音楽会1
義母の考えは時々複雑すぎて理解ができない。
「ヴァル?」
グラスを片手に首をかしげる友人に、ハっとヴァルファムは酸素をとりいれるという行動を思い出した。
頭が真っ白になっていた。ゆっくりと頭の中で数字を数え、それで足りなくて地名をなぞる。七つ程度考えたところで、ゆるりと思考回路が正常値を取り戻した。
「いや、なんでもない」
わけではないが。
「可愛いご婦人でも見つけた? 君はその年齢で珍しく婚約者がいないからな。選び放題だ」
ククっと喉の奥で笑われたが、そんなことを構っている暇は無い。
――音楽会の主催はどこぞの侯爵家。
上官に無理やり命じられての出席で、面倒なことこの上ないとは思ったが夜会や舞踏会などよりは随分とましだと思ったものだ。
その侯爵家の子息が披露する拙い楽曲も、余興だと思えば聞き流せる。
それに、その後は楽器を奏でるのが趣味の人間が交互に演奏を変わっていく。やがてはプロの楽団に変化していくだろう。
だからそれはいい。
だが、二階席。オペラグラスで会場内を観察しまくっている小娘様の姿は、腹立たしい程に目立っていた。
まったく何をしているんだ!
隠れているつもりなのか?
何故こっちを時折じっと見ている?
観察か? いやいや、そんなことより、誰があの人の外出の許可を出したというのだ。
幸い、というべきかそれともどういうべきなのか、何故かヴァルファムの義母の隣にはもう一人女性がいた。
リルティア――いつだったかファティナに浮気を奨励した小娘。
まったく友人は選べ。
苛立ちが募っているというのに、そんなヴァルファムの元に女性が二人声を掛けてくる。
ここは音楽会の会場で男を捜す場所ではない。
そう内心で思った途端にすとんと理解した。
つまり――嫁を探しているのだ、あの小娘様は。
複雑な思考回路ではなく、やはり単純に。
***
「あちらの方は?」
「確か男爵家の娘よ。ヴァルファム様にはちょっと不釣合いよ」
リルティアの言葉にファティナは困ったように微笑んだ。
「やっぱり家格というものは気になるものかしら?」
「当たり前でしょう? うちの婚約者だってつり合いを考えて選出されたのよ? あああ、十五歳も年上なんて絶望よ」
――ファティナは友人の言葉に唇を尖らせる。
「失礼ですわよ、リール。わたくしの旦那様はもっと年上ですけれどとっても素晴らしい方ですわ。きっとリールの……」
「はいはい、ファティの旦那様自慢は今日は要りません! あなたの義息さまのお相手を探すのでしょう?」
「ああ、そうでした!
あちらの方、随分と派手な御衣装ですわね? ああいった方がお好みなのかしら」
音楽隊が奏でる曲を聴く為に据えられた椅子とはべつに、ダンスを踊るためのスペース、歓談のスペース、軽食をとるスペースが取られている。
軽食のスペースで食事と飲み物を楽しみ、男二人で会話をしていたヴァルファムのもとに、女性がちかづき愉しそうに会話をしている。
オペラグラスでそれを眺めて、ファティナは眉を潜めた。
「時々睨まれている気が致します……」
「やめてよね? ばれたら怖いじゃないの」
「とっても怖いですわよ。ヴァルファム様って説教魔ですもの。ずぅっと御説教なさるのよ。わたくしのほうが母親だというのに」
「……まぁ、いろいろと気持ちは判るけれど」
とくに義息の。とはさすがにリールもいえなかった。だが、ファティナは相手の言葉の意味を完全に取り違えたようで、嬉しそうに言葉を続けた。
「判っていただけて嬉しいですわ!
クレオだってわたくしが叱られている時は当然のような顔をしたりするのですもの。ひどいと思いませんか?」
おそらくきっと怒られて当然の行動をしているのだろう。
***
二階席、通路に並べられた長椅子で歓談する二人の娘の場に、栗色の髪の青年が笑みを浮かべて近づいた。少しばかり癖のある髪に人懐こい笑み。
「ファティ、何を怒っているの?」
「セラ兄さま」
ファティナはリルティアの兄の姿に微笑み、リルティアは唇を尖らせた。
「兄さま、先ほどの演奏でリードミスをなさいましたわね。情けない」
管楽器のリードが確かに音を外した。それをきっちりと指摘され、セラフィレスは苦笑した。
「手厳しいな、リールは」
「でも、それ以外はとっても素敵な演奏でしたわよ。セラ兄さま」
「ありがとうファティ。で、どうしたの? こんな場所で小さくなって」
「見事に鉢合わせしたのよ。ファティのトコのヴァルファム様と」
リルティアの言葉に、セラフィレスは肩をすくめてファティナを見下ろし、その頬をむにりとつまんだ。
「ファティ、今日は君の義息君はお仕事の関係で遅くなるんじゃなかったっけ?」
「……と聞いてましたのよ? だからクレオールを説得して参りましたのに」
「ああ、つまり君の義息さんの本命がいるのかな? 義母にナイショで逢瀬、とか?」
つまみあげていた頬を一度引っ張ってから放し、そのまま腕を組んで自らの顎先をつまみ上げたセラフィレスは、ニッと口元をゆがめた。
「まぁヴァルファム様に本命の女性!
