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番外・メアリ女史の憂鬱

 白亜の屋敷が職場であり、また現在の自宅だった。

主筋は二人――そして、自分が仕えているのはファティナ。この屋敷の女主(おんなあるじ)にして年若き奥方。

 翡翠の柔らかな瞳と、蜂蜜色の豊かな猫毛の姫君。

心優しく、ほんの少し悪戯好きで、そして突飛なところのある主に問題は無い。


主には……


 メアリは定時に目を覚まし、手早く着替えを済ませると昨夜のうちに用意しておいた水入れの水を手桶に落しいれて身支度を整えた。

 本日は天気が良いから、庭先で勉強をするときっと奥様は喜ぶに違いない。ただ、あまり暑くなるようならば用心しないといけない。彼女はすぐに水辺に近づきたがるから。

 朝食の為に食堂へとおりて馴染みの使用人達と食事をすませる。

ときおり女主が共に食事をしようと言ってくれることはとてもありがたいが、そうすると時間によっては苦手な相手も一緒であったりもするので、気をつけないといけない。


 朝食をすませ、勉強の資料を探りに行こうと図書室へと足を向けた。

この屋敷の蔵書は素晴らしい。今まで本といえば貸本屋ばかりを利用していたメアリは、この職場がまさに天国のように思えてしかたがなかった。

 主は優しく、食事は美味しく、用意されている部屋は使用人の部屋とは少しだけランクの高いものだ。本来使用人は半地下の二人部屋を使うことになるが、メアリが使っているのは一階部分にある一般室だ。来客用とはまた違うが、それでも一人部屋だし、広さも自分がそれまで暮らしていた下宿など比べ物にならない程に広い。ただ、隣の部屋には異性である執事のクレオールがいるので、なんとなく緊張しないこともない。


 寝言とか鼾とか聴こえやしないかと不安に思うのだが、相手の物音も聞こえてこないのだから気にする必要はないかもしれない。

 資料用の本をぱらぱらとめくっていると、ふいにこの屋敷の使用人の一人である女性が戸惑うように顔を出し、頭を下げた。

 確か女主の為のルーム・メイドだ。

「メアリさん。どうしたらよいか判らないのですが」

突然の言葉に首をかしげた。

何故、屋敷の侍女が困りごとを自分に持ってくるのか理解しかねた。


 何か困ったことがあればそれは全てクレオールが解決すべき事案だ。だというのにメアリに言うのであれば、屋敷内のことではなく個人的な事案だろうか。

 小首をかしげながら、それでもメアリは「どうかした?」と優しく話しかけた。相手は動揺しているようだ。

 メアリはこの屋敷の人間が大好きだった。

一人を除いて。


 侍女は眉根をひそめ、どう告げたら良いかと思案する様子を見せた。

腹部の辺りで重ねあわされた手がもじもじと動き、そして意を決するようにわずかに下がっていた顔をぐっと上げた。


「奥様の胸の間にキスマークがあるのです」


――意味を掴みかねた。

何を言われたのか判らず、その意味を理解した時にはくらりと貧血で倒れるような気がした。

 侍女は慌てて言葉を続ける。

「奥様はお気づきで無い様子でしたので……あの、虫に刺されたようだと苦笑しておられましたけれどっ、あのっ」

「気づいて、らっしゃらない?」

 メアリがようやく口を開くと、侍女はほっと息をついて力強くうなずいた。


「昨夜、若様が具合を悪くなさっていたのを気に掛けられておいでで、どうやら一緒にお休みになったようなんです――あのっ、どうしましょうっ」


あんの、害虫!

メアリはふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた。


 この屋敷で唯一メアリが苦手としているこの屋敷の馬鹿息子――嘘吐きで陰険で陰湿なヴァルファム様っ。

女が欲しければ、しょ……娼館にでも行くと言っていたくせにっ。

あの腐れ外道っ。

「まさかそれ以上の手出しはっ」

ハッと口走ってしまったが、侍女が慌てて首を振った。

「それはありませんっ。奥様は少しも気づいていらっしゃいませんでしたし、あの、他におかしな点は……――」

 自分で言いながら彼女はかぁっと頬を染めた。


「奥様は寝台に虫がいたのではないかと、若様を心配されて寝台の虫干しを命じておられましたし」


――メアリのかわいらしい女主は、どこか浮世離れしている。

こんな場であんな男に囲い込まれて育ったのだから致し方ないのかもしれないが、あんまりにも無防備が過ぎる。

 メアリは苛々を抱え込みながら、図書館の本を見回し、そこには恋愛物語などが皆無であることに気づいて一旦自室から一冊の本を手に女主の部屋へと向かった。


 男と女のことを学ぶ機会がなかったことも大きな原因だし、それを導いてやれる母親がいなかったのも要因だ。ファティナはどうにもほえほえとしすぎていて男女間のことにうとすぎる。あれで人妻なのだからまったく問題だ。まったくの子供の頃にまさに名ばかりの人妻になってしまったのだから致し方ないのかもしれないが。

