微熱
気だるさは気分の問題かと思えば――風邪を引いた。
「ちゃんと寝ていないと駄目ですわよ」
寝台の横で嬉しそうにしている義母の姿に、ヴァルファムはうんざりとしていた。
なぜ、何故にこの小娘様はヴァルファムが寝込むと嬉しそうにしているのだ。自分の健康を見せ付けるかのようにやけにいつもよりも機敏に動こうとする。
動こうとするだけで色々と無理があるようだが。
枕辺で林檎と悪戦苦闘しているのを、その背後からクレオールが多少青ざめるようにしてみている気がする。
「実よりも皮のほうが美味しそうな林檎というのも珍しい……」
ぼそりとヴァルファムはつぶやき、とりあえず義母の手からナイフを取り上げた。
「危ないですわよっ」
「あなたが一番危ない。風邪がうつりますから、どうか自分の部屋に戻っていらっしゃい」
ヴァルファムはナイフをクレオールへと手渡し、ファティナの手で芸術的な形を見せている林檎を引き取り、食べた。
元は丸かった筈だというのに、今は洋ナシのように不恰好な形をしている。作り方を誤った瓢箪と言ってもいい。
そもそもりんごの皮をむこうという発想はどこからくるのか。皮もきちんと食べるのが正しいだろうに。
「病気は気持ちが沈みますわよ。わたくしが今夜は看病いたします」
何故そんなに張り切っているのだ。
濡れタオルで手をぬぐい、嘆息する。ちらりとクレオールを見れば、クレオールは軽く身を伏せるようにして背後からファティナに囁いた。
「奥様、若様はゆっくりとした休息が必要でございます」
クレオールの言葉であればききいれるとでも言うのか、ファティナは吐息を落して寝台の脇に用意されていた椅子から立ちあがり、その冷たい手でもってそっとヴァルファムの額に触れ、ついで何を思うのかヴァルファムのこめかみの辺りに口付けた。
「早くよくなってくださいませね。おやすみなさい」
「――おやすみなさい。義母うえ」
ふっと、ヴァルファムの唇から風邪に浮かされた吐息が漏れた。
確実に、子供の扱いだ。彼女は今幼い子供が病気になったように示している。しかもこの現状を少し楽しんでいるのではないだろうか。
腹立たしい。
侍女もクレオールも下がらせ、たった一人きりで寝台に沈む。
冷たかった濡れ布巾も、今ではぬるく重く額に乗るだけだ。うつろに目覚めそれに気づいてもういっそどかそうと手を伸ばしたヴァルファムだが、その手が布巾に触れるより先に布巾はするりと抜かれ、ついで枕辺でぴしゃりと水音がはねた。
「……義母うえ?」
ふと目を開ければ、薄ぼんやりとした明かり――燭台の炎が揺れる脇にファティナの姿が浮かび、淡く微笑んだ。
自ら持ち込んだのか、桶の中で手ぬぐいを湿らせて冷たくなったそれでヴァルファムの額と首筋とをぬぐう。
何故だか酷く狼狽してヴァルファムは身じろぎした。
冷たい手が頬に触れ、首筋に触れる。
「熱は少し下がりましたわね」
「……いつからいました?」
「屋敷中が寝静まってから――クレオールに怒られてしまうでしょう? だからこっそり」
くすりと笑うのは、おそらく悪戯が成功したような気持ちなのだろう。
「ヴァルファム様も怒りますか?」
「……いえ」
部屋に戻りなさい、という言葉は飲み込んだ。
喉が少し痛む。熱でくらくらする。
こんな現状で怒るなんてしたくない――ただそれだけだ。額に戻された手巾の冷たさに瞳を伏せる。ファティナの手が、労わるように手にふれ、握りこんでくれる。
「うなされておいででしたよ。何か怖い夢でも見ましたの?」
夢、夢など見ただろうか。
瞼を伏せたままファティナの手の冷たさだけを感じて、思考をめぐらせる。夢を見た覚えはない。気づいたら額の手ぬぐいの重さを感じて目覚めただけだ。
だがファティナの心配気な口調に、ヴァルファムは口を開いた。
「あなたがいない夢です」
ああ、自分は熱に浮かされている。
風邪だから、心がいつもよりずっと弱くて、そして――
「気づくと、あなたがいなくて……私は一人になっている」
「わたくしはここにおりますよ」
「そうですね」
「それに、お嫁様だっていらしてくださることでしょう。ヴァルファム様が一人になるなんてことはありませんわよ」
ファティナの華奢な手がすっと開いてヴァルファムの手を離れようとする。それに身じろぎすれば、安心させるようにとんとんっと二度その手が手の平を叩き、
「喉は渇きませんか? 冷たい果実水も用意してありますのよ。氷が入っていますから、美味しくいただけますわ」
ファティナの気配が少しだけ遠のく。
だがすぐに戻り、かたりと枕辺の小さなテーブルにグラスを置くと、寝ているヴァルファムの肩に手を掛けて隅に追いやられたクッションをせっせと背中につめるようにして起こしてくれる。
そこまでしてくれなくともすでに体は動く。
熱は微熱に成り果てて、今はただけだるいだけだ。
だがファティナのするにまかせてヴァルファムは重病人の気持ちで彼女にうながさられるままに口元に当てられたグラスから冷たい液体を飲んだ。
「まだ顔が少し赤いですわね。もうお休みなさったほうがよろしいわ」
「はい」
