継母と継子その1
手元のレース編みを見つめながら、唇は不可思議な呪文を唱える。
鎖編みを三つ、長編みを一つ。鎖編みを一つ。長編みを一つ。
それはいつからはじめられたのか、すでに膝の上でふわりと伸びて、まるでヴェールのようになっているドイリー。ドイリーと呼ぶには大きなものだ。
ベッドカバーかカーテンでも作っているのかもしれない。
じっとそれを見つめながら、ヴァルファムはその手元と、そして赤みのある柔らかな金髪の旋毛を交互に見た。
――死ぬな。
と無遠慮に思う。
もし、これが騎士団の人間であれば、これほどまで他人の気配に無頓着でいればあっさりと刺されてしまう無能さだ。
ノックはした。
二度して、返事はなく。さらに二度ノックをした。
中にいるのは判っていたのだがもしや眠っているのかと思い、扉を開いて中に入れば、一心不乱という様子で手元を見つめ、謎の呪文を小さな声で唱えている小娘――齢十六になるヴァルファムの義母、ファティナがいた。
置かれているダイニングセットのソファに座り、せっせとレース編みに興じている。よく見れば模様は薔薇の花と蔦、華やかなものだ。
声をかけようとも思ったが、いつ気づくだろうという好奇心からヴァルファムは壁に背を預け、腕を組むようにしてじっと彼女の様子を眺めていた。
十三歳という年齢で嫁いできた小娘様は、三年の歳月で随分と身長を延ばし、丸かった顔もほっそりとしてしまった。
相変わらずその瞳は大きな翠玉のようで、ついでその指先はまるで魔法のようにモチーフを刻む。
「えっと、上がりが四つで、長編みがみっつ………」
呪文が変わったのは糸が端についたのだろう。
さらにまた続くのかと、自分の忍耐力もそろそろ限界かもしれないとうんざりしたところで、ついっとうつむいていた翠玉があがった。
一瞬びくりとした頭が、ゆっくりと上がり、そろりそろりとその視線が自分の体を這い上がるのを感じる。
どうにも居心地が悪い。
爪先の長靴を進み、足を昇り、腹を這い、やがて唇を見て、ついで視線がかちりと合う。
途端に、ファティナは「ひっ……」と喉の奥で言葉を凍りつかせた。
「ご機嫌いかがでしょうか。義母うえ」
組んでいた足と、そして腕とをとく。預けていた背をとんっと壁から外して、にこやかに、そうつとめてにこやかに挨拶したというのに、ファティナは大仰に叫んだかとおもうと、まるで追い詰められた子ネズミのように暴れ、寝椅子の縁にがしりと張り付いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、ヴァルファムさまっ」
「おや、何をそんなに慌てておいでなのでしょう」
猫なで声で優しく言えば、ファティナはこくりと喉を上下させ、うかがうように上目遣いで見上げてくる。
「……」
何かを考えている。
―――じっくり考えているようで暫くそうしていたというのに、突然ぱたぱたと居住まいをただし、にっこりと微笑んだ。
「ごめんなさい、いらしていたことに気づかなくて」
と、まるで「気づかなかったことを謝ったのよ」と言わんばかりの態度を示した。ただし、ヴァルファムには勿論、相手があんなに取り乱して謝った理由に思い当たるフシがある。フシどころか、こうして仕事を早々に切り上げて帰宅した理由だ。
にっこりとヴァルファムは笑みを浮かべ、一歩進む。
「バザールは楽しめましたか?」
「――」
「スリにあわれたと聞きましたが」
つっと視線が反らされる。
「いえ、スリになどあっておりません」
「ほぉ、あわれませんでしたか」
「――わたくしは」
「スリに靴を投げつけたのですよね?」
ひくりとファティナの口の端が引きつった。
ヴァルファムはゆっくりと寝椅子の前に立ち、静かな怒りを内包した口調で言った。
「そこに座りなさい!」
「……座っております」
―――失礼。
そう、もとより座っている。だからといって揚げ足など取られては相手が逆上するものとどうして思わないのか、この鳥頭は。
コンコンと小さなノックの音が部屋の奇妙な緊張感を蹴飛ばす。ファティナはぱっと視線をあげ、開きっぱなしの扉から入ってきた執事であるクレオールの姿に救いを求めた。
「クレオっ」
クレオールはちらりとヴァルファムを見て、ついでファティナの手元のレース編みを眺める。彼女は未だにそれをしっかりと手にしていたし、鈎針も健在で持っている。それを危険だと感じたのであろう、静かにその手元の物を片付けると、クレオールはヴァルファムに一礼した。
「続きをどうぞ」
「クレオっ」
この現状を打開してくれると思われた執事だが、どうやら今度のことに関していえばヴァルファムと同一見解に達しているらしい。
ヴァルファムは満足気にうなずき、さて、と自分のすべきことを再会することにした。
「バザールへ外出許可を出した覚えもありません」
「私は貴方の義母です! 何故息子の許可が必要なのでしょう」
それでも負けまいとして言うのであろうが、この猫科の小動物はすでに耳も尾も垂れていることに気づいていないのだろうか。
身を伏せた方が喧嘩は負け。
威圧的に腕を組み、口の端をあげて笑みを向けてやる。
小娘様のその瞳にはこんもりとしたものが浮き上がってきそうだ。
「第一に、あなたのことに関しての全権は私にあります」
「……ありません」
ぼそりと言う。
とりあえずこれは無視だ。
「第二に、あなたが動くと私が迷惑を蒙るのです」
「……それはこんかいたまたま……」
これも無視。
「第三に」
ここで大きく息をつく。
厳しい口調を張り替えて、優しく、優しく―――極力優しく、囁く。
「私が貴女を心配しているのです、義母うえ」
「ごめんなさい」
しゅんっ、と判りやすいくらいうな垂れる。
それから救いを求めるように「わたくしが悪かったと思っておりますわよ。ヴァルファムさまにご迷惑を掛けるつもりではありませんでしたし、バザールの雰囲気を楽しんですぐに帰宅するつもりだったのです」悪気は全然なかったのですし……
「何故スリに靴など投げつけたのです」
「わたくし、石投げは得意なのです」
本当に得意そうに言うのがまた呆れる。
石投げが得意だとどうして靴をなげるか?
「バザールで歩いていたら、突然女性の悲鳴が聞こえてまいりまして、スリだというではありませんか。これはいけないと思って、咄嗟に逃げていく男の方に向けて」
すぱーんっと、それは見事にクリーンヒットしたのだと。
すでに当初の「ごめんなさい」などすっかりと忘れて、ファティナは実に嬉しそうに言うのだ。
瞳がきらきらと輝いている。
軽い興奮を隠そうともしない。
きっと心の中は単純に「わたくしってすごい」という阿呆な思考で埋め尽くされているに違いない。
ヴァルファムは深く息をつき、彼女の忘れ去られた「ごめんなさい」を取り戻すために、ぱんっと一度手を叩いて、皮肉をたっぷりと込めた口調でもって、
「とりあえず、足をそろえてきちんと座りましょうか、義母うえ」
臨戦態勢を伝えた。