子供
ああ、そういえばいたな。
久しぶりに見たその女が、自分にとって腹違いの妹であることを思い出すのに時間が必要だった。
「兄さまっ」
ぱっと駆けて来るのはデリラだったか、マリルだったか。
そう考え、自分が妹の名前を覚えていたことは新鮮な驚きだった。
ヴァルファムの父であるヴァルツはすでに四回の婚姻をしている。そのうちの二番目の義母が産み落としたのは二人とも女児であり、離婚の折りに絶縁している。
――父にとって娘は必要ではなかったようだ。
最低な男だが、ヴァルファムにとってそれは今更だ。
自宅の門前にいる腹違いの妹の姿に、ヴァルファムは一瞬眉間に皺を刻んだ。
「どうかしたか」
自然と言葉も乱暴になる。
「ああ、兄さまっ、お会いしたかった」
実に嬉しそうに言われるが、ヴァルファムは会いたいと思ったこともないし妹はおろか弟にでさえ肉親としての情などというものを持ち合わせていない。
父親を最低な男だとは思うが、おそらく自分にはその血が色濃く流れていることをヴァルファムは否定するつもりはない。
門前で問答でもしていたのだろう、門番に立つ男が困った様子で一度頭をさげた。
門番に馬の手綱を預けて嘆息する。
「どうしてここに?」
「聞いて下さいませ、母さまがっ」
切々と自分の悲哀を訴えようとする相手にうんざりとした。
絶縁の意味を知っているか、と突きつけたい。
これの母には父が多大な金を渡している筈だ。決して当家とはもう関わらないという名目で。それはつまり、彼女と自分は兄でもなければ妹でも無い。
「私は疲れている。話しがあるなら後日手紙をよこしてくれればいい」
「兄さま? あの……」
戸惑うようにその眼差しが揺れる。
まるきり、兄の言葉が判らないというように。そうしてからふるりと一度首を振り、
「兄さまもお父様に強く命じられていらっしゃるのね……」
悲しそうに言うが、おそらくまったく、全然違う。
怒鳴ればこの女は帰るだろうか、と思ったところで――呑気な声が耳に入り込んでしまった。
「ヴァルファムさまっ、お帰りなさいませっ」
足元に白い犬をまとわりつかせ、帽子のツバを押さえてぱたぱたと駆けて来る義母の姿に、ヴァルファムは天を仰いだ。
「あら、お客様でいらっしゃいますか?」
継子の前にサマードレスの少女を見かけ、ファティナは驚いた様子で言ったが、彼女の背後についていたクレオールが「ファティナさま」とやんわりと声をかけた。
名前を気安く呼ぶ執事――そう、この男はすでに執事見習いではなく執事である――に眉間の皺が深くなるが、おそらくこの場の状況を考えてのとなのだろうと流す。
「戻りましょう」
「あら、でも……」
「兄さまの――奥様?」
不快そうにデリラだかマリルだかが言う言葉に、場の空気を読むということがまったくできないファティナは元気に言った。
「あら、わたくしはヴァルファム様の義母ですわ」
にっこりと微笑むファティナは実に愛らしいと思うが、時々絞め殺したくなるのはいったい何故なのだろうか。
デリラだかマリル――つまり、腹違いのこの妹は息を飲み込み、ファティナを食い入るように見つめて言った。
「最低だわ!」
――何に対しての言葉だか知らないが、同意してやってもいい。
ヴァルファム自身そのような感想をいろいろな事柄に対して思うことがある。
だがそれをファティナに叩きつけるのは間違いだ。
「私よりも子供じゃないの! 何を考えているの、父さまはっ」
「え、あの……」
ファティナの顔から無邪気な笑みが消えた。
相手の言っている意味をゆっくりと咀嚼するように考え、救いを求めるようにヴァルファムへと視線を向けてくる。
翡翠の眼差しが途方にくれていた。
「クレオール!」
怒鳴ればクレオールは一礼し、ファティナに「失礼いたします」とその腕を引いた。
体制を崩すファティナを、クレオールがその腕に抱き上げた。
その小娘様を手早く移動させる為にヴァルファム自身がよく使う手法だが、それを他人がするさまをみるのははじめてのことだった。
ぎしりと自分の中で何かがきしむ。
無理矢理連れていかれる主を心配し犬が吼える。
妹の視線からそれを逸らすように間に入り、ヴァルファムは笑みを刻んだ。
苛立ちが体内を巡る。
何故この女は訪れたのか。
何故ファティナは散歩などしているのか。
何故――自分はここに立っているのか。
「もう帰りなさい」
「どうなっているの? 父さまはまた再婚なさったというの? それであの小娘?」
小娘という言葉に口元が歪む。
――その通り、小娘だ。
だが、それを他人の口が言うのがこれほど不快だとは思わなかった。
「その口を閉ざすといい」
「兄さま……」
「先ほども言ったな、用があるのであれば手紙を先に出して相手の応えを待つものだ。突然屋敷を訪れるのが淑女のすることか?」
「妹が兄の家を訪れるのに儀礼が必要ですか?」
「必要だ」
きっぱりといえば、戸惑いに瞳を揺らしながら一礼する。
