第3話
今年の夏至祭では、何人死ぬのだろうか。そして僕は、そのうちのどれだけを殺すのだろう。
井戸水を浴びる冷たい頬が、風を温く捕らえている。こびり附いた誰かの血はなかなか落ちない。
僕は、人を殺して人を救っている。――救うと言うにはあまりに滑稽で、利己的ではあったが。それが間違っていると思ったこともないが、もう少し穏健に暮らしてみたいものだ。
「ねぇ、あんた!さっさとそこ退きなさいよ」
「・・・ん、あぁ、ごめん」
苛立ちながら僕を押し除けた初老の女は、胴回りほどの籠を片脇に抱えていた。その後ろにも列を成す群衆が集っているかと思ったが、人影は見つからない。痺れを切らせるくらい物思いに耽っていたかと考えたが、それよりもずっと確かなことがあった。
死を希求するこの国で暮らす死神は、神の名を冠しながらも決して敬われることはない。死に縋っておいて、人を殺すのは罪だと言うらしい。そして僕らもまた、それを諒解して生業としているのだ。物を創る能のない僕らは、壊すことでしか前に進めなかった。
―――ふと、いつかの客の妄言を思い出した。なんでも、“壁”の向こうに住む人間は死を畏れていると言っていたのだ。ホノリア最後の統治者が内通の発覚で失脚して以降、現在では国交が断絶されていると聞くが、壁の向こう側など存在しないと主張する人間も少なくない。そもそもどうしてそこに“壁”が存在しているのか、誰が作った物なのか。全く何の手掛かりもないのだから、自然と向こう側に関する話が信憑性を伴うことはなくなった。
...しかし、もしその世迷言が現と成り得るのなら、死に執着しない世界に行けたのなら…だからと言って、劇的に何かが変わらないとしても。手の届かないものには、どうしても可能性を期待してしまう。今とは違う場所へ行けたのなら、僕の願いも叶うのではないか、なんて。微かに甘酸っぱい溜息は、斜陽に融けた。
来た道を辿って寝床へ帰ると、陽は正に沈み、湿気を孕んだ風も夜の温度に染まり始めていた。隙間から差し込む西日が僕の眼を刺す。今朝の暁とどちらが眩しかっただろうか。目が慣れている分、こちらの方が幾許かは質がいいだろうか。取り留めのないことを考える静かな時間が、長い一日の中で一番好きだ。それだけは、今も昔も変わっていない。
物心が付いたときから孤児院に居た僕は、その当時こそ上手くやっていたと思う。家族のように親しい孤児たちと食事を囲み、近辺を探索し、幼少の思い出の大半を共有した。浮浪している今に比べると、まだ随分と充足した日々だったのだろう。寛容なそれが孤独な僕の“当たり前”となるのは、造作もないことだった。
――そして、“当たり前”にそこに存在するものは、“当たり前”に失くなってしまう。一人前になるためと言われ、殊に生死観への影響を色濃く受けていた僕らは、一つの生き方として死を教わったのだ。身近な人が、親しい人が、次々に散っていった。それが“当たり前”だと言う日常の中で、僕とこの世界の相反することを初めて知った。
もしも、僕もあちら側の人間として生まれていたら。時折そんなことを考えるようになった。それ以上には、何も考えることはなかった。
心に空いた間隙は、遂に埋まることはなかった。
―――馬車が石煉瓦を蹴っている。煩雑な雑踏が徐々に響きだす。瞼の裏に光が差し、やがてそれを深く満たす。鮮明になる感覚と伴に、朝が訪れた。
最低限の商売道具を纏めた僕は、あくび交じりに広場へと向かった。いつもなら依頼を片付けるか、なければそのままナズのパンを買いに行くのだが、今日は漠然と気が乗らなかった。人が集まる分、それなりに屋台も出ているだろう。多少出費は嵩むが、仮にも祭りなのだから、少しだけ贅沢をしよう。
路地が広がるにつれ、人足は目に見えて増えてきた。彼らの瞳は曇りのない希望で染っていて、さぞ夏至祭が楽しみだと言うかのように談笑を弾ませている。その殺風景は断頭台を前にして、いよいよ歪さを増した。歓声の飛び交う祭場で、誰もが人の死を待ち望んでいる。その様は、青空に見捨てられた蝶へ群がる蟻を彷彿とさせた。
辟易しながらも他に目の遣り場がない僕は、串焼き肉の列に並びながら、行き交う人の波を眺めてみることにした。ひどく腰の曲がった老人に、やけに小綺麗な服を着た少女。フラッシュモブの中には、殺気の匂いが消えない同業者も紛れているようだ。
「――なあ、君。おそらく君は死神だろう?」
一掴みの銅貨と引き替えに串を受け取った僕へ、どこからか声が掛かった。落ち着いているが、確かな威厳を秘めている声だ。四十位だろうか、心做しか整った身なりと真摯な眼差しは、彼に備わった教養を自ずと物語っている。
...そしてそれは、僕にとっては全く以て取るに足らなかった。僕と関わるのは皆、明日には死んでいる人間ばかりだ。
目線を繋ぎながら脂っこい鳥肉を一欠片口に含み、ゆっくりと咀嚼し、腹の底へと押し流した。
「君は、どうやって死にたい?」