訪れる者
「……悪い虫が世の中にはいるので、気をつけてください」
泣きそうな顔でメアリ女史が言った。
朝、ヴァルファムの寝室で目覚めたファティナはクレオールによって彼女の自室へと追いたてられた。
その後侍女に手伝ってもらいつつ着替えを済ませたのだが、顔色を悪くした侍女により連れて来られたのはメアリ女史で、そして彼女は小刻みに肩を震わせながらそんなことを言うのだ。
「そうなのです。昨夜虫に刺されてしまったようで」
着替えの最中に鏡を見て気づいた。
胸元にぽつりと赤い跡が一つ。痛みやかゆみはないものの、まったくどうしてそんなところを虫に刺されたのだろうと思うと気恥ずかしい気持ちでファティナは憤慨した。
「ヴァルファム様の寝台、虫がいるのかしら? 今日はちゃんと日に当ててさしあげてと先程頼んだのです」
女主人としての采配を振るったつもりなのか、彼女は得意げだがメアリは複雑だった。
「ええ、本当に日に当てて抹殺できるならそれに越したことはありませんが。とにかく、以前にも言いましたよね? 男の方の寝台に入ってはいけません」
ファティナが虫の話から何故そこにいきつくのか眉宇をひそめたものの、メアリの言葉に嘆息して「判っております」と苦笑した。
メアリはしばらく迷った風ではあったが、やがて諦めた様子で持参した本を示した。
「恋愛物語です。ファティナ様はこういった本はお好みではありませんが……ときにはこのような本を読むのも悪くありません」
ファティナは少しだけ吐息を落して本を受け取った。どちらかといえば本は好きだが、童話のようなものかもしくは歴史書、嫁姑を扱ったものが好きだった。
【ニーナ・ロッヒ】著作の【嫁と姑の確執】、【家族の戦争】は実に楽しく勉強になると思っているくらいだ。
読んでいるとわくわくどきどきする。自分にもいつか降りかかるかもしれないと思えば力が入るというものだ。もちろん、お嫁様とは仲良くしたい。仲良くするつもりだ。だが、ちょっと嫁姑戦争は楽しそうかもしれないとも思っている。
甘いばかりの恋愛小説は実はあまり好きではない。
しかしメアリ女史が読んだほうがいいというのであればそうなのだろう。だから仕方なく受け取り、空き時間にでも目を通そうと思っていた。
***
ぱさりと冊子を机の上に放り出す。
風邪が完治して数日が経過していた。
嫁候補として数名絞込み、さらに誰と決めるのも面倒であとは父にでも決めてもらおうと放置した。これらの女性の資料は相手方から送られてきたものだから、断られることはないだろう。
――誰であろうと構わない。ただし、翡翠の瞳と蜂蜜色の髪の者は含まれていない。それだけは許容できなかった。
ファティナは一人しかいない。
いないのだ。
苦い笑みが口の端に浮かび、自嘲するように前髪をかきあげた。
王都に訪れると予告した父だが、半月を過ぎた今も来る気配はない。来ると宣言したからには来るのだろうが、相変わらず傍若無人だ。他人のことは考えられても自らの家族のことを少しも頓着しない。いや、家族と思っているのかどうかすら疑わしい。
――来るならさっさとくればいい。
むしろこうして延ばされるのが腹立たしい。
「失礼いたします」
軽いノックの音と共に入室したクレオールが一礼し、ついでカディル・ソルドの帰宅を告げた。
幾度かすでに訪問をしている【自称家庭教師】に関していえば、ヴァルファムは一瞥いらい顔を合わせようという気はない。
必ず侍女を部屋につけさせるようにと命じている為に心配はしていないが、苛立ちは募った。
「今日は?」
「――奥様のご生家の話と、近隣の様子などを話していたそうです」
家庭教師といいながら、その実まっとうな勉強をしている様子はない。決まって世間話のようなことをして帰るのだという。
本来であれば父の差し向けたものとしてそれ相応に扱い、場合によっては夕餉を供することも考えねばならないのかもしれぬが、ヴァルファムはそのことを完全に無視した。
「義母うえは?」
「少しお疲れのご様子で、自室で休んでおられます」
「疲れるようならソルドなど早々に帰してしまえばいい」
冷たく言い切り、ヴァルファムは机に手を掛けてその勢いのまま立ち上がった。
――義母の部屋を訪れようと思ったのには理由がある。
あの日、父からの手紙を受け取ったファティナはその内容を語ってはくれなかった。
ヴァルファムが心を落ち着けて何気ない風を装って尋ねれば、ファティナはほんの少し赤い目をして……おそらく一人で泣いたのであろう顔に笑顔を浮かべて、
「秘密です」
などと生意気なことを言っていた。
挙句「夫婦の秘密は義息といえどもナイショなのです」などと言うのだ。
おそらくへんなところで頑固な小娘さまは、幾度尋ねたところでその糞忌々しい「秘密」とやらを語ってはくれないだろう。
せめて、ソレをどこに置いたのかだけでも探り出してやる。
ヴァルファムは冷ややかな気持ちだった。
もちろん、何から何まで彼女のことを知りたいなどと思っている訳ではない。知ったところで腹がたつことのほうが多いのがファティナだ。だが、こればかりはどうにも落ち着かない。
まるで喉の奥に何かが引っかかっているような。
幾度も幾度も嘔吐を繰り返し、胃液の逆流によって喉仏さえも異物に感じる不快感に似たソレ。
――父はファティナに愛を囁くのだろうか?
