来訪者(2)
少しだけ昼寝した。まだ陽が高いので然程寝ていないようだ。
目が覚めてもまだ異世界だった。
籍を入れる前で良かった。
あんなクソが永遠の伴侶など、こちらから願い下げだ。
付き合ってた男は、プロポーズしたくせに婚約期間中に会社の若い子を孕ませたクズだった。別れてくれと懇願され、わたしの見る目がなかったのだと思った。そこまではまだ良かった。いや、良くはないが。
あのクソは言うに事欠いて「これから金がかかんだよ!その指輪返してくれ!」「慰謝料なんて請求しないよね!ね!?」と言ったのだ。それを聞くまでは慰謝料のいの字も頭に浮かばなかった。土下座するクソの顎を蹴り上げて、胸ぐらを掴んで張り手打ち、その後は後ろに倒れ込んだクソに馬乗りになってタコ殴りにしてやった。あんな指輪代より、わたしが払った結婚式場の頭金の方が高いのは分かってんだ。ふざけんな、クソ。
同棲していた部屋から殴りまくって追い出し、もちろん鍵も取り上げた。あっちの女も一人暮らしだと言うから、どうせそこに転がり込んだんだろう。荷物なんて知らん。わたしだって、こちらに来てしまった。後はどうなろうと、わたしの責任ではない。わたしが失踪したことであいつらは社会的制裁も受けるだろう。
何故ならあいつらはわたしと同じ会社の同じ部署。わたしはまだ仕事を辞めてない。職場へ結婚の報告だって済ませてる。わたしが出勤して来なければ騒ぎになるのは想像に難くない。ざまあみろ。
浮かれてつけてた指輪に助けられた。あのクソ門兵は金目のものがなければ追い返すつもりであったかもしれない。別に返してくれなくたっていい。もう視界に入れたくない。現金化してから返してもらおうか。
扉を叩く音がした。はい、と答えると入ってもよろしいでしょうかと先程のメイドさんの声だった。
「どうぞ。」
「失礼致します。お疲れだったのですね。よくお眠りになられておりましたので、昨夜は起こさずそのままお声をかけませんでした。朝食の前に湯浴みをされますか?」
は?わたしはほぼ丸一日寝ていたということか?
「来訪者はこの世界に馴染むまではよくお眠りになると言われておりますから、お気になさいませんよう。当分はこういったことがあるかと存じます。半年かけてゆっくりと、こちらに体を慣らしていただければ大丈夫ですよ。」
ああ、なるほど。だから半年なのか。わたしくらいの年代で自立支援が半年というのは些か長いのではないかと思ったが、そのような事情があるらしい。
「午後から支援指導の方がいらしてくださると伺っているのですが。」
「ええ。ショウコ様がよろしければ、お食事の後にでも。気負うことはございませんよ。お茶を飲みながら、この世界についてお話をするだけです。」
むしろ学校の授業や会社の研修のようにガッチリとした説明をしてもらいたいのだが。まあ、いい。どんなものか様子を見てからでも構わないだろう。
「では、食事を用意していただけますか?湯浴みは結構です。あ、でも、顔は洗いたいな。」
「洗面道具はそちらにご用意してございます。使い方はお分かりですね?」
昨日風呂に入ったときの脱衣所か。古めかしい蛇口なだけで、特に問題はない。
「大丈夫です。」
「私は食事を用意して参りますので、十分ほどで戻って参ります。」
「何から何までありがとうございます。」
「お礼は結構ですよ。失礼しますね。」
優しい女性で良かった。昨日挨拶した時に、当分わたしの世話係につくと言っていた。名をキエラさんという。私より年下だとは思うが、年齢を聞くのは憚られたので分からない。
ブランチをもう食べ終わろうというタイミングで、昨日の初老の男性、バイキン氏が訪れた。
「ああ、お食事のところすみませんね。こちらを無事に回収しましたので、お返しいたします。いやあ、白金というのは聞いておりましたが、ダイヤモンドをここまで美しくカッティングされているもの、初めて拝見しました。いい物をお持ちでしたね。本当に質に入れてしまうので?」
