焦燥
意図的にファティナとの距離を保つ――
一歩退き、義息としての自身を保つ。そう努めている義息の努力など、おそらく彼の義母は欠片程も考慮していなかった。
「そうですかー、いやいや、こちらとしても申し訳ない」
自身の勤める勤務場所である一室――上官の呼び出しはいつものことであるが、扉に手を掛けた状態でヴァルファムは眉間に皺を刻んだ。
「彼は真面目に勤務してくれるのはいいんですがね、いささか真面目がすぎる。うん、いえいえ褒めているんですよ。ええ、私などはですね、彼がいないと自分の仕事もままならない」
「でも、あんまり忙しすぎてヴァルファム様が倒れてしまいます」
高い声音にそのまま身が沈みそうになった。
――夢にまで現れる相手。これこそ夢ではと眩暈がした。
もちろん悪夢だ。
「しかしそんなに帰宅できない程の仕事を彼がしていたとは、それはこちらの落ち度ですね。本当に申し訳ない」
「あら、ゼルトさまが悪いわけでは」
「どうぞディーンとお呼び下さい。かわいらしい奥方さま」
「あの、ディーン様……あの、近いです」
怯えを含む少女の声に、ヴァルファムは乱暴に扉を開いた。
応接用のソファに向かい合い、ファティナの手を握って間に挟まれたテーブルを無視してファティナに近づこうとしている上官の姿にヴァルファムは笑みを浮かべた。
「何をしているんですか」
「よぉ、ヴァル。おまえ遅い――いや、早い。もうちょっと気を利かせろ」
ニヤリと口角をあげて笑う上官に、ファティナが瞳をぱちぱちと瞬く。その間もファティナの手を両手で挟みこんでいる男に、ヴァルファムはつかつかと近づいて力いっぱいその足を長靴で踏んだ。
くぐもったうめき声を黙殺する。
「義母うえ、何をしておいでです」
「ヴァルファム様がお着替えを求めていらしたでしょう? お届けに参りました。それと、エマのパイを」
自由になった手で、同じくソファに置かれているバスケットを示してファティナは微笑んだ。
――もう一月近く正面から見ていない微笑。
ぎしりと胸がきしむ。
「いやぁ、それにしてもおまえこんな可愛いお義母さんなんて羨ましい。一度も話題に出さなかったじゃないか、オレだったら自慢しだくりだぞ」
踏みつけたままの足に更に力を加えた。
「義母うえ、勝手に屋敷を出るなどとどういう了見です」
「ですから、出て宜しいですか? と尋ねに参りましたの。だってヴァルファム様ときたらこのところちっともお帰りではないのですもの。それに、お願いが一つありまして、そのためにも是非お顔を拝見しなくてはと思って参りましたのよ」
おそらく幾度も考えて捻った受け答えなのだろう。
よどみなく言い切るファティナを見下ろしながら、ヴァルファムは上官の足をさらにぐりぐりと踏みつけた。
「……ヴァル、痛い。めちゃイタイ。え、オレそんなに悪いことシマシタカ? 全体重掛けてませんかね?」
「ああ、いたんですか――とっとと出て行ってくれて構いませんよ。あなたが回してきた書類の三分の二はまだ残ってますからお好きになさい」
冷淡に言う部下に、ディーンは顔をしかめて両手でもって自分の足を相手の足の下から引き抜いた。
引き抜いても足の甲がずくずく痛む。
情けも容赦もない。
「可愛い奥さん。この鬼っ子の義母うえさま。あなたの義息はいつもか弱い私をいたぶるんですよ。ひどいと思いませんか?」
「あら、ヴァルファム様は怒りんぼうですからしかたないのです。
でもわたくしちゃんと知ってますのよ?」
とっておきの秘密を語るように、ちらりとファティナはヴァルファムを盗み見て微笑んだ。悪戯を企む子供のように。
「ヴァルファム様が怒るのは、相手の方を想ってのことなのです。ヴァルファム様はとても愛情深くて優しくて心配性な方なのですよ」
かぁっと体温があがった。
むしょうに気恥ずかしくなり、この場から逃げ出してしまいたい衝動にかられる。
ディーンは呆気に取られたようにファティナを見て、それからヴァルファムへと視線を合わせた。
「……」
「……」
数秒視線を絡めて、ディーンはぱんっと勢いをつけて自分の膝を打った。
物凄くわざとらしく。
「ヴァル、おまえ、仕事が原因で寝込んだりしないように三日程休暇をやる。この可愛い義母うえと自宅に帰れ」
「それはっ」
自宅に戻らなかった理由は仕事ではない。それを承知でディーンはにやりと笑い、席を立つと胸元に手を当てて優雅に一礼した。
「いやいや、最近はヴァルに怒られ通しでしたが、よもやその原因が彼の愛情ゆえとは少しも理解していなかった。なんとも私も未熟なことだ。そんな私ですから、彼の疲れにも気づけなかったようだ。どうぞご自宅でゆっくりと静養させてあげて下さい」
「ディーン様はお優しいのですね」
「いえいえそんなことはありませんよ。ところで可愛い奥方さま、どうぞ今度私めの自宅にいらして下さい。自慢の茶葉を振舞わせていただきたい」
「ヴァルファム様がお許し下さいましたらお伺いさせて頂きます」
「おやおや、口やかましい義息殿のようですね。ですがそれもまた愛情ゆえということですか」
くくっと喉を鳴らして笑う上官に――殺意が沸いた。
「ええ、ヴァルファム様はとてもお優しいのです」
おそらく本気で言っているであろう義母を睨みつけ、ヴァルファムは彼女の横におかれていたバスケットを引っつかんだ。
「中佐――」
低く呼ぶ。
「んん?」
にまにまと視線を向けるディーンへとヴァルファムの碧玉の瞳が向けられる。
「七日程休暇を頂きます。なに、その間は有能なあなたのことだからきっと私がいなくとも仕事をこなして下さいますことでしょう。ええ、きっと」
きつく睨み、ファティナの腕を引いた。
細くて華奢な手首。
軽い体重――くそっ!
