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子犬

「なぜ、あなたが来るのです」

冷たいエイリクの言葉に、しかしファティナは笑いを堪えるかのような顔をしてしまった。


 客室の二階部分がエイリクへとあてがわれた場所であった。

一番良い三階の部屋はヴァルツがいつ来ても良いようにとあけられている。その為にエイリクの部屋は二階室となったのだ。

 はじめて離れへと足を踏み入れたファティナだったが、案内はすぐに見つけることができた。一階のホールでクレオールが荷物の采配をしていた為だ。ただし、クレオールはファティナを見た瞬間、まるで幽霊にでも遭遇したかのような奇妙な顔をした。

 ほんの一瞬のことではあったが。

「奥様……何をしておいででいらっしゃるのでしょうか」

「エイリク様にきちんと挨拶しようと思って」

 ファティナは何の悩みもなさそうな笑顔を浮かべてみせた。実際に悩みなど無いのかもしれないし、エイリクに対して思うこともないのかもしれない。だが、この屋敷の人間であれば誰一人として笑って彼女とエイリクとを並べて眺めたいとなど思わない。


――エイリクが彼女を嫌悪していることは、ヴァルファムがファティナに対してどう思っているのかという程に周知の事実だ。誰も口にしないだけで。

 そして、クレオールは現状を誰よりも把握していた。

「ファティナ様、エイリク様は長旅からついたばかりですのでゆっくりと休ませてさしあげたほうが宜しいと思いますが」

「せっかくいらしてくださいましたもの。お茶を飲みながらゆっくりとお話すればきっと仲良くなれると思うのです」

 主は聞いてくれなかった。

ファティナという女性は、時折酷く頑固にもなるのだ。


「クレオ、ほんの少しで構わないのです。わたくし、エイリク様とも仲良くしたいの」

真摯に見つめられたクレオールは瞠目した。

「お茶を飲む間だけでございますね?」

「ええ! わたくしが淹れてさしあげて良いかしら? 最近少しは上手になったのよ」

とたんにファティナの翡翠の瞳がきらきらと輝いて見上げてくる。

確かに最近の彼女の淹れた茶はおいしいこともあるが、時折酷く不味いこともある。練習用にと淹れてもらうこともあるクレオールはやんわりと微笑し「私がご用意致しますから、どうぞ奥様はエイリク様とご歓談をお楽しみください」とその提案は退けた。


 それでなくともエイリクへと意識が奪われてしまっているような現状では、おそらく彼女は蒸らし時間などで失敗をしてしまう。

 もともと険悪だと判りきっているのだから、それならばせめて美味しいお茶でもってあいての心をほぐせればよい。

 クレオールの考えは――実際にはあまり役には立たなかった。その茶を飲むものはいなかったからだ。


***


「なぜ、あなたが来るのです」

冷たいエイリクの言葉に、しかしファティナは笑いを堪えるかのような顔をしてしまった。

クレオールが茶の乗る銀色のトレーを手に、ファティナに従うように現れたのを見てエイリクは表情を強張らせた。

 

 部屋の様相は個人用の居間となっていた。

ファティナが普段使っている部屋よりはずいぶんと狭いが、趣味の良い調度品が並び客間として不自由の無いように作られている。左手奥に続く扉には寝室が作られ、手前には使用人の為の小部屋が用意されているのだろう。

居間には応接用のソファがセットされ、エイリクはくつろぐようにそこで座り何かのケースを確認しているようだった。その背後には片付けをしている様子の女性が一人――それが彼の乳母であるジゼリ。事実上のエイリクの育ての親ともいえる女性だ。

 エイリクが顔をこわばらせるように、ジゼリも目に見えて顔をしかめる。だがファティナはそんなことに頓着しなかった。

 にっこりと微笑み、

「お疲れでございましょう? お茶に致しましょう」

と堂々と宣言し、自分はさっさとエイリクと相対する場に「失礼致しますね」と座ってしまった。


「出て行け」

エイリクは低く言ったが、未だ子供らしい甲高い声が珍しいかのようにファティナは微笑んだ。

「いったい貴女は何を考えているんですか」

乱暴な物言いと精一杯の嫌悪を示す眼光。

しかし、それを向けられているファティナはどうしても笑いたい気持ちになり、それを精一杯堪えていた。

 ファティナが笑いを堪えているとが感じられるのか、更にエイリクの眼差しがきつさを増していく。


 エイリクとヴァルファムの持つ色彩は元々そっくりであるとファティナは知っていた。だがこうしてみれば、エイリクの眼差しのほうが色素が若干薄いのだと気づくことができた。

 それははじめての発見だ。ほんの数度しか顔を合わせていないのだから致し方ないといえど、そういった些細なことさえ自分は知らないのだと思えばファティナは義母としての自分の情けなさを感じてしまう。


