距離
一通の手紙が届いた。
それは父親からの定期便。銀色のペーパーナイフを差し入れて、ヴァルファムはそれを斜めに読み流した。
――私の姫君は息災にしているか。
ぴたりとその言葉に目が留まる。
姫君という言葉の前に、私の、と入れられている事実に心臓がきしんだ。
――いつからだ?
いつから、父は姫君という言葉の前にそのような単語を入れていた? 思い返してみても判らない。ファティナの話題に触れた途端、ヴァルファムは苛立ちを覚えてそれを抹消してきたのだ。
今この時も咄嗟に火にくべてしまいそうな気持ちになったが、どくどくと血脈を辿るような気持ちでその先の文字を拾い上げた。
そしてやっと安堵の息をつく。
それ以上ファティナの話題には触れられていない。これといって父はファティナに関心など払ってはいない。
そう息をつき、そんな風に安堵する自分にヴァルファムは自嘲的に笑った。
あの日、ヴァルファムは自分の中のそれをいやという程理解した。
いつか自らが義母との関係を破綻させるのではないかという闇を。そんなものは必要ではない。本来もつべきものは穏やかなるものである筈だ。
求めるべくものが泣き顔ではなく微笑みであるはずなれば、立ち止まり一歩退き、名を呼ばぬ強い意思を。
ファティナと、次に音に出した時……それを思えば身がすくむ。
その身を苛み、その心を殺し――果てにあるものなど欲しくは無い。
彼女と自分は義母であり継子であるべきだ。
そうでなければ、共に永劫居られなどしない。
オンナとはやがて離れるものであることをヴァルファムはいやでも知っている。
何より、彼女が愛していると思い込んでいるのは――父だ。
***
「今日はお戻りになられないのですか?」
朝食の席でファティナが興味津々という様子で尋ねてくる。
「何の話しです」
「だって、最近ヴァルファム様は時々帰っていらっしゃらないではありませんか。週末でもあることですし、今日も帰っていらっしゃらないのかと思って」
「帰れない時だって仕事です。何をそんなに楽しそうになさっているんですか」
さらりとヴァルファムは返し、お茶をことさらゆっくりと喉の奥へと流し込んだ。
「まぁ、そうなのですか? わたくしはてっきり想い人ができたのかと思っていましたのに」
「生憎とそんな相手はいません」
「がっかりですわ」
心から落胆したように言う義母をさめた眼差しで睨み、ヴァルファムは唇を舐めた。
「あのですね、ヴァルファム様」
「なんでしょう」
「……正直に言って頂きたいのですけれど」
ふいに、思案するようにしていた義母が姿勢を正してヴァルファムの瞳を射抜いた。
ふだんほやほやとした彼女にしては珍しく真剣に、そして――強い意思を閃かせて。
ヴァルファムはずくりと身にうずくものを感じながらファティナの視線を受け止めた。
「わたくしの杞憂であれば良いと思っているのです」
「――」
「ですが、もしかしてと思うとわたくし……ここは正直にヴァルファム様のお心を聞かせて頂きたいと思いまして」
ヴァルファムは自分の口腔に唾液が溜まるのを感じた。
手のひらに体温があがり、我知らず血脈の音すら耳もとで響く。
ファティナがいつになく真剣で、そして――とても言いづらそうにしている様子にヴァルファムは極度に緊張するのを感じた。
彼女が何を告げようとしているのか、とても……
「ヴァルファム様は、もしかして――」
「もしかして?」
口ごもった言葉の先をゆっくりとうながせば、ファティナは躊躇うようにして視線を逸らし、だがついで勇気を奮い起こすように言った。
「男の方がお好みなのですか?」
「――」
カシャンと茶器が音をさせた。
音をさせたのは新しく茶をいれていた侍女だ。
この場の空気は絶対零度まで引き下げられ、ぴしりとどこかに亀裂が入った。だというのに、ファティナだけは相変わらず場の空気を読まずに勢いをつけて言葉を紡いでいた。
「最近読んだ本にそのような話しがあったのです!
