ポーじゃない方の黒猫
おれは金持ちの家に生まれるはずだったのだが、なにかの拍子で、とんだ貧乏人のせがれとして生まれてきてしまった。
昔はそんな自分の運命をちからいっぱい自由に呪い倒してやったものだけど、いまとなってはかなりどうでもいい話になっている。
そんなどうでもいい話をしてやると、中流家庭で育った酔っぱらいは、たいそう喜んでくれるので、おれもひとの喜ぶ顔が見たくて、あちこちで貧乏自慢をしてきたが、さすがのおれも同じ話ばかりしているのはつまらないし、いよいよ本格的にどうでもよくなってきたので、めっきり口数が少なくなってしまい、貧乏話を聞かせてくれよとせがまれては、うるせえ、おれの貧乏話なんかのなにが楽しいんだ、おまえらだって大した生活をしてなかったくせに。
ヒステリーを起こして、殴ったり殴られたり、そんな生活がしばらく続き、前歯が全部なくなってしまったので、歯医者にしばらく通った。しばらくすると、つるつるの真っ白な歯の偽物が揃った。もうしばらくすると、煙草のせいだろうな。気持ち黄ばんできやがった。
悲しいことは続くもので、そのころ、飼っていた黒猫が死んだ。このことはおれの記憶にいまだに暗い影を落としているので、歯の偽物が気持ち黄ばんだくらいのことと、一緒に並べて欲しくない。ひとくちに悲しいと言っても、悲しみにも段々があるんで、比べられるようなレベルの悲しさではないことがある。
おれは吠えるように泣いたあと、しばらくしくしく泣いて過ごした。黒猫の死は、おれをどうにかしてしまった。黒猫が死んだ日に、勤めていた工場に電話をして、黒猫が死んだから仕事を休みますと伝えたら、電話の向こうの事務のババアは、黒猫が死んだくらいで仕事を休むのは、前代未聞だとか、わけのわからないことを抜かしてきやがったので、それに風邪気味なんです。そうつけ加えてやったら、今度は嘘をつくなと、怒り出してきやがった。
おれはしばらくババアの言ったことの意味を考えて、なんで嘘だってわかるんだよ、そう言ったら、ババアは、なんだその口の利き方は、とちんぴらみてえなことを抜かしてきやがったので、ちんぴらの真似だったらおれだって負けてないんだけどね、と思ったおれは、てめえ誰に向かって言ってやがんだコラ。
凄んだら、それはこっちの台詞です。なんて急に敬語になったので、おれも少しは落ち着きを取り戻して、頼みますよ、と頼んでみた。
結果としては休むことで納得してもらったから、おれの勝ちということになったわけだけど、ババアが、黒猫が死んだくらいで休んだら、ほかのひとに示しがつかないから、ちょっと風邪気味だってみんなには言っておいてあげる、なんて恩着せがましくかつ、イタズラっぽく言うものだから、おれはもう切れちまって、それはおれのアイディアだろうが、てめえなに人のイデアをパクっておいて、おつにすましてやがんだクソババアてめえクソこのクソが、とにかくクソクソ言いまくってやったら、乱暴に電話を切られた。
黒猫を弔い、なみだなみだで日が暮れて、なみだなみだの夜が明けて、工場に行ったら、みんな普通に黒猫の死を知っていて、クソババアやりやがったな、と思ったけど、みんなお悔やみの言葉をくれたし、同情や憐れみもたっぷりだったので、ババアの思惑どおりには事が運ばなかったことに暗い悦びを覚えたはいいけど、結局のところ納得がいってなかったのはババアだけなんじゃねえかと気づき、しばらく苛々した。
でもなんかその日以来、事務のババアは妙におれに優しくなって、おれもババアって言うほど、年いってないよなって反省して、いまはもう忘れてしまったけど、普通にその人の名前で呼んであげたし、そのあとは軽口を叩き合うような仲になるんだから、人生はわからんもんだ。