夫婦の指
俺はその日もギャンブルに負けていた。
もう何連敗しただろう。
すっかりのめりこんでいた俺にはわからない。
たぶん数えきれないほど負けているが、そんなの数えきる必要などないのだからまあ当然のことだ。
明日にはギャンブルに勝ち、これまでの負けを取り返すのだから、連敗の数などに意味はない。
「マスター、ビールをくれ」
「……あいよ」
俺はカジノのそばにある、行きつけのバーに来ていた。
マスターは顔なじみだ。
だがすっかり連敗続きの俺の事情を知っているマスターは、冷たい目を向けてくる。
ふざけるな、と思う。
俺が好調のときには、あんなにチップをはずんでやり、売り上げに貢献してやったのに。
ともあれ俺はむしゃくしゃしていた。
喉が渇く。
アルコールを口にして、今日の負けのことなどさっさと忘れ去りたかった。
なけなしの金でビールを頼む。
酒を口に含むと多少は落ち着いた。
ジョッキも中ほどまで行くと、心持がよくなってくる。
「マスター、巡りが悪いと、とことん悪いもんだね。次こそ勝てると思うんだが」
「……旦那、あんたにはずいぶんお世話になった。だから、こんなことは言いたかないんだが……そろそろ潮時じゃないですか」
「うるせえ」
マスターが一言で切り捨てた俺をじっと見る。
負け続け、安酒を飲む俺を見ていったいどう思っているのか。
そんなものは知ったことじゃない。
どうせ明日勝てばいいのだ。
負けの数などに意味はない。
終わりよければすべてよし、ともいう。
一度の大勝さえつかめれば、こんな店とも、なんならギャンブルともおさらばだ。
そんな明日の勝利を思い描いてにやついていた俺に、不意に声がかけられる。
「お隣、よろしいですか」
目を向けると婦人がいた。
ワインレッドの、仕立てのよさそうなスーツを身にまとっている。
店はいつしか混んでいた。
俺の周囲だけが空いている。
これは偶然か、あるいは負けが続く俺に、常連は誰も近づいてこなくなっていたか。
「ああ、いいよ」
俺は答えて、その婦人へうなずきかける。
婦人は俺の左手側に座った。
婦人がカクテルを頼む間に、男なら誰でも女に対して確認する、一通りのものを見る。
顔は美しい。
スタイルもいい。
だが、口元や目元に見える小じわと、大きなサファイヤのネックレスが光る首筋を見る限り、年齢はそれなりにいっている。
身なりはいい。
赤いスーツの生地も上等だった。
ちらりと見えた左の薬指には、ダイヤが輝く指輪がはめられている。
「あなたもギャンブルをなさるのですか」
婦人は俺にそう微笑みかけてくる。
「まあね。奥さんは、……」
婦人の指輪から推測をして俺は言った。
少しの間をとっても、婦人は否定しなかった。
「夫君でも、待っているのかい」
「ええ。なぜそれを?」
そうたずねられた俺は、今の推測の理由を説明する。
左手の指輪。
そして、こんな場所に一人だけで来た婦人。
口には出さなかったが、どうせ夫はいつまでも帰ろうとせず、ギャンブルに興じているのだろう。
「素晴らしい読みですこと。さぞかし、賭け事の方も、お強いんでしょうね」
「ダメさ」
俺は素直にそう言う。
強がるよりも、誰かにグチりたい気持ちの方が強くなっていた。
「連敗続きだ」
今日の負けのことを少し話してやると、婦人はため息をつく。
「ギャンブル好きって、どうしてみんなこうなのかしら。負けても一度じゃ、止めやしない……」
その言葉は、俺の妻の言葉とも重なった。
妻はよく、俺のギャンブル癖を嘆いている。
バカは死ななきゃ治らない、とも。
殺す以外に治すあてはないのかしら、とも。
どうやら女はみんなこうらしい。
ロマンというものがない。
「だけど奥さん、あなたは、夫を待ってここにいるんだろう。夫を理解している、いい妻だ」
婦人は謎めいた笑みを浮かべてその言葉に応じた。
俺はさらに言葉を続ける。
「だがウチの妻は、そうじゃない。どうもね、ギャンブルというものに拒否反応を起こす。ついてきたり、待っていたり、なんてのは、ありうべからざることらしい」
「いいことじゃありませんか。女はそうじゃなければならないと思うわ。こういう風になってしまうと、ろくなものじゃない」
「いえ、あなたの夫はそうは思っていないはずだ。うらやましいぐらいだ」
婦人はあやしくほほえむと、「そうかしら」と答える。
俺には婦人のその反応がわからない。
戸惑い、ビールを一口飲む。
やがて婦人が話しはじめる。
「ギャンブルに深入りすると、いいことは何もありませんよ。あなたも、早く辞めた方がいい」
またそんな話か。
急に説教じみてきた婦人の言葉に、俺はへきえきする。
この女も、マスターも、どいつもこいつも。
なんて思ったあたりで、マスターが近づいてくる。
まだ何か俺にあるのか、と思っていたら、婦人の目の前に、青い液体の注がれたカクテルグラスを置いただけだった。
「ありがとう」
婦人はマスターに微笑みかけ、マスターは軽く会釈をしてそれに応じた。
婦人がカクテルグラスを手に取る。
右手にも指輪がはまっている。
大きなルビーが中指に。
右手の薬指にはエメラルドが輝く。
一瞬の違和感。
そしてすぐに俺は気づく。
婦人の右手には小指がない。
俺の視線に夫人が気づく。
俺は、あわてて目をそらし、口ごもるように言った。
「ああ、いや、別に……」
「これ、ですね」
女はカクテルグラスを持ったまま、左手の人差し指で、そこにない右手の小指を指さしてみせた。
「これも、ギャンブルのせい、とでもいいましょうか……」
俺はその、婦人の右手から目が離せない。
ギャンブルのせい、だって?
