変化
「あの男と仲良く? 狡猾な蛇や狐のような男と仲良くするくらいであれば、私はあなたの犬に結婚を申し込んでもいい」
「……意味が判らない例えですけれど、なんとなくすごいイヤだというのは判りました」
パールはオスですのに。とファティナ自身も理解不能なことを言う。オスだろうとメスであろうと犬である事実に変わりはない。
ファティナは困ったように小首を傾けた。
「でも、ソルドさんは旦那様のお使いですのよ」
「義母うえのお願いでもこればかりは利けません」
「良い方ですのよ? 先日もわたくしが子供の頃に好きだったパイを持ってきてくださいましたし」
「食べ物などで懐柔されるなど、まったくあなたときたらいつまでも子供だ。ああいう人間を信用すると痛い目をみますよ。そもそもあなたは騙されやすいのですからもっと他人に対して注意なさるべきです」
ヴァルファムの言葉に、ファティナは眉をひそめて深く溜息を落とした。
「騙されやすいなどと、わたくしがいつ誰に騙されたというのでしょう?」
――わたしに。
さすがにヴァルファムは苦笑を浮かべるだけに留めた。
そう、もっぱら彼女を騙しているのは他ならぬヴァルファム自身だ。
「ほかの願いなら利きましょう。私はどうしてもあの男と仲良くなどなれない――使用人と仲良くする必要もない。こればかりは義母うえといえど私の心は揺るぎませんよ」
ファティナは判りやすく深い溜息で落胆を示すと「判りました」と困ったように微笑みを浮かべた。
「そのかわり、あの方がお見えになっても意地悪をなさらないで下さいね」
「私がそのように子供のようなことを?」
ふんっと鼻を鳴らせば、ファティナは瞳を瞬きやがて破顔した。
「ヴァルファム様はご自身をご存知ではありませんわね」
「義母うえ?」
言われたくは無い相手というものがある。
まったく同じ台詞をファティナに返してやりたい。
「ヴァルファム様は時々本当に子供のような真似をなさいますのよ? 幼いお子が母親を取られまいとするように。先日だって、随分とセラ兄様と揉めていらしたわ」
まぁ、最終的には仲良くなさつていたようでしたけれど、という言葉は無視する。
「……あの男が不躾に義母うえに触れたり頬に口付けたりするからです。汚らわしい」
そう、あの日は午前中にカディル・ソルド――午後にはセラフィレスという不愉快な男と対峙する羽目になった史上最悪な日だった。
忌々しいことにセラフィレスは確実に面白がってファティナにちょっかいを出し、ヴァルファムの様子を伺ってはほくそ笑んでいた。
挙句、やけに馴れ馴れしく背中を叩いたりして最終的には「今度一緒に飲もうよ」などといわれた。
ヴァルファムにはまったく理解できない人種だ。
「ほら、幼い子供のようではありませんか」
「……」
くすくすと笑う義母を見下ろし、ヴァルファムは憮然としていたがやがて息をついて義母の頬に触れ、反対側の頬に自らの頬を摺り寄せた。
「いいですよ。認めましょう。私は子供です――義母を愛する幼い子供です。あなたが誰かに奪われるのではと日々恐れている哀れでちっぽけな子供です。私から義母を奪うものがいるならば」
一旦言葉を切り、
「殺してやる」
優しく、愛しさを込めてその耳元に囁く。
ファティナがびくりと身を震わせるのを肌で感じながら、ヴァルファムは触れ合わせた頬を離し、小首をかしげて間近にある翡翠の瞳を覗き込んだ。
「愛してますよ、義母うえ」
戸惑いにファティナの翡翠の眼差しがゆれ、救いを求めるように他を見ようとする。
それすら許さず、ヴァルファムは微笑を称えたまま瞳を細めてファティナの瞼に口付けを落とし、鼻の脇に、唇の端に口付けを落としていく。
身じろぎしながらファティナはおそるおそる口を開いた。
「殺すなどと、冗談でも恐ろしいことを言ってはいけません」
「本心でもですか?」
「――なおさら、そんなことを言ってはいけませんし、してはいけません」
「ではさせないで下さい。義母うえ――ずっと私の義母でいてください」
