ヴェール
義母の瞳が期待に輝いていた。
――お願いがあるのです。
確かに、そんな話をされた覚えがあった。うっかりと聞き流していたが、彼女はそのことをちらとも話題にしなかったが忘れてはいなかったようだ。
休暇の三日目。
ファティナが起毛の絨毯の上、クッションに座りレース編みをしているのを時折眺めながら、平穏な気持ちでチェスの布石を一人で楽しんでいたヴァルファムだったが、ふいにファティナは手をとめて小さく「あっ」とつぶやいて言った。
どこかわざとらしく。
「忘れておりました。ヴァルファムさま」
「なんですか?」
盤面へと視線を戻し、女王を犠牲にすればあと十回程度で相手の王を下すことができるが、果たしてそれは騎士としてまっとうな考えとはいえないだろうと苦笑する。
女王を守りつつ王を下すにはあと――いや、だがやはり女王を放棄してしまったほうが話しははるかに早い。
まぁ、所詮自分は騎士団に在籍はしているが内勤の文官――所属が騎士団というだけであってここはやはり頭を使って――
「お茶会に行きたいのです。よろしいですわよね?」
明るい言葉に僧兵が弾かれて転んだ。
「また突然……何事です?」
「リールからご招待いただきましたの。ヴァルファム様がいらっしゃらない間のことでしたから、わたくしとっても困ってしまいまして」
「……」
ファティナはにっこりと微笑んだ。
「出席しますとご返事してしまいました」
――確信犯か!?
鳥頭の癖にいつの間にそんな悪知恵を働かすようになった。
ヴァルファムは引きつるのをこらえ、じっとファティナを見つめた。
「何故、私の返事を待たずにそんな真似をなさったのですか」
「だってヴァルファム様はお忙しいようでしたし、わたくしは女主として自らの決断を問われたのです」
――何故か胸を張って言うファティナだったが、じっと見つめ続けると居心地が悪いのか眉をじりじりと寄せて小首をかしげた。
「だめでしたか?」
「……」
「でも、でも、もう……」
「いつです?」
嘆息気味に言えば、ファティナはぱっと顔をほころばせた。
「本日の午後ですわ」
――やっぱり確信犯じゃないか。
こんなにぎりぎりになるまで言わずにいるとは。当日に断ることなど到底できない。それをしっかりと熟知しているのだ。だというのに、しれっと「忘れておりました」などと白々しい。
義母の鳥頭がそんな思考を持つ日がこようとは。
ヴァルファムはその冷たい碧玉の視線をちらりと部屋の片隅で控えている男へと向けた。
「つまり、衣装の準備もすんでいる訳だな?」
きつい口調で問いかけるのだが、クレオールではなくファティナが陽気に応えた。
「淡い緑のサマードレスですのよ。お茶会にはきっとぴったりだってメアリ女史もほめてくださいました」
冷たい視線をさらに冷たくしてクレオールを睨んでいたのだが、ふいにファティナの瞳が下方から覗き込み、その手がヴァルファムの手を包むように触れた。
「ヴァルファム様も一緒に行きましょう?」
そのように言われて断れる人間などいない――ヴァルファムは脱力したように吐息を落とし、掴まれた手の上にさらに自分の手を重ね合わせ、とんとんっと優しくたたいた。
「私もご一緒でよろしいのでしたら。否やはありません」
これも戦術の一つじゃないだろうか。ちらりとヴァルファムは思ったが、うれしそうな義母の様子に白旗をあげた。
あと数手で王を取れた筈だというのに、犠牲にしようと思っていた女王がくるりと振り返って遁走するような錯覚を覚えた。それともこの女王は敵側の女王で誘惑されたのか?
ぐしゃりと盤面の駒を散らした。くだらん。
すくいあげた手のひらにそっと口付けを落とし、ついでファティナの瞳を覗き込む。
混じりけのないきれいな翡翠。
その瞳に、自分はいったいどのように見えているのだろうか。
「ですが義母うえ、私にとってはあまり知らぬ相手の茶席。どうぞこの義息を一人になどして心細い思いをさせて下さいませんように」
「まぁ、ヴァルファム様でも心細いなどありますの?」
「ありますよ」
さらりと言ってファティナの瞼に口付けを落とす。
「私はとても小心者なのです」
――触れたいという思いと同時に触れるなという命令が下る。どちらも自らの心だというのに、体は脆弱に行動する。
小心者だと吐露する義息の言葉に、ファティナの瞳が瞬いた。
彼女は瞼の口付けを、頬の口付けを――唇に触れることすら許す。
どこまで許されるのかその際を、深淵を……見極めたい誘惑。
「ヴァルファム様のような方が? とても信じられません」
「あなたには私がどう見えているのでしょうね?」
苦笑と共に問えば、ファティナは多少の思案もなく即答した。
「いばりんぼうのおこりんぼうです――小心者だなんてとんでもない」
「……」
「でもちゃんと優しさもあるのは知ってますわよ? それで時々とってもかわいらしいの」
くすくすとからかうように微笑を落とされ、ヴァルファムは眉間に皺を刻んだ。
「わたくしの自慢の息子です」
その瞳が悪戯でもしでかすように輝いている。それを見つめ、ヴァルファムはこくりと喉を鳴らした。
ゆっくりと心の中で数字を数える。