「わたしは、夫と賭けをしたのです」
※※※
以前、夫はひどいギャンブル狂でした。
本当に、文字通りに、狂っていました。
知り合った頃、彼はまじめな青年でした。
わたしもそれが好ましく、貧しいながらも、地道に暮らしていたのです。
しかし夫はある日、人との付き合いで行ったカジノで、偶然勝ちを拾ってしまいました。
それがお給料のふた月分にも及ぶものだったので、夫は狂ってしまったのです。
積み上げてきた貯金も失い、借金を請うことで人からの信用も失い、それでもなお、夫はギャンブルに熱を上げていました。
わたしはやがて限界を迎えました。
その日の食べ物にも困るぐらいのものでしたから、もう、ギャンブルを辞めさせるか、夫を殺すか、というところにまで、追い詰められていたのです。
その日の夜もカジノで負けに負け、半ば狂ったような表情で帰ってきた夫に、わたしは今の通りの話をしました。
夫は、怒りに目を剥いて答えました。
「俺を殺すというのか」
「いいえ、それほどの覚悟でもって、わたしはあなたにギャンブルをやめさせようと思っているのです」
夫は立ち上がり、それまで座っていた椅子を蹴って、叫ぶように言いました。
「そうはいかない。俺の人生は、賭け事がほとんどすべてなんだ。命そのものだ。それを辞めさせようというのは、俺を殺すも同然だ。お前は、俺を殺そうとしているのだ」
「ならば仕方がありませんね」
そのとき、わたしは懐に包丁を忍ばせていました。
その包丁を取り出し、夫に刃を向けたとき、わたしは彼を本気で殺すつもりでした。
脇に抱えた包丁と、体ごとあたるように向かったわたしの肉体を、夫はなんとか避けました。
包丁は壁に突き刺さりました。
あまりに深く刺さったため、女の力では、とても引き抜けるものではありませんでした。
その柄を引っ張っているうちに、わたしは夫に頬を張り飛ばされました。
「本当に殺そうとしやがった。とんでもないやつだ」
「あなたがわたしにそれほどまでのことをさせたのです。その忌まわしい、ギャンブルでもって」
わたしは床に膝をついたまま、夫のことをにらみつけました。
夫は、怒ってこそいるものの、わたしの気迫におびえてもいるようでした。
一方、わたしの決意は変わりません。
ギャンブルを辞めようとしない夫をここで殺し、その足で警察に向かうつもりでした。
夫へ背を向け、キッチンへと向かおうとします。
包丁はまだ、他にもありました。
そんなわたしの行動を察したのか、夫は目の前に立ちはだかり、やむを得ないというように言いました。
「わかった、わかった。少し話し合おうじゃないか。なら、こうしよう。そんなにいうのなら、俺はギャンブルをやめる。ただし、条件付きでな」
「条件付き、ですって? あなた、まだわからないの……?」
そのときのわたしの思いは、悲痛でした。
実際に命を賭させたところで、この男は何もわかっていなかったのです。
夫はわたしの声を聞き、さすがに少し、ひるんだようでした。
しかし、気を取り直して言葉を続けました。
「お前は何も、ギャンブルが悪いといっているわけじゃないんだろう? よく考えてもみろよ。金がない、つまりは俺が負けるのが悪い、要するにそういうことだ。だから、俺が勝てばいい。違うか?」
「違います。ギャンブルは負けるものとなっているのです。だけどあなたはそれに狂ってしまったのです。だからいつも負け続けて……」
「まあ、そういうな。お前がそう言いきれるのも、俺の勝ちを信用していないからだ。だから、こうしよう。俺とお前でギャンブルだ。そして俺が勝ったら、賭け事を続けるのを認めろ」
そんなたわごとには付き合ってはいられません。
わたしは夫を押しのけ、キッチンへたどり着き、二本目の包丁を取り出しました。
その包丁をつかんだわたしの手の上から、夫もまた、その手を強く握りしめてきました。
「なあ、そういうことだろうが? お前だって俺を殺そうというからには、そこまで俺の負けを確信してなけりゃならんのだぞ。人生ってのはギャンブルだ。そういうものだ」