ファティナの瞳には不安がゆれていた。
その不安がじわじわとヴァルファムの内で喜びへと変わる。
面前にいる者がどんな男であるのか、義母は知るべきだ。知られたくないという思いと同時に、ヴァルファムはどこまでも強く自分が暗く淀んだ存在であることをファティナに示してやりたくなる。
おびえてにげられたいなどとは思わない。
だがそうされるのもまた自分の内に喜びとして広がる矛盾。
狐狩りの狐を追うように、ファティナが怯えて逃げるのであれば長銃を向けその肩口をぶち抜いてしまいたい。
「義母うえ、義母うえは私を愛しておられますか?」
親指の腹でそっとその唇の端に触れる。
淡い色の口紅を塗られたぷくりと愛らしい唇。白手にその色がうつり、汚れる。
それすら自らのうちに奇妙なざわめきを与えた。どこまでも真っ白いこの小娘様を自分の毒で汚してしまいたい。その渇望に身が震える。
ファティナの瞳が潤むのは恐れているからだ。
彼女は自らの義息を恐れている。義息として――ではなく、一人の男として恐れればいい。
「愛……しておりますわ」
「父よりも?」
「――」
細い喉がこくりと上下に動く。
ヴァルファムはやがてくすくすと笑みを落とした。
「冗談ですよ。義母うえ――?
どうかしましたか? まるで猟犬に睨まれた狐、いや、野兎のようですよ」
肩を揺らして笑い出すヴァルファムに、ファティナはほっと息をつき、ついで不機嫌そうに唇を尖らせた。
「意地悪をなさいましたね?」
「あなたがあんまりこの義息を困らせるからですよ。私ももう二十四だというのに、子供だ子供だと意地悪をおっしゃるし。ほんの少し報復されても仕方ないと思いませんか?」
「そういうところが子供なのです!」
「ああ、そうかもしれませんね」
くつくつと笑い、ヴァルファムは宥めるようにファティナの頬を撫でた。
びくんっと、ファティナのからだが小さく震えた。
それはおそらく無意識に。
今まで無遠慮に幾度も触れてきた頬。
ヴァルファムは唇をゆがめて笑みをつくり、身を寄せてその頬に口付けを落とした。
ファティナの体がほんの少しだけ固まるのが判る。
それは今までには無い反応だ。
腕の中に抱きしめたところで彼女はゆったりと何の不安も抱かずにその身を預けてきた。
だが、今の彼女は自分の反応に戸惑い、困ったように自分を見上げてくる。
ヴァルファムは腹の底から笑い出してしまいたい衝動を堪えた。
「義母うえ、どうか?」
「いえ……あの」
「そんなに怖がらせてしまいましたか? 申し訳ありません――どうすればこの義息を許してくださいます?」
「怖がってなどおりませんわ……」
ファティナはぎこちなく微笑む。
ヴァルファムは優しく微笑をこぼし、囁いた。
「非礼の侘びに口付けを許してくださいますか?」
「――口付け、ですか?」
「約束とは違いますが、特別な儀式に変わりは無いでしょう? 私があなたに意地悪をしてしまったお詫びに、キスをしたいのですが――許してはいただけませんか?」
柔らかに穏やかに謝意を込めたいのだと言われ、ファティナはヴァルファムの碧玉の瞳を見つめて小さくうなずいた。
どこか不安を覚えながら、それでも義息を信じて。
ヴァルファムは義母の唇をついばむように二度口付け、三度目その唇の膨らみを舌先で舐めた。
ファティナが翡翠の瞳を瞬いて見上げてくる。
それをとろけるような笑みで見下ろし、ヴァルファムはファティナの心に宿ったものに体の奥深い場所が熱を持つのを感じていた。
矛盾だらけのこの心を開いて見せてやりたい。
――穏やかに親子として生きて死ぬ。
そう望みながら、親子の垣根を脱ぎ払い憎まれてでも奪いつくしてその脳髄にヴァルファム以外のことなど考えられぬように染め上げてしまいたい。
そうしてはいけない理由。
――理由はただひとつだけ。
泣き顔より彼女の笑顔が大事だ。
泣かせたいという欲求よりも微笑みを与えられたいという望み。
その為ならば死ぬまで義息を演じられる。
まったく、くだらない。