それは滑稽で阿呆らしい想像だ。
それは確実に……嘘でしかない。
十六になった妻を前に、父は愛を囁きその腕に抱こうとするのだろうか。それを想像した時、ヴァルファムは自分が意外な反応をしたことに驚いた。
――そうすればよい。
そう、思ったのだ。
ファティナは父の妻だ。
だからそうすればいい。
あの小娘様を泣かし、傷つけ、愛という嘘くさい幻想など木っ端微塵に破壊してしまえばいい。
あの女好きの下衆が。
ファティナの部屋へと足を向けたところで、突然あわただしく侍女がやってきて一礼してクレオールに耳打ちした。
「なんだ?」
「正門前の通りを馬車が来るようです。紋章は当家のものだと」
端的な執事の言葉に、ぐっとヴァルファムは喉の奥を鳴らした。
たった今考えていたことに軽く動揺する。動揺する自分を笑えるようになれば、全てを振り払うかのように口の端をゆがめた。
「離れの用意はすんでいるな」
「はい――」
「ではおまえは車寄せに向かえ。私は……義母うえに報告して連れて行く」
かつんと強く長靴を打ち鳴らした。
冷静になれ。
自分に命じる。
そう、冷静になれ――こんなことはなんということはない。父親が息子のもとへ、そして妻のもとへと訪れる。
何の問題もない。極一般的なことにほかならない。
こんな下らないことで動揺するなどありえない。
ファティナの部屋の前で、それでも自然と深く息を吸い込む自分にヴァルファムはくすりと笑った。
「義母うえ、よろしいですか?」
コンっと軽くノックをして扉に手を掛ければ、中からキャっという小さな悲鳴とばさばさという音がした。
眉を潜めてヴァルファムが扉を開けると、ファティナは彼女の私室である居間の床に子供のようにすわり、わたわたと本を抱きしめていた。
「義母うえ?」
「応えを待たずに扉を開くのは礼儀違反ですわよ、ヴァルファム様っ」
心底慌てている様子のファティナは、何故か顔を赤らめている。
ヴァルファムは眉を潜めて「熱でもあるのですか? 顔が赤い」と相手の言葉を無視していえば、ファティナは怒ったように顔を背けた。
「知りません!」
「義母うえ?」
「それより――どうかなさいまして? ヴァルファム様がわたくしの部屋を訪れるなんてとても珍しいことですわよ」
どこかごまかすように言う義母に眉宇をひそめたものの、ヴァルファムは一度短く息を吸い込んで口を開いた。
「正門を馬車が通過しました。当家の紋章を抱いた馬車だそうです」
その意味することに気づいたファティナは持っていた本を取り落とし、二度喉を上下させた。
「迎えにおりますか?」
ヴァルファムはそう囁いた自分がやけに冷静さを取り戻していることに気づいた。
そう、自分は大丈夫だ。
「……はい。参ります」
ファティナは腰が砕けたように動けず、それに対して笑って手を伸ばした。
「緊張していますか?」
「はい……あの、わたくし、おかしなことはございませんか?」
不安そうに見上げてくる義母の額に口付けた。
義母の体が小さく身じろぎし、軽く身を引こうとする。不可解な反応だが、ヴァルファムは微笑した。
「あなたはおかしなところが一杯ありますが、それでもいつだって私の自慢の義母です」
「……褒めるときは普通に褒めてくださいませ」
むっとして上目遣いに睨みつけてくる義母が、とても、愛しい。
ゆっくりと体勢をたてなおし、ぱたぱたとドレスの裾をはたいた義母は自分の頬をぱしぱしと叩いた。
「行きます――」
ヴァルファムはその気負いに笑ってみせた。
「戦地にいくかのように勇ましいですね」
戦地に行くように勇ましい義母であったが、正面玄関のホールにおりたった時に小さく喉の奥で奇妙な音をさせ気が抜けたようにふらりと後方に退きそれを慌てて支えながら、ヴァルファムも眉を潜めた。
鷹と盾をあしらった紋章の馬車からおりたったのは、ヴァルファムと同じ碧玉の瞳。色素の薄い金髪を持つ相手ではあるが、そのサイズは随分と小さかった。
若干九つ――もしかしたら十か。
その年齢をはっきりとは認識もしていない、ヴァルファムの弟、エイリクだった。
エイリクの小生意気そうな眼差しがヴァルファムを認めて一瞬嬉しそうにしたが、すぐにその隣にいいるファティナを見つけて眉間に力を込めた。
「何故、その女がいるのですか」
挨拶もろくにできない子供は忌々しいという感情を隠すこともせずに吐き捨てた。