捲し立てるように話すのでフォークを持ち上げたまま呆気に取られてしまった。小さな袋から指輪を取り出そうとしたので「やめてください!」と思わず声を張り上げてしまった。
「あ、大声出してすみません。あの、その指輪はもう目に入るところに置いておきたくない代物なんです。ですから、そちらで現金化していただきたいと思いまして。今後の生活の足しに出来ればと考えています。」
バイキン氏は目を丸くして、わたしの顔と袋の中身を往復している。数度の往復の後、ふむふむと言って、今後のこの指輪の扱いを説明してくれた。
「では、こちらの処分は私にお任せください。上流階級向けのオークションに出品しましょう。屋敷ひとつ買える値段になるはずです。もしかすると、石にしか値段がつかないかもしれませんが、その場合は白金は相場に則って買い取りに出します。よろしいかな?」
「ええ、それで結構です。お手数おかけします。宜しければ、金額の一部を出品手数料としてお支払いしても構いませんので。」
「なんのなんの!この石を見て驚くこちらの者たちの顔が報酬ですよ。楽しみが出来ました。」
「そうですか。お任せいたしますのでお願いします。」
そのうち金銭ではない礼でもしよう。一応、同じくプラチナ(純プラチナではない)のピアスと、一粒ダイヤのネックレスをしているが、髪と服に隠されて見えないのだろう。これは自分で買ったものだ。思い入れがある。生活に困るような事態になるまでは手元に置いておきたい。
「ダイヤモンドは魔除けの石といいますからな。うんうん。ここまで美しい輝きを持つものならば、きっと効果も高いでしょう。いくらになるかな。ああ、年甲斐もなくお恥ずかしいですな、はしゃいでしまいました。」
「いえ、喜んでいただけて何よりです。」
不快感はない。純粋に、楽しんでいるのが分かる。価値が分かるならこのまま懐に仕舞い込んでもおかしくないのに、良い値がつくようオークションに出してくれるなど感謝こそすれ嫌うことはない。
そこにもう一人客が来た。バイキン氏の紹介によるとこの辺りの地域の領主のような立場の人だった。
「改めまして来訪者殿にご挨拶申し上げる。領司のバルト・ゼーキンと申します。」
ゼーキン氏。税金氏なのか。税金で食ってんだから名が体を表してんな。
「書面上、あなたの保護者になるのは私ですので、今後三年間、私があなたと面談を行うことになります。」
「そうですか。戸川祥子です。よろしくお願いします。」
随分と若い男だ。バイキン氏はこの人の補佐をしていると言ったが、私と余り変わらない年頃に見える。顔もなかなかのもの。だが、一筋縄ではいかないという雰囲気がある。やり手なのか。
「指導員は他の者が務めます。まだお食事の途中のようですので、一時間後に来るよう申し伝えておきましょう。」
「お気遣いありがとうございます。」
「不慣れなことや分からないことはすぐに近くの誰かに尋ねてください。ご不便をおかけしますが、来訪者は神の采配。元の世界へお戻しすることはかないませんが、私共は神にお預け頂いた来訪者がこちらで生活していけるようにお支えするのが仕事です。この国へ来訪者が落ちて来られたのはあなたが三人目、およそ百十年ぶりとなります。」
「そうなのですか。自立までは何かとご迷惑をおかけしますが、一日も早くこちらに馴染んで自活の道を切り拓きたいと考えておりますので、よろしくご指導ください。」
「善良な方で安心しました。これからも良い関係を築いていければと思います。では、私は戻ります。失礼。」
わざわざ仕事中に挨拶に来てくれたのかな。律儀な人だ。そして来訪者が神の采配というのなら、神様に感謝しなきゃならないな。
あんなクソみたいな世界から、わたしを拐ってくれたんだから。