どの方でしょうっ」
途端にファティナはセラフィレスから視線を逸らし、階下のホールへと視線を戻した。
「今一緒にいる人かな? あれ、そうでもないのかな」
三人で下を覗き込む様子はもう滑稽でしかない。
物見遊山の有様だが、当人達はおそらく気づいてもいない。
「あー、花嫁さまっ。素晴らしいヒビキですわよねぇ」
「……響きだけならね」
セラフィレスは苦笑をこぼし、ファティナの頭をぽんぽんっと二度叩いた。
昔からこの頭はふればカラコロと音がするのではないかと思うのだが、今のところそんな音を聞いたことは無い。
子供の頃、リルティアの兄だと名乗った途端に「わたくしもお兄様欲しいです!」とリルティアに迫り、今も彼女はセラフィレスを兄と呼ぶ。家族の縁が極端に薄いファティナらしいともいえるのだが。
「あら、兄さま。ファティは人妻よ? 気安くそんなことをするのは駄目よ」
リルティアはおかしそうに笑うが、セラフィレスは肩をすくめるしかない。
「人妻……ね?」
「しかも子持ち」
その言葉はリルティアにとって面白いのだろう。彼女は扇の陰でぷっと吹き出した。
「確かにそうですけれど、セラ兄さまは特別ですわ」
だって兄さまですもの。
無邪気に微笑むファティナに、セラフィレスは肩をすくめるしかない。
「さて二人の妹姫達は何か食べるかい? 下の階にはおっかないのがいるみたいだからね、軽食を選んできてあげようか」
「デザートにして下さいませ」
ファティナの言葉に、リルティアが追従する。
「そうね。果物とかでもいいけど」
「あれ、もう何か食べたのかい?」
「兄さまの演奏中に。いっぱい」
「美味しく頂きましたわよ。ね、リール?」
にっこりと意地悪に言われ、セラフィレスは脱力した。
確かにリードミスという致命的な失敗はあったが、せっかく妹達が聴いてくれているのだからと結構真面目にがんばっていたというのに、当人達ときたら食事を楽しんでいたようだ。
「まったく可愛い妹達だね」
肩をすくめて身を翻し、軽く手を振る。
階段をおりてすぐのところに居る給仕に二階の令嬢二人のもとに飲み物を三つ運ぶようにと頼み、その足を軽食の置かれている場へと向け、ファティナの義理の息子。ヴァルファムとしっかり視線がかち合ってしまった。
すでにヴァルファムの元には女性の姿もない。
ただ友人らしき男と会話をしていたようだが、軽く手をあげてその言葉を遮るとヴァルファムは長靴の音をさせてこちらへと歩を進めた。
――完全に威嚇されている。
セラフィレスは内心で吐息を落とし、相手が口を開くより先に口を開いた。
にっこりと微笑んで。
「やぁ、こんばんは」
「――」
ヴァルファムは出鼻をくじかれた様子で眉間に皺を刻んだ。
眼光が鋭い――これで本当に文官か?
セラフィレスは内心で苦笑したが、おくびにも出さずに続けた。
「いつもうちの妹達が御世話になっているようで」
「……妹?」
「あれ、その話しがしたくてぼくのとこに来たのかと思ったんだけどな。
リルティア、リールの兄のセラフィレスと申します。家名まで名乗ったほうがいいのかな? 別にかまわないよね」
「妹、たち?」
ヴァルファムがもう一度問いかける。
セラフィレスはニッと口元に笑みを浮かべた。
「ファティだよ。ファティナ――小さな頃からあの子はぼくのことをセラ兄さまと呼ぶから、今も妹みたいなものでね。ファティが妹なんだから、君にとってぼくは伯父さんってことでいいかな? 君が甥っ子? 不思議な感じだね」
「――」
物凄く嫌そうだ。
セラフィレスはなんだか嬉しくなってしまった。
これは面白い――単純に面白い。
「失礼だが、あなたの遊びに付き合うつもりは無い。そのような戯言は辞めてもらおう」
やけにきっぱりと拒絶され、セラフィレスはせっかくの遊びが台無しにされたような気持ちに肩をすくめた。
「ファティの遊びには付き合うのに?」
「どういう意味です」
「ファティと親子ごっこを楽しんでいるんだろう? まぁ、実質義理の親子だけどね。八つも年下の義母なんておかしくて普通は付き合えないよ。君って優しい男だね?」
ヴァルファムの口元に冷笑が浮かんだ。
その眼差しはつりあがり、怒りを押し隠そうともしない。
セラフィレスはクスリと笑みを浮かべて見せた。
「ま、そういうぼくも兄妹ごっこだけどね?」
ヴァルファムはかつりと長靴の音をさせた。そのままセラフィレスを無視して歩き出そうとする。
「どちらへ?」
「あなたに何か関係が?」
「ファティからデザートを頼まれてるんだ。せめて帰る前に食べさせてあげたら?」
「不要だ」
――そのまま階段へと向かう相手を見送り、ちらりとセラフィレスは二階で談笑している妹達へと視線を向けた。
ああ、全然気づいてない。
もともと二人は仲が良いのだが、会う時間もなかなかとれない様子で今日などはずっと二人で話しをしている。セラフィレスが同行したのはただの虫除けだが、
「すっごい虫除け――ってか、アレが虫なんじゃないかな」
セラフィレスは呟いたが、とりあえず自分の食事と実の妹の為のデザートを物色することにした。