喉の奥にたまる唾液を、気づかれないようにゆっくりと嚥下する。気づかれたところで何がどうなる訳ではないと承知しているが、それでも……自らの気配を殺すように。
「今日のお茶会はリールの婚約のお披露目なのです。結婚式は相手の方の御領地ということですから到底わたしくしが出席するのは難しいと思いますの。ですから今日だけは行きたいと思っておりましたのよ」
ファティナは自分のひざの上で揺れるレース編みをきゅっと抱きしめた。ほんの少し恥ずかし気に。
「ヴェール、今日中にできればよかったですけれど、ちょっと無理でした。手直しもしたいですし、またこれは改めてリールに御贈りいたしますわ」
このところ彼女が熱心に作っていたのは、友人の結婚式の為のヴェールだったのだ。
それをどこか空虚に聞きながら、ヴァルファムは薄い笑みを浮かべた。
義母の手から作りかけのヴェールを抜き取り、ふわりと頭にかけてやる。
それを瞳を細めて眺めて、ヴァルファムは囁いた。
「義母うえの花嫁姿はさぞかわいらしかったでしょうね」
なにせ当時は十三歳だ。
そしてヴァルファムの前に引き合わされた時、すべてはすでに終わっていた。
ヴェールに縁取られた面に苦笑を浮かべ、ファティナはゆっくりと顔を振った。
「花嫁衣裳は着ておりません」
「……司祭の前で婚姻の儀を執り行ったのでしょう?」
「司祭様はいらっしゃいましたけれど。わたくしと旦那様が行ったのは書類のサインだけです」
幾つかの書類にサインをして終えたその儀式を思い浮かべたのか、ファティナは微苦笑を浮かべて小首をかしげた。
「ヴァルファム様の婚姻にはわたくしがヴェールを作ってさしあげますね?」
腹の底の血の気が引いて、ついで呻くように言葉がもれそうになるのをヴァルファムは必死で押しとどめた。
たとえそれが政略結婚、馬鹿げた年齢差のある婚姻だったとしても、あまりにもファティナを蔑ろにしている。幼い小娘の心をどこまで踏みにじれば気が済むのか。
誰より結婚に夢をもつこの小娘様を。
――死んでしまえ。
もう幾度も唱えた呪詛が腹をめぐる。
自らでも義母でもなく、それは父へと向けられた。
そう、あんな男など死んでしまえばいい。
「……あなたはっ」
「はい?」
――あなたはそれでもあの男を愛しているなどというのか!
その言葉を必死で押し殺した。
腹立たしいことに知っている。義母は――たとえそれがまやかしといえども父を愛している。一途に愛していると思い込んでいる。彼女に父の悪態を向ければ、それは諸刃の剣となって自らにかえるのだ。
強く噛んだ奥歯がぎしりときしみ、握りこんだ手がその強さにわずかに震えた。
ファティナは自らの頭に掛けられたヴェールをそっと引き抜こうと手を掛けた。それをとっさに阻むように抱き込んで、その耳元に囁いていた。
「病める時も、健やかなる時も共にいて下さいますか?」
頭がくらくらする程の暴挙だ。
自分はおそらく壊れている。
「ヴァルファムさま?」
そんな壊れた男の腕の中で、くすりとファティナが笑う。
「結婚式の真似事ですか?」
「いけませんか?」
「いけません。誓いは神聖ですもの――たとえヴァルファム様といえど、遊びでそんなことをしてはいけません」
「いいじゃありませんか」
憤りでめまいがする。
言葉が震えないのが不思議だった。
ファティナはなおも首を振り、ゆっくりとヴァルファムの胸に手を当てて体を引き離した。
ゆっくりとゆっくりと引き離された身体。
自分を見上げてくる義母の表情はやけに穏やかで、そして――儚い微笑みを浮かべていた。
まるで大人のような。
まるで慈愛深き母のような。
「それに、約束しましたでしょう?
わたくしはヴァルファム様と一緒におりますわ。そんな戯事は必要ありません」
そうでしょう?
幼子をなだめるように言い、ファティナはヴァルファムの頬をその手でそっと撫でた。
ふわりととろけるような微笑は――胸を締め付ける。
「神聖なる誓いの儀式はご自身の花嫁さまの為だけにとっておかなくては」
時折――
時折、この目の前のずいぶんと年下の小娘は、すべてを理解しているのではないかと脳裏をかすめる。
自分の境遇を――夫に捨ておかれた哀れな境遇を。
義息が抱くほの暗い淀みを。
そのすべてを知りながら、そしらぬ顔をして笑うのではないかと。
誰よりも――計算高き罪深い女なのではないかと。
そうであれば良いのに。
そうであれば、いっそ壊してしまえるのに。
苦しさに息を忘れそうになったヴァルファムを正気づかせたのは、クレオールの来客を告げる声だった。
「奥様――」
低く静かな声が言う。
「旦那様から贈り物が届きました」
無機質な言葉に、ファティナはドレスの裾をふわりと揺らして立ち上がった。
「今年は少し早いのですね」
物柔らかな声音が響くなか、白いレースのヴェールがとさりと床に落ちた。
結婚の戯事などもう彼女の心には無い。誰の目にもそれは明らかだった。彼女の心は一瞬にして喜びとせつなさに溢れ、義息との戯言など失われ――占めるのはたった一人の夫のみ。
彼女は夫を愛していると思い込んでいる。
そう【思い込んでいる】と【思い込みたい】のはヴァルファム自身だ。