手紙
ヴァルファムが重い腰をあげたのは25になろうかという頃のことだった。
――彼には彼の責任がある。父親も思い出すようにその話題を出していたが、今までのらりくらりと無視していた。そのうちに父が勝手に相手を見つけて勝手に結婚するのだろうと思っていたものだが、どうやら父はヴァルファムの婚姻についてもさして興味がないようだ。
そう、結婚。
ヴァルファムは侯爵家の跡取りとしてふさわしい相手を見つけ、そして次代を残すという役目がある。
休暇のおりに自宅のソファに腰をおろしてクレオールに用意させた冊子を一つ一つ、事務的に眺める。
「何をなさってらっしゃるの?」
そんな時に限って、庭で犬と戯れていた小娘様はいつの間にか立ち戻って興味津々の眼差しを向けてくる。
ヴァルファムはそれをさも煙たそうにしながら「女性の目録です」と淡々と応えた。
「女性の目録?」
眉を潜ませつつテーブルの上の一冊に手を伸ばすファティナ。
「お見合いの資料ですよ」と、不親切な義息の言葉にクレオールが言葉を足した。
「相手の方の絵姿と趣味などが記載されています」
「まぁ、おもしろいものがありますのね」
ファティナは瞳をきらきらさせて中身を確かめ、さらに嬉しそうに声をあげる。
「綺麗な方! ヴァルファム様、この方になさいませ」
実に短絡的だ。
ヴァルファムはうんざりとしながら口を開いた。
「どの女性も三割り増しは綺麗に描かれていますよ。ヘタをすれば五割り増し。どちらにしろそんなものを信じる人間は阿呆ですね」
あんに義母が阿呆だと言ったのだが、ファティナは眉を潜めて「では何を基準に相手の方をお探しなのですか?」と尋ねてくる。
義息の嫌味も通じない。
「もちろん、家格です。当家が侯爵家なのですから、つりあいの取れた相手を求めるのは当然です」
「……つまりませんわ」
ファティナはあからさまに落胆してみせた。
とさりと許しも得ずに反対側のソファに腰をおろすと、クレオールにお茶まで頼んでいる。このままこの場に居座る気だということに気づき、ヴァルファムは一瞬だけ眉を潜めた。
何も人が作業している場でくつろごうとしなくても良いではないかと思うのだが、それがファティナだった。
「ああ、でも結婚はいいですわよね」
絵姿を検分しつつ、ファティナが夢見るように言う。
「良い方を見つけて一日でも早く孫を抱かせてくださいませね」
ああ、わたくしもおばあちゃまですわ。不思議な感じですわねぇ。とどこかうっとりという。
「まだ子供を諦めてないのですか」
今回の病は存外長い。
ヴァルファムの口調は自然と冷たくなった。激しく苛立つのは面前の義母があまりにもヴァルファムの感情を頓着しない為だろう。
理解しているが理解したくない。
「何故諦めたと思うのです?」
逆にきょとんとして首をかしげてくる。
「わたくしはちっとも……」
「ですがどうやら孫でも良いとおちついた様でよかった。孫でよければ来年、再来年にはさしあげられますよ」
うんざりと言う。
それで彼女の病が沈静化されるのであればヴァルファムとしては歓迎する。
ファティナは嬉しそうに微笑み、さらに熱を込めて目録に視線を落した。
「そういえば、お尋ねしたことはありませんでしたけれど」
「何です?」
「ヴァルファム様のお好きな女性のタイプはどのような方でいらっしゃいますの? こうしてみていても色々な方がいらっしゃって、迷ってしまいますわよ」
義母の呑気な言葉を耳に入れ、それまで穏やかに聞いていられたヴァルファムもほんの少しばかり――かちんと来た。
手にしていた目録を閉ざし、足を組みかえる。
反対側のソファに座るファティナは、ヴァルファムの冷たい眼差しなど気づかぬふうでぱらぱらと目録を繰っている。
ファティナの頭のてっぺんから、輪郭をたどり首筋、肩を見つめ、その指先にまで視線を落す。そのまま視線は肩へと戻り、薄い胸元、細い腰、そしてそろえられた足をたどり柔らかな室内靴の先端まで。
「髪は蜂蜜色――瞳は翡翠」
まるでゆっくりと、柔らかな声音でヴァルファムは言葉を続けた。
「薄い唇。細い肩、胸は手の中に納まる程――腰は軽く手が回るほど。幼い語り口。あげく随分と年下」
冊子に落ちていたファティナの瞳が戸惑うように持ち上がりヴァルファムを見上げてくる。それを受けてにっこりと微笑み、
「そういうのは却下で」