身を起こすことで外れた額の布巾をもう一度水でぬらし、ファティナはヴァルファムの体を寝台に戻すと額にかかる髪を優しくすきあげた。
「早くよくなってくださいませね」
触れていた指先が頬を掠めるようになぞるたび、ヴァルファムは泣きたいような気持ちで胸がざわついた。
すっと指先が自ら離れる。
その痛みに、咄嗟にその手首を掴みあげていた。
「ヴァル……」
「いかないで下さい」
声は、臆病にも小声になった。
いかないで、いかないで欲しい。
そこにいて欲しい。切迫する気持ちが、食いしばるような音となって唇の隙間から落ちた。
びくりとファティナが一度身を震わせた。
拒絶されると感じれば、ヴァルファムは自らの行動に奥歯を鳴らした。
だが、ファティナはふっと腕の力を抜いてもう片方の手を伸ばしてファティナの手首を掴むヴァルファムの指に触れた。
「ともにいますから」
「……」
柔らかな声音を信じないようにファティナの手首を掴んだままの義息の様子に、ファティナはあきれるように囁いた。
「ガウンがぬげませんから手を離してくださいませ」
とんとんっともう一度ヴァルファムの手を叩き、おずおずとその手が外れるとファティナは身に付けていたガウンを脱ぎ、椅子の背に掛けると燭台の蝋燭を吹き消して――ヴァルファムの寝台の中に身を滑らせた。
「病気の時は心がとっても寂しくなりますものね。わたくしもそうです――さぁ、もう休まなくてはね」
ファティナは寝台にうつぶせになるような格好でヴァルファムを覗き込み、微笑んだ。
「おやすみなさいませ」
――汗の香りと、ファティナの甘い香りに気が遠くなりそうになった。
ほんの少し前まで、添い寝していたのだから動揺するなど阿呆らしい。そう思うのに、風邪で発汗した自らの香りが羞恥を呼ぶのか、それとも熱に浮かされているだけなのか、ヴァルファムは酷く自分が狼狽していることに気づいた。
やがてファティナはヴァルファムの手に自らの指を絡めて、猫が寝心地の良い場所を求めてもそもそと動くように身をひねり体制を整えると、こてりと寝入ってしまった。
――何故、寝れるのだろう、この人は。
この現状で、何故?
軽く腹がたってくる。
自分が動揺しているだけに、相手が信頼して身を寄せてくることに――自らを被保護者として見ていることに苛立ちがつのる。
ファティナはくーくーと奇妙な音をさせて安らかに寝ていて、自分は熱で体が痛むほどだ。
――安らかな眠りなど到底期待できないような現状だというのに。
一人になる恐怖を吐露したのは自分だが、それは確実に失敗だった。心優しい彼女は、まったくもって純粋に病気で心の弱くなった息子を労わるつもりでここで寝ているのだ。
ヴァルファムは苦い気持ちで身を起こそうとした。
だがファティナの手が自らの手を戒めるように絡みつく。
水に濡れていた手は今も冷たい。
ヴァルファムの体温が高くてそう感じるだけかもしれないが。
上半身を起こした現状で隣で眠るファティナを見下ろし――ヴァルファムは瞳を細めた。
彼女の首筋が無防備に誘いを掛ける。
自由な手がファティナの首筋に落ちる蜂蜜色の――今は暗闇でそうは見えないが、絹のような柔らかな髪をそっと肩に流していた。
あらわになった首筋をつっと指の腹でなぞればファティナの身がほんの少しだけ身じろぎした。だがそれだけで、彼女の眠りは深いのかそのままくーっとまた夢の果てへと沈んでいく。ヴァルファムは微笑し、もう少し強くその皮膚を押し心地よい弾力がかえるのを楽しんだ。
――そこに赤い跡を残してやりたい。
渇望に身を伏せようとしたが、首筋はあまりにも目立つと喉の奥で笑いがこぼれた。
犬が主にそうするように、ファティナの首筋に鼻をこすりつけるようにしてなで上げ、そっと二度唇でふれ、ほんの少し舌先で撫でる。
ファティナの甘酸っぱいような香りと、そしてほんの少しの汗の味。
心がそれだけで留めよというのに、体の熱が更に求める。
風邪をひいてる――病気なのだから、仕方ない。
笑いたいような気分で、片手でそっとファティナのネグリジェの胸元の細いリボンを引いた。
はらりと胸元がくつろぐ、指先で薄布を軽く弾けば、胸の膨らみがまるで果実のようにほのくらい闇にしらじらと浮かんだ。
このまま押さえ込んでその全てをむさぼりつくすことは可能であろうと思うのだが、ヴァルファムは自らの愚かしさを胸に身を伏せ、胸と胸の間に口付けた。
ついばむように唇を触れさせ、強く吸い上げる。
白い肌に、赤い跡が残るように強く。
ファティナが身じろぎして瞼を振るわせる。その翡翠がこぼれる頃には顔をあげ、なだめるようにとんとんっと彼女の二の腕を叩いた。
ぼんやりとした瞳がヴァルファムを見上げる。
ヴァルファムはなんでもないというように優しく囁いた。
「なんでもありませんよ、おやすみなさい」
二度震えた瞼が落ちる。
すーっと深く沈む吐息を耳にしながら、ヴァルファムは口の端をゆがめた。
――白い、白い肌に小さく残された赤い印。
ぽつんっと一つ、それは穢れだ。
綺麗な義母にたった一つだけの穢れを残したことに愉悦が広がる。軽い満足感にファティナを抱き込むようにして目を閉ざした。
悪夢など見ない。
――今宵はただ安らかな眠りが訪れるだろう。