 だが、それとは別にファティナが笑いを堪えてしまうのは、面前のエイリクがあまりにもヴァルファムに酷似している為だ。怒っている時の彼に――そしてまたそれが小さいものだからとても面白く感じてしまう。

 整った顔立ちも良く似てはいるが、面前にいる相手の面は少し幼く丸い。

眼光をきつくしても子犬が威嚇しているように微笑ましい。もちろん、ヴァルファムが睨み付けてくる時などは、犬というよりも狼が睨むかのようでファティナにそんなふうに微笑ましいなどと思う余裕などないのだが。


「なぜ笑うのですか」

「だって、ヴァルファム様とエイリク様があんまりそっくりでいらっしゃるものですから」

堪えていたのだが、ファティナは耐えられなくなって笑い出してしまった。

「ヴァルファム様もとっても怒りんぼうでいらっしゃって、すぐにわたくしに向かって【そこに座りなさい】なんておっしゃるの。そうしてずぅっとお説教なさるのです。今のエイリク様の表情、とても似ていらっしゃいます。でも」

 口元に手を当てて、ファティナはもう耐えることなど完全に放棄して肩を揺らした。


「エイリク様はとってもお可愛らしいっ」


ちょうどその時に、ことりと置かれた紅茶のカップを――エイリクは咄嗟に掴んで面前のファティナへと叩きつけていた。

それは一瞬の出来事で、ファティナには何があったのか判らない程だった。ただ突然ぐいっと肩をつかまれ、視界が暗転した。

明るい光を失い、ついで右手に痛みが走る。それは熱であったかもしれないが、感じたのは痛みだった。ジンジンと痛むが、まったく意味が判らない。

誰かが悲鳴をあげ、耳元にかかる吐息が安堵に大きく息をついてファティナに囁いた。


「奥様、お怪我は?」

「クレ……オ?」


クレオールに抱きこまれている。そう咄嗟に理解し、ついで何故抱き込まれたのかを思案し、右手の痛みに気づく。

ジンジンと、まるで脈打つかのように痛む……

 侍女がばたばたと駆け回る音、そして、

「クレオ、クレオ? 怪我は?」

何かを投げつけられた。そしてそれを受けたのはクレオールの背だ。

そのことに思い至ったファティナは翡翠の瞳を大きく見開き、慌ててクレオールの上着を掴んでいた。


――カップを投げつけられた。

淹れ立ての紅茶の入ったカップを。


「クレオっ、火傷してはいませんか!?」

「大丈夫ですよ、地の厚い生地ですから――ですがすみません、失礼させていただきます」

クレオールは安堵させるように言いながらファティナを腕から開放し、着ていた執事のお仕着せの上着を脱いだ。

 

 ぐっしょりとその背がぬれているが、上着を脱いだ下のシャツはさほどの被害はないようでファティナは安堵の息をつき、ついで――自分の手の痛みに気づいた。

「奥様、こちらに」

 侍女が氷の入った桶を持参しファティナの右手を手早く浸す。その顔は蒼白で、ずいぶんと心配させたのだと思えば胸が痛む。


 そしてその視線が――

蒼い顔をしたエイリクが突っ立ってこちらを見ているのを見て取ると、ファティナは困ったように微笑もうとした。

「エイ……――」

「出て行って下さい」

 強張った口調でふいっと顔をそむける少年の様子に、ファティナは言葉を飲み込んだ。何を言うべきか判らずに、ただ戸惑いのままに、


「ごめんなさい……」


 自然と謝罪の言葉が漏れた。

だがそれすらエイリクの気に障るのかカッとしたようにその顔をファティナへと向け、さらに怒鳴ろうと口を開きかけたのだが、忌々しいというように顔を背けそのまま奥の部屋へと向けて歩を進めていた。その背へと向けて「エイリク様。どのような理由があったとしても相手に紅茶を投げつける行為が正しいなどということはありません」淡々と言ったのはクレオールであったが、エイリクは苛立ちをこめたまなざしを一度向けるだけで奥の扉へと消えた。

 

「母屋に戻りましょう――誰か、医者の手配を」

「お医者様は要りません。それより……クレオは大丈夫なの?」

「私は平気です」

 ファティナの言葉に逡巡はしたが、確かにさほどの怪我とも思えずにクレオールはうなずき、ファティナの片手を支えるようにして促した。


――女主人の手は僅かに震えていた。

時間がたつにつれ、怖くなったに違いない。

そう思えばクレオールは痛ましい気持ちを募らせた。

それ程の被害が無かったから良かったようなものの、もしこの主の顔にでも紅茶がかかっていればそれは笑って済ませられる問題ではない。


「あの、ヴァルファム様には黙っていて……欲しいのだけれど」

 ファティナが居間へと戻る間に、こっそりと内緒話でもするようにクレオールへというのだが、クレオールはゆっくりと首を振った。


「すでに侍女が報告に行っております」

「……」

とたんに泣きそうな顔をする女主に、クレオールは同情を禁じえなかった。

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