ヴァルファムはざっくりと切り捨てた。
「もう子育てはうんざりですから」
「今のは明らかにわたくしのことですわよね?」
「おや、そう聞こえましたか? 気のせいですよ」
「っっっ」
「今の特徴をまるきり正反対にした女性がいいですね。肉感的で抱き心地のよさそうな一つ二つ年上の女性なんか好みです」
くつくつと肩を揺らす義息に、義母は唇を震わせて顔を背けた。
「ヴァルファム様、いやらしいっ」
「成人男性ですから」
「ヴァルファム様より年上の女性なんて、わたくしはイヤですわ。わたくし、お嫁様とは仲良くしたいのです。ですのにあんまり年齢が離れてしまうと、きっと嫁姑戦争がはじまってしまいますわよ。嫁と姑の間にはものすごーい溝があるのです。たいへんですのよ」
どうやらまたおかしな本の影響を受けているようだ。
苦笑しながらファティナを眺めていると、ふいに席をはずしていたクレオールが銀の盆を手に部屋へと戻った。
「若様」
クレオールが一礼して銀の盆を示す。
中には幾つかの手紙がそろえて置かれているが、そのうちの一通をクレオールは抜き取り、ファティナへと示した。
「こちらの手紙は奥様宛てとなっております」
普段であればファティナ宛ての手紙など無い。ファティナ自身も怪訝に首をかしげ、おそるおそるというようにその手紙に手を伸ばした。
「まあ、どなたからかしら? リール?」
友人からの手紙かと言う彼女に、執事は感情ののらぬ淡々とした言葉で応えた。
「いいえ、旦那様からです」
その言葉に、ファティナも、そしてヴァルファムも固まった。
――それは実にはじめての、夫からの手紙。
いったい何事かと自然と背筋を伸ばしたヴァルファムと違い、ファティナは受け取った手紙をそっと大事そうに胸に押し当てた。
「きっとこの間のお返事ね」
「父に……手紙を出したのですか?」
ヴァルファムは口腔に唾液が溜まるのを感じ、息苦しさにゆっくりと飲み込んだ。心臓が鼓動を早めて、指先が冷たい気すらしてくる。だが、そんなヴァルファムとは違い、義母ときたら実に幸せそうに両手で手紙を包み、ふわりと微笑む。
「ええ! 旦那様にお手紙をさしあげたのは幾度かありましたれど……お返事をいただけたのははじめてですわっ」
興奮に頬が上気して、彼女は――とても、幸せそうに微笑した。
手の中の手紙をゆっくりと目で確認し、蝋封の淵を指先でなぞる。
その視線がクレオールへといくと、クレオールは心得た様子で銀色のペーパーナイフを女主へと手渡そうとしたが、ファティナは一旦伸ばしかけた手を引き戻した。
「部屋で読んでまいりますね」
「ここで――いえ、どうぞ……」
ヴァルファムは喉の渇きを覚え、あえぐようにして言った。
ファティナが身を翻して出て行くのを奇妙な生き物を見るように見返し、クレオールは控えている侍女についていくようにと示す。
湧き上がる感情を抑える為にヴァルファムは胸を上下させて酸素を取り入れ、ゆっくりと吐き出した。
「義母うえが……義母うえが、父に手紙を書いたなどと知らなかったぞ」
やっと搾り出した言葉は、低く冷淡なものになった。
「一月程前のことになります」
外出をとがめられた日だということを、クレオールは口にしなかった。
余計な怒りを再発されてはたまらない。
「内容は」
「存じ上げません」
「役立たずめ」
吐き捨てられた言葉に一度頭を下げる。
ヴァルファムはぎしりと奥歯の音をさせ、みずからも父からの手紙にナイフを入れた。
父からの手紙は予定調和だ――毎月毎月、一定のことばかりを記載する手紙。だが今回は何かが違うのではないかとヴァルファムは身構えた。
――世界が崩壊しそうなほどの恐怖がじりじりと足元から這い登る。
そう、ヴァルファムの幸せは……気まぐれなこの男の指先一つでいつでも崩壊する危険性があるのだ。
ぐしゃりと手の中で手紙が音をさせる。
放り出した手紙に眉を潜めるクレオールを感知せず、ヴァルファムは苛立ちを更にぶつけるようにテーブルの上の女性の目録を片手でなぎ払った。
――父の手紙は変わらない。
相変わらずの予定調和。
しかしそれをうち崩す最後の一文は、ヴァルファムの心をかき乱すのに十分なものだった。
――近いうちに王都へと赴く。
義母はきっと喜ぶだろう。
愛する夫に会えるのだ。
彼女の幸せが自分の幸せだなどと――嘘でも言えそうにない。