ねがい
*時系列が多少ごちゃごちゃしていて読みづらいかもしれません…
クレオールの面前で、彼女はその封を施した。
慣れぬ所作で蜜蝋を溶かし、封筒にそっと落とし込む。女主のその様子に火傷などしないものかと息を詰める従僕に構わず、ファティナは銀の皿の上に置かれている印章を溶けた蝋に押し付けて封印を施した。
小さな野鳥と白百合とをあしらったその印章は、十六の生誕の祝いの品の中のひとつ。
かたりと銀の皿に戻し、ファティナは幸せそうに微笑んで――照れるようにそっとその封筒に唇で触れた。
「御返事、いただけると良いのですけれど」
生誕の祝いのお礼と、そしてこの手紙の中にはもっと親密な願いが秘められていることをクレオールは知っていた。
彼の女主が内緒話をするようにこっそりとそっと教えてくれた。実に幸せそうに。誰にも内緒。秘密の願い。
「お預かりいたします」
トレイを示すと、ファティナはねだるようにクレオールを見上げた。
「クレオ」
「いけません」
「まだ何も言っておりません」
「おっしゃられずとも判ります。ご自身で郵便屋に行きたいなどとお考えなのでしょう?」
「それも勿論ですけれど、リールの婚姻の時のヴェールのレース糸が足りないのです。買いに行きたいの」
彼女は親友への贈り物を現在作り直している。
――一度自分の身に乗せられ、あまつさえ床に落としてしまったことを危惧したのだ。
「また若様に御叱りを受けますよ」
クレオールは淡々と言うのだが、ファティナは悪戯をたくらむ瞳で見上げてくる。
「ヴァルファム様は騎士団に所属なさっておいでだけれど、内勤なのですもの。外で会うなんてありませんでしょ? ほんの少し、半刻ばかりで良いのです。この手紙だけは……わたくしの手で郵便屋さんにおあずけしたいの」
――クレオールはしばらく女主の顔を見つめていたが、やがて大きく息をついた。
ファティナの願いはほんの些細なものだ。街へとおりてほんの少しの買い物。そして、愛する夫へと向ける手紙の投函……悲しくなる程にささやかな願い。
「私がご同行いたします。ですが奥様――くれぐれも私から離れたりなさらないで下さい」
例え何か問題があったとしても、自らが罰を受ければ良い。
そう、たとえクレオールであろうとも、この女主がスリを相手に靴を投げつけるなどとは思ってもいなかったのだ。
***
ゲラゲラと笑いながら顔を出したのは上官だった。
何が楽しいのか紙を丸めてぱしぱしと手に当てながら、資料室で目当ての資料を探しているヴァルファムを見つけるとバカ丸出しの大声で言った。
「いやぁ、本当に面白いよな!」
「――主語が抜けた言葉で理解しろというのは到底無理ですね」
うんざりとしながらやっと見つけた資料を引き抜く。
誰の仕事をしていると思う。おまえが押し付けた仕事だと言ってやりたい気持ちになる。
「おまえの可愛い義母上殿!
警備隊のやつらに大人気っ」
「……は?」
すでにヴァルファムの義母が年若い小娘であることは騎士団の中でも知られている。だが、さすがに警備隊にまで話が渡るのはいささか理解できない。どこの誰が吹聴して歩いているというのか。
むっとしながら面前の上官をにらみつけると、くつくつと笑いを堪えながら言った。
「バザールでスリを捕まえたらしい」
ああ、安心しろー? 怪我とかしてないらしいからな。と言葉は続いていたが、ヴァルファムはもうそれどこではない。
目の前が真っ暗になった。
ふっと照明が落ちたような違和感。ぐらりと体がかしぐ気がしてがしりと書棚に手をかける。
ついで訪れた獰猛な怒りに、口元に笑みが浮かんだ。
笑い続ける上官と共にヴァルファムの口からも笑いがこぼれたが、あまりの不穏さに笑っていたディーン・ゼルトはひくりと口の端を引きつらせた。
「えっと……ヴァル?」
「言われていた資料です。私の机にある書類とつき合わせてお使いください」
「ヴァ、ル?」
「帰ります」
「――あんまり虐めるなよ? 嫌われるぞー? おーい? 給料差っ引くぞー?」
怪我は無いという言葉だけでは何の信用にもならない。その姿を見ないと安堵できようはずもない。何故、外に出るのだろう。堅固な檻と鎖とでつながないとあの人には理解できないのだろうか。
世の中は危険が満ちていて、いつなんどきあのような脆弱な義母を死神の手に委ねることになるか知れぬ。
だのに義母ときたら、ヴァルファムの心など欠片程にも危惧してくれないのだ。
最近の義母ときたら口答えも増えた。生意気にも言い返す――ヴァルファムは眉間にくっきりと皴を刻み込んだ。
