約束
「約束はキライです」
ふいに口にした言葉に、ファティナは眉間に皺を寄せた。
――約束してください。
そう言った言葉を、小娘様は横を向いて拒絶した。
「私と一緒で構わないのでしたら」
うんざりとヴァルファムは言った。
幾度も幾度も「出かけたい」と訴える義母に、とうとう折れた。勝手に外出などされるよりはマシだと諦めたのだ。
夕餉を済ませた後。
居間で食後のお茶を飲み、いつもと同じようにファティナはその日あったことをつらつらと語る。
ヴァルファムはただそれに相槌を打ちながら過ごしていたのだが、そのうちにファティナは街へと行きたいのだがと口にしたのだ。
随分とおそるおそる。息子の機嫌を損ねないかと心配気な様子で。
「よろしいのですか?」
途端にその顔に喜色が浮かぶ。
「仕方ないでしょう。あなたときたら放置しておくと勝手に一人で出かけてしまいかねない」
――すでに幾度か同じことをしでかしている。
ならば、自分と一緒に出かけてもらうほうが随分と気が楽というものだ。
こんな小さく頼りない命のものが、王都といったところで柄の悪いものたちだとている街に繰り出して無事でいることのほうが奇跡的だ。
ひょいっと攫みあげて馬車に押し込んでしまえば、それだけでファティナという存在を見つけ出すことは困難になってしまうだろう。
――そんな恐ろしい思いは絶対に御免だ。
「その代わり、一人で出かけるようなまねはもうなさらないで下さい」
「はい」
「約束して下さい」
にっこりと微笑むファティナに念を押すように言えば、ふっと小娘様の瞳にかげりがうまれた。
翡翠の眼差しが、戸惑うように揺れる。
「義母うえ?」
「……約束はキライです」
「それは守れないという意味ですか?」
生意気にも。
「――父さまも母さまも、すぐに帰ると約束なさったのに帰ってきて下さらなかったもの」
小さく囁かれた言葉に、ヴァルファムの眉間に皺がよる。
「いつもと同じようにわたくしを抱きしめて約束なさったのに」
約束、という言葉を拒絶する様子にやれやれと息をつく。
――果たされなかった約束。この小娘様はそれを忘れていないのだ。
「では約束の仕方をかえましょう」
「ヴァルファム様?」
ヴァルファムはゆっくりとした所作で義母の前に立つと、身を屈めて軽く、ほんの少しだけ躊躇して、けれども軽くファティナの濡れた唇に触れた。
甘い味は、先ほど食べた砂糖菓子。
「約束しますよ。私はあなたを残して消えたりしない。だから、あなたも約束なさい。
私を残して消えてしまったりしないと――」
すぐに身を離して言えば、ファティナは戸惑いを込めた眼差しで見上げてくる。
「唇のキスは軽々しくしてはいけませんわ」
いつの間にそんな常識を覚えたのだろうか。
子育てというのは時々驚かされる。相手の成長が喜ばしく、また少しばかり――無駄な知識など必要が無いとも思う。
愚かな小娘様だと蔑むくせに、その愚かしさが……愛しい。
そう、おそろしいことに、愛しいのだ。
まったく厄介なイキモノだ。
ヴァルファムはやんわりと笑う。
「以前にもして下さいましたでしょう?」
「あれは特別……ですわ」
「これも特別ですよ。大事な約束ですから――違いますか?」
穏やかに言う継子の言葉に、ファティナはしばらく考える風ではあったがやがて納得したように微笑んだ。
「そうですわね。大事な約束は特別ですものね?」
「そうですね――それに、家族の間のキスに問題などないでしょう?」
家族、という単語が彼女の弱点だ。
ファティナは嬉しそうにうなずいてみせる。
戯言だ。
こんな言葉で容易く丸め込まれる小娘様はちょっと危険なのではないかと思うのだが。
もう少しきちんと脳を使わないと、騙されてぼろぼろにされてしまう。
愚かさが愛しく、愚かさが苛立ちの原因にもなりうるのだから不思議なものだ。
自分に騙されている分には良いのだが、他人に騙されることを危惧している。
そんな自分が結局愚かだということをヴァルファムは気づいていたが、その全てを棚に放りなげるのも得意だった。
とにかく、ファティナというイキモノは油断がならない。
―― 一人で野放しなど到底できようはずがないのだ。
「大事な約束の儀式って、なんか素敵ですね!」
子供の児戯。
小娘様は真実子供だからこういった行為を純粋に好む傾向にあった。
――父と母とを事故で失ったこの小娘様が、家族というものを大事にしていることも知っている。
ファティナは瞳を瞬き、微笑んだ。
「約束して下さいますね?」
その言葉に、身を屈めるようにと手で示される。
――そっと自分の唇にファティナが唇で触れて、ヴァルファムは半眼を伏せて口元に笑みを刻んだ。
「約束しますわ。わたくしはあなたを残して消えてしまったりしません――」
「ではもう一つ」
先ほどの、一人で出かけたりしないという約束をきちんと交わす。
ファティナがくすぐったそうに笑った。
「何か?」
「このような親密な約束は、仲の良い親子って感じがしてよろしいですわよね」
実に嬉しそうにファティナが言うから、ヴァルファムも口元に笑みを刻み込んだ。
親子、という言葉に嫌悪を抱かなくなったのはいつごろからだろうか。
ヴァルファムはちらりと考えたが、笑みの中に落としこんだ。
――自分にも昔、実の母親というものがいた。今も画廊に絵の飾られたその女性はとても美しい女。
だがその腕が自分を抱きしめて息子を愛した記憶など無い。自分もまた、母を愛しいなどと思ったことなど無い。
母の死は、母の不在は幼い子供に何ももたらしたりはしなかった。
真実あれが親子であるなら、これはいったい何だろうか?
親子という言葉に安心しきって楽しげに笑う義母との関係は、確かに義母と継子であり、ヴァルファムはそれでいいと感じている。
――親子であるならば、彼女はかわらずそこにいるのだから。
思わず冷笑が口元に落ちて、不思議そうにファティナが首をかしげた。
「どうかなさいました?」
「いいえ。次の休みが楽しみですね」
「はい! とっておきの店を案内いたしますわ。美味しいパイのお店を知ってますのよ」
嬉しそうに瞳をきらきらさせていう義母に、ヴァルファムはにっこりと微笑みかけた。
「いつそんな場所を覚えたのでしょうね?」
「……」
「詳しく聞かせてもらいましょう」
泣きそうな顔で上目使いに見上げてくる義母を見ると何故か溜飲が下がる気がするが、それはまたまったく別の話しだ。
そんなことでほだされたりはしない。
――本当に、小娘様は油断できないから困る。
陽だまりのキミは呑気な育児日記です。