衝撃とやらについての幾つかの報復行為が脳裏をよぎる。下らぬ子供の喧嘩に大人がでるようなものだが、大人を怒らせればどのようなことになるのか理解させるのもまた大人の役目だろう。
「あまり私を心配させないで下さい。あなたの痛みをこの身に受けられたらばどんなに良いか」
「おおげさだわ、ヴァルファム様」
ファティナはエイリクを叱らないという言葉の意味を履き違えでもしたのだろう、安堵したのかやっとふわりと微笑んだ。
それを見つめ、ヴァルファムは半眼を伏せて白い包帯に包まれた手を見つめた。
――あなたは気安くアレを義息などと言う。
自分が安楽に過ごすその言葉の上に、あんなものを同列に並べようとする。
あなたはそんなにもこの義息を傷つけたいのか。
「なぁに? 何か面白いことでもありまして?」
顔を伏せて小さくクっと喉の奥を鳴らした義息の雰囲気が柔らかさを取り戻したことに安堵したファティナが問いかけると、ヴァルファムはゆっくりと首を振った。
あなたほど傲慢な女など、きっといないに違いない。
「この手では食事もままなりませんね。なに、安心なさい。私がきちんと介助して差し上げますから」
「……結構ですわよ」
「遠慮は要りません。せんだっては私が病気のおりに義母うえが献身的に看護なさってくださいましたからね。当然あなたの義息としましては、その時の多大な恩義に対して返礼する用意があります」
にっこりと実に楽しそうに言う義息の言葉に、ファティナは困惑するように眉をひそめた。
「うちには幸い他にも一杯人がおります。何もヴァルファム様がなさる必要はありません」
「その言葉はそのまま義母うえにお返し致しましょう。
あなたは私が病に臥しましたらきっと優しくまた看病なさってくださるのでしょう? 当然その好意に対して同じものを――それ以上のものをお返し致しますよ」
ヴァルファムはむしろ上機嫌でファティナの耳の後ろをなでた。
「髪も洗ってさしあげましょう」
ファティナは頬に赤みがさすのを感じながら視線をそらし、唇を尖らせた。
「意地悪をなさっておいでですね!」
――それは義母の勘違いだ。
意地悪などではない。
本気だ。