もしやと思いましたけれど、ヴァルファム様はちっとも花嫁さまを探そうとなさいませんし、女性の方とお付き合いされている様子もありませんし……あの、もし御悩みであるのであれば、わたくしにきちんと聞かせて下さいませ。一人で思い悩んでいらっしゃるようでしたら――」
「黙りなさい」
ヴァルファムは怒鳴らなかった。
ただ淡々とした口調で、黙りなさいと告げていた。
怒りは沸点を通り越し、腹は冷えた。
頭も冴えている。
「どんな本を読んでいるのです、くだらない。なぜよりにもよってそのような結論がでるのかこの義息にはまったく理解しがたい。
あなたときたら頭が腐っているのではありませんか?」
「まぁ! わたくし本気で心配しておりますのに」
「そのような心配などしないで下さい」
しかも本気で。
本気で? 本気でそんなことを悩んだというのか。いっぺん死んでこい。
腹の奥がふつふつ煮える。
――これと関わると碌なことがない。
ヴァルファムは義母と距離をとるようにしていた。あの日、音楽会のあった折より。
以来共に眠ることもしなくなった。人が恋しいのであれば家庭教師に頼めと言い切り、彼女自身も承諾した。
日が過ぎればそれすらなくなり、ファティナは一人で眠ることもできるようになった。
それが正しいのだと自らに突きつけ、義母のことを頭から弾くために容易い女に手を伸ばす。一人で眠ることを苦痛に思うのは、誰ならぬ自分だと気づけば天を仰ぐしかない。
義母と義息の関係は多少ぎこちなくとも、ほんの些細な過ちで失うことなどないように。
自らの気持ちを宥めながら、ヴァルファムは義母と義息の距離を保とうと努力するしかないのだった。
***
「クレオ、もしかしてわたくしヴァルファム様に嫌われてしまったのかしら?」
熱心にレース編みをしていたファティナだが、休憩を勧めると淡く微笑んでやがてそんなことを言い出した。
「杞憂でございましょう」
やんわりとクレオールは言う。
「でも、最近は良く外泊なさいますし……休日もふらりといなくなってしまったり」
「どこの若君もそんなものですよ。いつまでも母君にべったりではいられない」
「反抗期というものかしら?」
「――かもしれませんね」
どうもファティナの思考回路はどこか大衆じみたものもあれば、外れたものもある。苦笑したいのを堪えてクレオールは柔らかに微笑んだ。
「とても寂しく感じるのは……いけないのでしょうね?」
「いけないということはありませんよ。奥様と若様はたいへん仲の良い親子でいらっしゃいますからそのように感じるのも仕方ありません。
ですが、いつまでも義息に義母が構うのも確かに世間的にみてもよろしくありません。このさいですから、奥様も若様と少し距離をおとりになるのも良いのではありませんか」
困ったようにファティナは笑う。
両手で捧げ持ったカップからはまだ湯気がたちのぼっていた。
「こういうのを親離れというのかしら。寂しいものですね」
それこそべったりと仲が良かった自覚があるだけに、ファティナは寂しさを覚えて仕方ない。それがゆっくりと距離をとるようなものであればそれほどに感じなかったかもしれない。
だが、それは明らかにあの日――音楽会の後にぱったりとヴァルファムはかわってしまったものだから、ファティナは自分が悪いという気がしてならないのだ。
自らの心のうちを吐露しても、クレオールはそれで良いのだと笑って返す。杞憂だといわれてはそれ以上に言うことは憚られた。
クレオールはそれでも浮かない表情をみせているファティナに微笑み、膝をついて女主の顔を下から覗き込んだ。
「そのような顔をなさいますな。世の中とはそういうものなのですから」
「……息子というのは離れるものなのですね」
ファティナは深く息をつき、膨れることなど考えられない自分の腹部を撫でた。
「お腹を痛めた子ではないヴァルファム様でさえこんなに寂しいのですから、きっと本当に自分で産んだ息子が自らはなれるというのはとても辛いことなのでしょうね」
「そうかもしれませんね」
クレオールはそつのない調子で微笑を返した。
「……旦那様にお会いしたいわ」
「お忙しいのですよ」
「いつもそればかり」
クレオールは恨みがましく唇を尖らせる女主に苦笑し、ゆっくりと噛んで含めるように告げた。
「旦那様は奥様を愛しておいでですよ」
「クレオはいつもそればかりね」
「愛していらっしゃるからこそ、今はお会いできないのです。ご理解なさって下さい」
「……愛しているからこそ、共にいて欲しいこともあるのよ」
切なそうに溜息をつくファティナは――いつの間にか女性の顔立ちをしていた。
***
「ソルド」
短く告げられた名に、カディル・ソルドは丁寧に頭を垂れて控えた。
定期的に運ぶ報告書を、わざわざカディルが自ら持ち込むのはそれなりに理由がある。手紙などで主が動かぬことを知っているからだ。
幾度願い出たところで主は簡単に無視してくれる。ならば一度でも多く顔を合わせて自らの意思を伝えなければいけない。
「姫君はもう間もなく十六になるようだ――おまえがその顔をみせたのはそれが理由か?」
別段これという感慨などみせることもなく、ただ事実を事実として告げられる言葉に、ソルドは微笑を浮かべてうなずいた。
「素晴らしい女性におなりのことでしょう」
「言われずとも判っている。それだけの教育を受けさせているからな」
手元の書類を処理しながら、壮年の男は顎でしゃくるように置かれている書類を示した。
「今年の目録だ――手配しておいてくれ」
「ヴァルツ様」
「なんだ」
「――今年こそは、私が姫君への使者として発つことをお許し願いたいのですが」
「不要だ」
「意地の悪いことを仰らないで下さい。どのような姫君になられたのか、私がきちんと報告いたしますよ」
本当はお会いしたいと思いますが。
意地の悪い笑みを向けられ、男は――ヴァルツは瞳を眇めて相手を見返し、ふいに口元に笑みを湛えた。
色素の薄い金髪に鷹を思わせる鋭い眼差し。ヴァルツの覇気は少しも衰えることなど知らぬ。
「確かにそろそろ頃合だろう。
時がたちすぎても良くない――どこかの阿呆がうるさくてかなわぬしな」
揶揄するような言葉を向けられ、カディル・ソルドは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「私はただ一日も早く跡継ぎを設けたほうが宜しいかと思うだけです」
「ふん。そうそうおまえの望みどおりにしてやるものか」
吐き捨てられた言葉を受けて、けれどカディルは自信に満ちた微笑で応えた。
「勘違いなさらないで下さい、ヴァルツ様。
私はいつだって姫君の――ファティナ様の為に生きているのです」
さらりと吐き出された言葉に、ヴァルツはすっと瞳を細めてその冴え冴えとした笑みを浮かべた。
「ぬけぬけと言う。貴様の舌は二枚はおろか三枚はあるのではないか? 勘違いしているのは誰だ、ソルド? 貴様には決定権など無いということを忘れるな」
――ゆるりとそれでも確実に、時は流れていた。