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苦痛

 居間へとたちもどった義母の手には手紙はなかった。

随分と機嫌が良い様子でソファへと戻り、テーブルの上に自らの茶がなくなっていることに眉を潜めた。

「片付けてしまったの? わたくし冷めているほうが嬉しいのだけれど」


そのカップは先程割れてしまった。


 テーブルの上にあるいくつもの書類、冊子、手紙と共にヴァルファムに払われ、幾つかの破片へと成り果てた。

 琥珀色の液体が全ての書類を汚した。

未だ読まれない手紙も、目録も全て処分を命じた。今頃は積み重なりまったく意味もない塊に成り果てていることだろう。

――起毛の絨毯は今はもう染みすら見られない。だが、触れればぬれていることに気づくことができるだろう。

 気づいて欲しい、気づかないでほしい。


それは――心に似ている。

一瞬湧き上がる激情にわれを忘れた意味を、彼女は……気づくことなどないのだろう。

絨毯がぬれていることに気づかないように。


「冷たいお飲み物をご用意いたしましょう」

クレオールが慇懃に言うと、ファティナは嬉しそうに微笑んだ。

「アップルとシナモンのお茶にしてもらえる?」

「かしこまりました」

クレオールは心得た様子で軽くうなずき、そして侍女へと命じる。それを見ながらヴァルファムはファティナの顔を見つめた。


――ほんの少し、目元が赤い。

義母は泣いたのだろう。たった一人で、おそらく、父からの手紙に感極まって。

小娘様はよく涙を流す。策略も取引も何もなく、ただ感情の赴くままに涙を流す。嬉しい時に、そして悲しい時に。怒ったときに。


 ヴァルファムに見せてくれる涙は決まっている。

悲しい時――ヴァルファムに怒られている時に。

決して嬉しさに涙をみせてくれたりはしないのだ。肘掛けにおいた肘から伸びた手を組み合わせ、親指をこめかみにあてて軽くうつむき深く息をつく。

 ゆっくりとおとされた呼気に、あらゆるものを詰め込んで。

やがて顔をあげれば、ファティナが不思議そうに義息を見つめていた。


二つの翡翠で。


「父は、何と?」

 ヴァルファムは絞り出た言葉に軽く首を振った。

思うほど優しさがのせられなかった。せめて冷たく感じなければいいのだが。

「健やかにしているかと。それと……」

ふっと、ファティナは瞳を伏せた。

「会いたいと――会いに来て下さると」

「他には?」

とくとくと心臓が逸る。ファティナはついっと視線を伏せた。幾分考えるように間をおいて、やがて「秘密です」と消え入るようにささやいて、笑ってみせた。

 とても、朗らかに。


その笑顔が何かをぐしゃりと叩き潰すなど、彼女は少しも思いはしないだろう。

「よかったですね」

「ヴァルファム様も旦那様にお会いになるのは久方ぶりでいらっしゃいますでしょう? うれしいですか?」

 ファティナは新たに届けられたグラスを受け取り、ふふっと微笑んだ。

「嬉しいですよ」


――途中で馬車が脱輪して溝に落ちてしまえとか、橋から落ちろとか、ふつふつと浮かんでくるのはおそらく気のせいだ。

 何よりヴァルファムは良くわかっている。

あの父ときたら悪運だけは強いのだ。どんな逆境からでも悪魔のように立ち直り嫣然と胸をそり返して立ち向かう。

 たとえもし希望通りの悪夢があの男を襲ったとしても、それを全て跳ね除けて更に自分の糧として立ち上がる。


 それがヴァルツという男だった。

ああいう男は殺しても死なない。毒を飲めば皿まで飲み干して更に薬瓶すら要求する。

嬉しそうな義母をみながらヴァルファムは暗澹たる気持ちになった。


 乾いた微笑が唇からこぼれた。

末期だ。

冷静さを失いすぎている。父が来るからどうだというのだろうか。

自分の目の前に義母がいる。それはすなわち、大前提で父という存在がいるのだ。父が彼女を娶ったために自分は義母を得た。


「父に礼を言わなければ」

「どうかなさいまして?」

「私に義母(あなた)を与えてくれたのは、あの人ですからね――私はその点に関してはあの男に感謝してしかるべきだ」

 ふふふっと乾いた笑みが唇から零れ落ちる。

二三日、目障りな男がうろついたところでどうということはない。


 もとよりこの目の前の小娘様は父の妻だ。だがそれ以上にヴァルファムの義母だ。たかが一日二日、父に義母を貸す程度なにということは無い。


――自分は赤ん坊か。


「ヴァルファム様?」

「……今、ものすごく人生を投げたくなりました」

 冷静になれと思っているというのに、どうやら根本の部分で冷静になれないようだ。

額に手を当ててしまった義息の様子に、ファティナは持っていたグラスをテーブルにおいて席を立つと、ヴァルファムの足元に膝をついてその手をそっとヴァルファムの額に触れさせた。


「どうなさったの? 具合でも悪いのではありませんか?」

冷たいグラスを持っていた手が、刺すような鋭さすら感じさせて額に触れている。ヴァルファムは痛みを堪えるようにきつく眉根をひそめてファティナに告げた。

「少し気分が悪い」

「まぁ、では横になったほうがよろしいわね」

 すっと離れていこうとする義母の手をすばやく留めて、ヴァルファムは苦しさにあえぐように言葉をのせた。

「義母うえの手はとても気持ちいいですね」

「――しばらくこうしていましょうか?」


心配気な言葉が心地よい。

ヴァルファムは吐息のように囁いた。

「少し、横になります。義母うえに眠りにつくまで付き添いをお願いしたら断られてしまうかな」


 共に眠られなくなってもう幾月がめぐったことだろうか。

自ら添い寝はしないと宣言したのだ。彼女との距離を保とうと必死に――触れ合う体温が、吐息が、決して自分のものではないと知っているから。

 ファティナは翡翠の瞳を瞬き、

「断ったりいたしませんわよ?」

と応え、挙句の果てに言った。

「わたくしの可愛い義息さまは子守唄と物語はどちらがお好きかしら」

確実にからかう口調でくすくすと笑った。

――具合が悪い義息が心細さに子供にかえってしまったのだと感じているようだ。


彼女は時折そうやって年上の義息を子供扱いして笑う。

生意気にも彼女は八つも年上の男を育てている気になっているのだろう。


 愛しい、そして憎らしい小娘様。

もし、その身をその義息が喰らい尽くしたら、いったいどんな顔をするのだろうか。彼女は、そして……父は?

 ヴァルファムは口の端を引くようにして笑った。


「子守唄を聴かせて下さい」

つらくて眠れない。

だから、眠りに落ちるまでそばにいて。


 天と地が落ちて神が滅びて悪が笑うならば欲望のままに全てを曝け出して奪いつくすこともできよう。

 だがそうはならない。

自分はきっと壊れている。

自分はきっと病んでいる。

それをもたらしたのはこの蜂蜜色の髪と翡翠の瞳をもつ愛らしい小娘だが、精一杯の理性を、常識を、ぎりぎりつなぎとめるのもまた彼女だった。


彼女が陽だまりにいる為に自らが日陰にいるのなら、苦痛すら喜びにかえてみせよう。


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