――これはいわゆる反抗期というものだろうか。
小娘のくせに生意気な。
***
***
スリに靴を投げたことをさんざ説教し、やっと心を落ち着けたかと思えば思い出したように「子供が欲しい」などという病を再発させる。
喧嘩の果てに自分から逃げ出した義母の姿を求めたヴァルファムは、クレオールの言葉のとおり庭の噴水付近で犬と共にいる彼女を見つけることができた。
白くて大きなもっさりとした犬は、ヴァルファムを見ると低く身を伏せるようにして喉の奥で威嚇する。
それを一瞥し、ヴァルファムは噴水の縁に座ってつんっと横を向くファティナを見た。
――わたくしは怒っているのです。
そう必死に示しているのだ。
「子供が欲しい」という彼女に対し、「玩具をねだるようだ」と告げたヴァルファム。その言葉は小娘様のへそを完全に曲げたようだった。
ヴァルファムは苦笑し、足元にいる犬を蹴飛ばしてやろうかと思いもしたがそれは辞めた。
この義母は、ヴァルファムの心根など理解しようともしない。
一歩距離をとり、正しく義母と継子としての距離を保とうと努力しているというのに、突然こんな風に義息の心臓をぎしりと攫む。距離などとっている間にこの義母に何事かあれば、おそらく後悔してもしきれない。
仕事場で知らされた義母の冒険譚は、ヴァルファムを地獄に叩き込むには十分な破壊力があった。
義母ほどか弱く容易い人間などおそらくこの世には存在しない。眠ったが最後起きないのではないかという思いに不安を覚えたのは一度や二度ではない。
その憤りを収めたと思えば、子供が欲しいなどと言い、あまつさえ実力行使に出ようと父の元へまで行こうとする。
まったくもって彼女は不可解な生き物だ。
か弱く脆弱――もういっそ死んでしまえばいいと幾度も願いもした。
だがそれは他人の手で行われるものであってはいけない。ファティナはやがて訪れる老衰か、もしくは……自らの手で逝くいがい許さない。
一定の距離を保ち、平穏無事にこのまま二人ですごし果ては老衰。馬鹿げた夢だが、ヴァルファムは本気でそう願っている。
だが、距離をとったところで、死んでしまえばまったく無意味だというのに。
彼の義母はすぐに義息との約束を破り、彼の作る檻を抜け出す。脆弱な小鳥は檻の中で愛らしく鳴いていれば良いというのに。
幾度も幾度も約束を破り「ごめんなさい」という言葉のみで許してきた。
そろそろ罰のひとつでも与えたほうが良いのかもしれない。
――彼女が愛らしい声で泣いてすがって侘びをいれるような罰を。
胸のうちに浮かぶ暗い喜びの想いにふっと笑みが浮かんだ。
「義母うえ」
つんっと横を向いたままヴァルファムを無視しようとする義母に話しかける。
ファティナはそっぽを向いたまま、だがせいらいのこらえ性のなさの為か、しばらく見つめているとつっけんどんに口を開いた。
「話すことはありません」
屋敷を勝手に抜け出し、挙句またしても子供が欲しいのだと戯言を言う義母。
――外出して騒ぎを起こしたことを、子供が欲しいと我儘を言うことを、きっちりと叱り飛ばそうと思っていたというのにヴァルファムは義母の横顔を見つめながら降参した。
「……心無い言い様であったことは認めます。どうぞお怒りを解いて下さい」
「――」
「義母うえ」
ファティナの伏せられた眦が待ちあがり、潤む翡翠が見上げてくる。軽く睨むその所作を前に、ヴァルファムはその場で膝を折った。
地面に膝をついてファティナの膝の上に置かれた手を両手で浚い、額に当てる。
そこから流れるものが、胸を締め付ける。
――いくら離れたいと意図しても、彼女はそれを許さない。
ヴァルファムだとて理解している。彼女の心の中の一番は父で自らには無い。そして、永遠に彼女と共にあろうとするならば義母と継子という立場が最大の恩恵であるということ。
その心を真綿にくるんで守り続ける想いと同時に、破壊しつくしてしまいたい欲望。危うい均衡は、いつどちらに振り切れてもおかしくない程だというのに、彼女はあくまでも陽だまりで生きている。
――ヴァルファムは自らの振る舞いに笑うしかない。
彼女が陽だまりにいようとすれば、まるで自分は日陰か――それとも地底か。まったく別の場所にいる醜い獣なのではないかとすら錯覚する。
幾度も幾度も自分を戒めて自重を促したところで、ファティナを前に義息は敗北するしかない。
怒る顔も泣く顔も笑う顔も全て――腕の中に閉じ込めてしまいたい渇望。
