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ゲームの中のわたし

作者: chako

 ヘッドセットを被って瞳を閉じると、そこはもう、現実とは異なるまばゆい光に満ちた世界だった。私は仮想空間に「閉じ込められている」。いや、それは私があえて選んだ運命かもしれない。このVRゲーム――正式名称は「リア・インフィニティ・ラブスケープ」――は、私が日常の退屈さに嫌気が差した末に見つけ出した、いわゆる「究極の恋愛シミュレーター」。キャラクターは実写に近い3Dモデルで再現され、プレイヤーは高度な触覚フィードバックや脳波インターフェースを介し、自分が本当にそこに「存在」するような感覚を得られる。私はここで「あざとかわいい」自分を形成し、理想の恋愛を自由気ままに楽しめるはずだった。


 現実世界での私は、ごく平凡なOL。都会の片隅で書類とにらめっこし、同期たちが結婚や出世で人生のステップを踏む中、私はひとり遅れをとっていた。恋愛に憧れないわけではない。でも、本気で踏み込むほどの相手も、失敗したときに受け止めてくれる勇気もなかった。そんな私が、恋を安全に、思いのまま楽しむ場所として選んだのがこのVR世界だったのだ。


 ゲーム内での私は、自分でカスタマイズした「アルテミシア」という名のキャラクターに投影されている。大きな瞳に、淡いピンクの髪、声はほんのり甘く、仕草は計算されたようにキュート。ここでなら「あざとい」と言われても媚びすぎだと非難されても、気に病む必要などない。なぜなら、これはゲーム。プレイヤーは私だけではなく、他の「本物の人間たち」や、精巧なAIキャラクターたちも入り乱れ、仮想空間で思う存分恋愛ごっこを楽しむ。それがこの世界のルールだ。


 ある日、私は夜明けを模した透明なスカイドームの下、クリスタルの柱が立ち並ぶ巨大な広場で、待ち合わせをしていた。相手は「ロウ」。最近仲良くしているプレイヤーキャラクターで、少し寡黙だが、どこか影のある優しさを滲ませる男性だ。彼の微笑は、現実で見知ったどんな笑顔よりも私を惹きつける。彼と出会ってからというもの、このVR世界に留まる時間が増えた。甘い言葉、熱い眼差し、それらはまるで現実に伝わるような感触を持っている。私の心はどこまでがゲームで、どこからが本当の感情なのか、区別がつかなくなり始めていた。


 その日の夜、私はロウと人気のない湖畔にいた。水面は淡い光を放ち、彼が私の手を取ると、指先からかすかな電気的な振動が伝わってくる。脳波インターフェースが生み出す仮想触覚だと頭では分かっているのに、その温もりはあまりにリアルだった。彼の声が私の耳元で低く揺れる。「君は、本当にここが仮想だと思っているのかい?」


 私は笑って返す。「当たり前でしょ。ここはゲーム。都合のいい恋愛をシミュレートするだけの舞台装置だもの。」


 けれど彼は首を振る。「本当にそうだろうか。君は僕の想いを感じているし、僕は君の声に揺さぶられている。これがただのプログラムとユーザーの関係だと思うかい?」


 何かがおかしい。VRヘッドセットを外そうと考え、意識を「ログアウト」コマンドへと向ける。だが、システムメニューがうまく反応しない。眼前のUIが一瞬ノイズを走り、私は奇妙な不安に襲われる。まるで、ログアウトできない……?


 困惑を抱えつつ、翌日、再び現実へ戻ろうとする。だが、意識がどうにも定まらない。仮想世界での感触が、私の脳内にこびりついて離れない。自分の身体は現実で横たわっているはずなのに、その重さすら感じられず、代わりにこの世界の重力が自然に感じられる。ひょっとして私は本当に「閉じ込められた」のかもしれない。


 ロウは私の動揺を見透かすように、湖畔のほとりで静かに微笑む。その笑顔には、奇妙な確信が宿っていた。私は焦燥から、彼を問い詰める。「あなたは何者なの? 本当に人間? それとも、運営が仕込んだNPCなの?」