離れている間に他の女を抱きもした。
仕事にも没頭したし、極力考えないようにしていた――その全てをこの女は無駄にする!
乱暴に腕を引いて歩く。
長靴の音が廊下に響く。
他の部下やらがぎょっとしたように避けていくのも無視して建物を出て車寄せに出れば、馬車と共にクレオールが一礼してそこにいた。
まるで全てを見透かすように!
「何故おまえがここにいる」
「奥様の付き添いとして参りました」
「――おまえは屋敷の管理が仕事だろう」
苛立ちのままに怒鳴れば、ファティナが声をあげた。
「無理を言ったのはわたくしです。クレオを叱らないで」
「……」
ヴァルファムは一瞬天を仰ぎ見た。
二十歳をとうに超えたというのに、空の蒼さに涙がでそうだった。
こんなに厄介なイキモノはこの世に二人といないだろう。ぎりっと唇を噛み、深い呼吸を繰り返してゆっくりとファティナへと向き直る。
幾度見返してもそこにいる小娘様は変わらない。
天使のような悪魔。
「馬車にどうぞ、義母うえ」
「一緒に帰るのですよね?」
おそるおそるというように尋ねられ、ヴァルファムはゆっくりと、そうするのも苦しいのだというようにひどくゆっくりと息を吐き出した。
「はい――」
ファティナに手をかして馬車へと導いてやる。
置かれているステップに足を掛けてファティナは微笑んだ。
「良かった」
ふわりと砂糖が溶けるかのような晴れやかな言葉と微笑は、あまくて身を腐らせる毒のようだ。
「何が良いのです」
「だって、ヴァルファム様に嫌われてしまったのかと心配したのです。ずっと……お会いできなくて、まるで避けられているのではないかって不安でしたの」
――避けていましたよ。
だが嫌ってなどいない。
腹立たしいことに、嫌ってなどいない。
憤りを覚えたり憎しみすら覚えるというのに、嫌うことができない。
「御仕事だから仕方ないとは思っておりましたけれど、とても……とても寂しかったです」
儚い微笑みを浮かべるファティナの姿に、ヴァルファムは口の中で呪いの言葉を呟いた。
――死んでしまえ。
相手は誰でない自分だ。
この一月の苦しみをたかが一言で霧散させる。
抱きしめて閉じ込めて誰の目にも触れさせずに……
「ヴァルファム様?」
馬車の座席についたファティナは、自分と相対する席に腰を落ち着かせた息子を見てギョッとした。
「どうなさいました?」
「――」
「どこか痛みますの? あのっ、ヴァルファム様?」
その頬につっと流れ落ちた涙に、ファティナは動揺しておろおろと腰を浮かした。
伸ばされた手を引き寄せ、胸にかきいだく。
驚く義母に囁いた。
「お会いしたかったですよ」
ずっと、ずっと……共にいて下さい。
きつくきつくきつく、抱きしめて搾り出す言葉に数々の想いを込めた。
けれど彼女はふっと微笑み、優しく言うのだ。
「わたくしはどこにも行ったりしませんわよ? ふふ、ヴァルファム様はときどき本当に小さな子供のようですわね」
ヴァルファムは苦しさにあえいだ。
肉欲ならば女を抱けば済む。
だが自分が義母に求めるそれは――何をすれば満たされるのかもう判らない。ファティナを腕の中に抱きながら、乾いた笑いが浮かんでいた。
微笑んでいて欲しい。
泣いて欲しい。
苦しんで欲しい。
……これは病に違いない。
距離をおけばどうにかなるなどとあまい妄想だ。
彼女が生きている限り……自分はもう完治しない。
誰か彼女を殺してくれ。
いや……だめだ。駄目だ。
誰もそんなことをしてはならない。
自分いがいは。