神とはいったい何をもってこのような恐ろしい生き物を作り上げたのだろう。
彼女はヴァルファムの心を打ち砕き、また喜びをも与える。
「どうすれば許して下さいますか? 何か美味しいデザートでも取り寄せましょうか? 買い物にだって付き合います。どこか行きたい場所があるのであれば、お連れしましょう」
私にできることであれば、何なりとおっしゃってください。
ぴくんっとファティナの指が反応する。
下から覗き込めば、ファティナは口元が笑ってしまうのを必死に堪える顔をしてヴァルファムを見ていた。
「本当に?」
「私があなたに嘘を言うとでも?」
「では、わたくしお願いが――」
ぱっと綻ぶ表情にもう怒りはない。鳥頭は怒りを継続するのも難しいのだ。愚かでかわいらしい義母。それを見つめ、ヴァルファムはほっと息をついたが、
「ソルドさんと仲良くして下さい」
「それは無理です」
義母の言葉に考えるまでもなく即答していた。
***
先日、ファティナの16の生誕の祝いにと父からの贈り物を運んできたのは、普段来る従僕とは違う男だった。人間が変わることは良くあることで、これといって何の興味もない。
その男がファティナの元に跪き、その手を押し頂き口付けを落とすこともこれといっておかしなことでもない。
女主にそれ相応の敬意を払うのはむしろ当然のこと。
だがその男は、眼鏡の奥の鋭い眼差しを細め口元にゆるく笑みを刻みつけ「我が姫君」と囁いた。
「姫、私のことを覚えておいででしょうか? このカディル・ソルドを」
穏やかに甘く囁かれる言葉に、意外なことにファティナは瞳を瞬いてしばらく思案はしたものの、やがて柔らかに微笑んで応えた。
「覚えておりますわ――わたくしの婚姻のおりに立会いなさいました方、でしたもの」
「はい。立ち合わせて頂きました。
姫君はとても立派でございました。さすが私の姫様だと今も私の心にその時のことは思い起こすことができます」
「姫だなどと、わたくしは人妻です」
「いいえ、私にとっては貴女様はいつまでも私の姫でございますれば」
――その時の気持ちは筆舌に尽くしがたい。
ヴァルファムは自分の狭量加減を自覚しない訳にはいかなかった。
自らの知らない義母を知るものがいる。そしてまた、その記憶は義母の内にもあるのだ。義母の手を取ったまま男は熱っぽくファティナを見つめる。
セラフィレスの時にも抱いたが、このときの嫌悪感はそれを容易く凌駕した。
ファティナの手を掴んだままの男のその瞳は、小ざかしい狐がか弱いネズミやうさぎをどう料理しようかと値踏みするそれに似ていた。
そんな視線でファティナを見るなど汚らわしい。
ヴァルファムは腹に鉛でも落とされたような鈍い重さを感じた。
「月に数度、姫様に勉学をお教えするようにと旦那様から言付かってまいりました」
まぁっ、とファティナが嬉しそうに声をあげるのをさえぎるように、ヴァルファムは相手の手を跳ね上げ、ファティナの肩を押すようにして向きを変えた。
「義母うえ、出かける準備があるのですからいつまでも時間を無駄になさらないで下さい」
「え、あっ?」
「ご友人のお茶会に出席なさるのでしょう」
もとより歓迎などしていなかったが、今はこの予定があることが幸いだった。
「ヴァルファム様、ソルドさんに失礼ですわよ」
まだ会話を交わしていたのを邪魔する義息を叱責するように言うが、ヴァルファムはファティナの肩を押さえ込み、自分だけ相手へと視線を向けた。
「父の使いといえども先触れもなく現れた方が非礼なのですよ。それに、勉学? 母には専属の家庭教師がつけてある。悪いがあなたは不要だ。用はすんだ。父の元に帰るのだな」
きっぱりと突きつけ、話は終わりだとファティナを押すようにして部屋を出ようとした背に、カディルは小さなくすりという笑みをこぼし、言葉を続けた。
「私にしかお教えできないことがあるのですよ。生憎とあなたの命令には従わない。
我が姫よ。近々またお尋ねいたします――そのおりには姫がお好きだった焼き菓子をお持ちいたしましょう」
ヴァルファムのことを完全に無視した男は、狡猾な笑みでファティナを見つめていた。
――その相手と仲良く?
共にいる間どれだけ殴り飛ばしてやろうかと思っていた相手だというのに。
「それは無理です」
考えるべくもなく、答えは決まっている。
ごちゃごちゃしててすみません。
【継母と継子1】午前中・ファティナ→【継母と継子1】昼・ヴァルファム→
【継母と継子2】その後→【ヴェール】その後……になっています。