 迷った挙句、初級編として騎士と乙女の恋愛ものにした。描写は稚拙だがそれでも恋愛について少しは学べるだろう。少なくとも男女が同じ寝台を共にすることの意味くらいはもっときちんと理解して欲しい。


 たとえそれが息子といえど、アレは義理も大義理、まったくの他人のようなものなのだから本気で避けて通るくらいが丁度いいというのに、ファティナときたら口先で騙されまくっている。騙している当人は騙す気満々で、あげく少しも悪びれていないのが腹立たしい。

 いくらメアリが「ヴァルファム様の言うことばかりが正しいのではありませんよ」とか、「男性であると理解して下さい」と言っても、彼女は相変わらずほえほえと「まぁ、判ってますわよ」と微笑むのだ。


「あら、おはようございます。女史」

 突然現れたメアリに、ファティナは微笑んだ。

目覚めの紅茶を飲んでいるところだった彼女はメアリにも紅茶をすすめたが、それをさえぎるようにして口を開こうとしたのだが――


 いったい何をどう言えばいいのか浮かばなかった。

キスマークがどうといって彼女を動揺させたくは無い。ファティナは人妻であり、夫である方を心から愛しておられる。

 そして義理の息子のことも同じように疑うことも無く愛しているのだ。

……その息子がこんな卑怯な暴挙に出たことをどう告げたらいいのか。


 あなたの義息は卑劣で卑怯で壊れてます。

あなたに手を出すおそれがあるのでたいへん注意が必要です。

半径一メートルに入るな危険。妊娠のおそれがあります。

などと言えるわけがない。


「……悪い虫が世の中にはいるので気をつけて下さい」


 出たのはまるきり間抜けな台詞となってしまった。

我ながら酷すぎる。

それにどちらかといえば、悪い虫、ではなくて、世の中には、が先頭にくるべき言葉だろう。

自分の動揺が伺える。

 しかもその言葉を受けて、彼女は胸元に手を当てて憤慨したように言った。

「そうなのです。昨夜虫に刺されてしまったようで」

唇を軽く尖らせて言ったあとに、すぐに言葉を続けた。

「ヴァルファム様の寝台、虫がいるのかしら? 今日はちゃんと日に当ててさしあげてと先程頼んだのです」

 どうだ、偉いでしょう。

というように得意げに言う主の姿に、


泣きたい気持ちになった。


「ええ、本当に日に当てて抹殺できるならそれに越したことはありませんが。とにかく、以前にも言いましたよね? 男の方の寝台に入ってはいけません」


 ああ、本当に!

その程度で抹殺できるのであればどんなにいいか。

だがしかし、この害虫は日に当てられようと平然としているだろうし、煙でいぶされたところで憤慨して睨みつけてくることだろう。

 メアリはあまりにもほえほえとしているファティナに、持参した恋愛物語を読むようにとすすめた。


 ほんの初級編だが、純粋箱入りほえほえ娘には刺激となるだろう。

少しは異性というものと意識して義息と接してもらわねば、使用人達の身が持たない。

毎日のようにあの腐れ息子が義母にべたべたしている様を見せられるのは本当に……胃が痛い。

 当人は使用人など人だとも思っていないのか、まったく全然ちっとも気にかけないのだ。

ほぼその全てを見なければいけない執事など、まさに使用人の(かがみ)。メアリが時折ヴァルファムに対しての愚痴をこぼすと、クレオールは静かに「主への罵詈(ばり)を聞く耳はありません」とメアリを嗜める。


 だが、メアリがこの屋敷にとどまっているのは、なにも高賃金高待遇によるものだけではない。あのかわいらしい女主を精一杯お守りする為だ。


 あの害虫――もしくは害獣から。

直接メアリに何かができるとは思っていない。だが、それとなく邪魔はできる筈だ。


 メアリは次にヴァルファムと対面することがあれば、その時にもう一度対決しようと心に決めたのだが、ヴァルファムはやはり平然としていた。


「虫に刺されたのでしょう」


 悪事が知られているというのに、まったく意に介さずにさらりと言うので、メアリは思わず手元を戦慄かせた。

「相当タチの悪い害虫ですね!」

憤りを込めて言ったが、ヴァルファムは口元に緩い笑みを浮かべて腕を組んだ。


「安心するといい。あなたが刺されるようなことは無い」

「当然ですっ。私は奥様を心配しているのですっ」

「余計な世話だ。義母の心配などしなくていい。あの人のことを心配するのは私の仕事だ」


 まったく話にならなかった。

ファティナは狼の顎門(あぎと)に寄りかかるか弱い羊。

そこが一番危険だと気づかずに、むしろそこが一番安心だなどと思い違いをして安堵して眠る愚かな羊。

 メアリはあとはもう祈るしかない。


狼の牙が、その甘い肉を()まぬように。



――主に問題は……やっぱりあるかもしれない。

 

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