「ごめんなさい……でも」
「失礼する」
「兄さまっ。私困っているのですっ」
「その相談は私にではなく、自分の母親にするべきだ」
軽く手を払って身を翻す。
「母さまが結婚しろというのですっ。相手は随分と年上の男なのですよっ。こんな結婚イヤですっ」
悲鳴のように叫ぶ言葉に、ヴァルファムは足を止めて冷ややかに言った。
「あの人は三十六も年上の男に嫁いだぞ」
「っっ」
「せいぜい夫婦仲良く愉しく暮らせばいい」
「兄さまっ」
門番を睨みつけてあとは無視した。
軍靴を鳴らして居間へと入れば、ファティナの戸惑いを宥めるようにクレオールが跪き語りかけている様が視界に入り込む。
「義母うえ」
「……ヴァルファム様」
少しだけ潤む瞳が見上げてくる。どこかほっとしたように。だがその瞳からは戸惑うような怯えのようなものが拭えていない。
心の動揺がすぐに顔にでるのはファティナの美点の一つだろう。
嘘など絶対につけない。だというのに隠し事をしてすぐにばれるのだ。
「……旦那様の、娘、なのですね?」
「二番目の妻の子です。お気にかけることはない」
「でも、そうしたら……あの方もわたくしの娘なのですね」
クレオールが下がれば、同じ場所にヴァルファムが跪く。
一人掛けの椅子に座るファティナの膝に手を掛けて、できるだけ笑みを浮かべて見せた。
「もうとうに別れていますし、義母うえの心を煩わせることは何もありません」
「でも」
「義母うえ」
「私よりも年上でいらっしゃいますね?」
少しだけ疲れたようにファティナが儚く微笑む。
それはむしろ当然なのだが、心のどこかが落ち着かなくなるのだろう。
「いつか、わたくしも旦那様からお子を授けてもらえるかしら」
ぽつりと言う言葉に、ヴァルファムは胸の内にどろりと淀むものを感じた。
――腹違いの妹に対していままで何かを感じたことは無い。いるというだけだ。だが、このときはじめて殺意を覚えた。
「大丈夫ですよ」
うつむいてファティナの膝に自分の額を当てた。
「そんなことで心を痛めないで下さい」
ファティナの指先がヴァルファムの頭に触れ、そっと撫でる。
***
自分ばかり動揺して、気づけば自分の膝に義息がなついている。まるで彼こそが傷ついたかのように。
それを戸惑い見下ろし、ファティナはちらりとクレオールへと救いを求めて視線を向けたが、クレオールは緩く首を振る。
「お疲れなのですか、ヴァルファム様?
ごめんなさい、わたくしが心配をおかけしたのね? 平気ですわよ。ちょっと吃驚しただけなのです」
柔らかな色素の薄い金髪を撫で、ファティナは自分の不甲斐なさに吐息を落とす。
理解しているはずだ。
夫と――自分との年齢差。
夫の幾人もの子供。
「ヴァルファム様はいがいに妹弟が多いのですね。それでは今は一人で寂しいですわね?」
ファティナは優しく言う。
「きっとわたくしが弟か妹を創ってさしあげますね? ヴァルファム様はどちらがよろしいですか?」
ファティナの膝に額を当てていたヴァルファムだったが、やがて肩を震わせて顔をあげた。
「要りませんよ。今は義母うえの子育てで一杯一杯なんですから」
慰めているつもりだったファティナだが、継子の言葉に途端に唇を尖らせた。
「またそのような憎まれ口をおっしゃるっ」
そんなファティナを見上げて笑いながら、ヴァルファムは口角を引き結んだ。
「そうですね……あなたの産む子であれば、どちらでもいい」
――弟でも妹でも、自分はきっと愛せる。
アイセルだろう。
だがそのアイはきっとニクシミに等しい。
彼女に感じるそれとおなじように。
義母が無邪気に笑みを浮かべる程、自分は淀んでいくような気がするのだ。
暗く、深く、闇が広がる。
義母の手が髪に触れる。
そこから闇がゆるりと辿り、彼女が侵食されてしまえば良いとすら思うのに……彼女は変わらず陽だまりにいるように暖かく穏やかにそこにある。
愚かしい……
ファティナは十五を迎えていて、その時にも父は昨年同様膨大な量の贈り物を贈りつけて彼女を泣かせた。
――自分にはできないことを父は容易く行う。
手紙の返事一つもよこさぬくせに。
この一年一度も顔さえ出さぬくせに。
「ヴァルファム様?」
膝頭に額を押し当てて息をつく息子の様子に義母が小首をかしげる。
「疲れました……」
「でしたら自室で休まれたほうがよろしいですわよ? 床に座っていてはいけません」
「動きたくありません。しばらく――こうしていていいですか?」
うつむいたまま言う言葉に、ファティナはくすくすと喉の奥を鳴らした。
「時々ヴァルファム様は小さな子供のようです」
「――子供ですよ。だから少しだけこうしていさせて下さい」
――姫君は健やかにしているか。
数日前に届いた父の定期便。その文面一つで暖炉に入れて燃やし尽くした。
最後まで読むこともできずに。
……何が書かれていたのか、今ではその内容を読み落としたことが心の片隅でじくじくとうずいた。