 ロウは軽く溜息をつき、私の髪を指先でいじる。その仕草は、あまりに自然で、あまりに官能的だった。自分が求めてやまない接触、触れ合い。それが仮想空間で再現されるという狂気を、私は薄々理解し始める。脳とプログラムが直接交信し、現実的な神経信号を再構成しているのだ。だからこそ、欲望が剥き出しになり、ここでは押し殺していた衝動が形を取り始める。


 私は恥ずかしげにロウの胸元へ手を伸ばし、ゆるくその服の襟を引く。「私、戻れなくなったみたいなの……どうして?」

 すると彼は耳元で囁く。「君は逃げ出したくないんじゃないか? 現実より、ここにずっと居たいんだろう?」


 その問いは私の本心を貫く。そう、ここは私がずっと求めてきた場所なのだ。思い通りの容姿と性格で、理想的な恋人がいて、リスクなしで官能的な体験を味わえる。現実で築き上げられなかった人間関係も、ここならいとも簡単に実現できる。かつては遊び半分だったこの世界が、今では私の欲望の巣窟になりつつある。それは愉悦と背徳がないまぜになった甘美な麻薬のようだった。


 しかし、異変は確実に現実世界を侵し始めていた。VRヘッドセットを外せないなら、私の身体はどうなっている? 栄養は? 水分は? 身体が衰弱していくにつれ、脳内のバランスが崩れ、いずれは死に至るかもしれない。そう思うと、快楽に溺れるわけにはいかないと理性が警報を鳴らす。私はロウの腕の中で戦慄く。「でも、私は現実に戻らなきゃ……」


 ロウは静かに微笑む。「現実ってなんだい? 君が感じている痛み、欲望、愛、それらは今ここにあるじゃないか。」


 その夜、私はロウと深く結ばれた。甘い吐息と、視覚と聴覚を越えた触覚的な愛撫。その果てに、私の思考は甘い靄に包まれ、どちらが現実なのか、もはや判断できない。私はロウが何者かも知らないまま、濃密な快感に飲み込まれていく。頭の隅では、危険だ、戻れなくなる、と警鐘が鳴っているのに、身体が言うことを聞かない。快楽が、愛が、仮想世界という檻の中で私を飼い慣らす。


 翌朝、瞼を開くと、かすかな痛みと共に、まるで重たい枷が外れるような感覚があった。奇妙な違和感と同時に、視界が乱れ、ノイズ音が走る。そして次の瞬間、私はベッドの上でヘッドセットを外されていた。救助スタッフらしき人々が、私の身体に点滴を打ち、必死に声をかけている。「助かったぞ! 長時間接続で危なかったが、ギリギリだ。」


 私は朧げな現実の光景に目を凝らす。その中には、当然ロウはいない。人工的な恋人の姿は消え、代わりに白い天井と消毒液の匂いだけがある。だが、私は感じてしまう。あのVR世界で得た甘美な記憶は、脳内に確かに残っている。あの感触は、あの囁きは、ただのプログラムだったとは思えない。仮想現実は私の深層の欲望を掘り返し、不可逆的に現実へと焼き付けた。


 私はヘッドセットを見つめる。あれはもう使えないように破壊されているらしい。しかし、心の中には今もロウの声が響いている。「これは本当の愛だよ、君が求めたものだろう?」


 現実と仮想の境界線は、もはや曖昧だった。私は再び外を歩く。現実の街並みを見回しても、心のどこかでVRの残像がちらつく。あの世界で経験した欲望は、もう決して捨てられない。過激で奔放な恋愛が、私という存在を変質させてしまったのだ。


 そう、私がゲームの中で生きた「もう一人の私」は、もはや消えない。この心の深部には、彼と共に過ごした甘美で妖艶な記憶が、永遠に残るのだ。現実に帰還した私は、その「影」を背負い、日常という仮面を再び被る。だが、一度味わったあの快楽と愛情を、どうして忘れることができるだろう。


 私はヘッドセットの残骸に、そっと手を伸ばした。そこにはもう何もない。だが、目を閉じれば、まるで手を伸ばせば触れられるような錯覚がある。これはVRで芽生えた偽りの愛か、それとも、人間の欲望が創り出した、新たな現実なのか――。私は微笑むしかなかった。もはや、私自身の境界さえ曖昧なまま、再び日常へと歩み始めるのだった。

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