「何のことやらわかりません」
「まあ、落ち着いて聞け。約束だ。俺もギャンブルに生きる男であるからには、この約束は破らない。もう一度言うぞ。そのギャンブルにもしもお前が勝ったら、俺は金輪際ギャンブルをやめよう」
わたしは夫の顔へ目を向けました。
ギャンブルに狂って以来、いつも薄ら笑いを浮かべ、わたしに取り合わなかった夫。
今も、その薄ら笑いは変わりません。
「……本当なの?」
「ああ、本当だとも。だがな、さっきもいったが、ギャンブルは俺の命だ。そうして賭け事ってのは、チップを賭けて、勝った方が得をするものだ。だから俺たちは、何かを賭け合わなければならん」
夫はにやりと笑い、そして言葉を続けました。
「指を賭けよう」
「……何ですって?」
「このギャンブルのチップは、指だ。さっきまで俺たちは、殺すだ、死ぬだ、なんて言っていたんだ。命をまるごと失うよりはマシだろう? つまり、指か、ギャンブルか、だ。負けた方が選ぶといい」
「負けたら、どうなるのです?」
「指を切り落とす。相手の言うなりになるのが嫌だとすれば、な。負けた方が大人しくいうことを聞くなら、何も失わずに済む。だがまだ不満があるとすれば、チップをベットして――つまり、指を切り落として――再チャレンジだ。どうだ? なあ、お前がさっきそうだったように、俺も、それほどまでの覚悟だぞ」
夫はそう言って、再び薄ら笑いを浮かべました。
つまり、夫の提案はこうでした。
わたしと夫、二人でギャンブルを行う。
そして負けた方は、勝った方の言うことを聞かなければならない。
ただし、負けた場合は、自分の指を切り落とすことで、再チャレンジができる。
これは、脅しだ。
わたしの怒りはさらに募るばかりです。
夫の考えは見え透いていました。
指を賭け、切り落とすとなれば、こっちがゲームにのらないと思い、そんな条件を出している。
しかし、夫の読みは甘かったのです。
わたしはすでに夫を殺す覚悟を――あるいは、夫に返り討ちに遭う覚悟さえ――決めていました。
この生き地獄から逃れられるのならば、死さえ受け入れる気でした。
「その条件、お受けしますわ」
夫は、ぎくりと体を震わせました。
「……本当か?」
「ええ。もう覚悟は決まりました。言い出したあなたも、当然、そうなのでしょう」
わたしは夫の手を振り払い、彼に包丁を突きつけました。
「あ、ああ」
そしてわたしは、彼にすぐ、テーブルの用意をさせました。
そのテーブルの上に、包丁を置き、わたしは言いました。
「さあ、何の勝負をいたしましょう? あなたの大好きなポーカーでも結構よ」
※※※
「勝負はその日の内に決まりましたわ。その結果が、これ。一度はわたしも、意地をはったものです」
婦人は左手で、愛おしそうに、右手の小指のあった場所を撫でる。
俺は、今の壮絶な話に、どんな顔をしていいのかわからない。
吐き気さえしていた。
夫を殺そうとし、そのあげく、小指まで失ってしまったこの女。
「いや、そんなことが、……とんでもない男がいたものです」
「だけどもそれ以来、わたしたちは上手くいっていますわ。生活も、何とか回復いたしましたし。しかし、誰でもわたしたちのように上手くいくものではございません。悪いことはいいません。ギャンブルをおやめなさい」
確かに、今の婦人は貧困にあえいでいるようには見えない。
その、妻との壮絶なギャンブルのあと、夫は何かが変わったのだろうか。
あるいは、そのツキが変わったのだろうか。
「そうして奥さんを大事にしてあげなさい」
先ほどの説教じみた言葉よりも、今の言葉ははるかに、俺の胸に届いた。
確かに、俺は妻をずいぶんないがしろにしている。
たまには、少しは優しくしてやってもいいかもしれない。
しかし、と俺は思う。
そうはいっても、この婦人の夫は、今もギャンブルに出ている。
この婦人は賭けに負けてしまったが、大局的に見れば、夫のギャンブルはその後、うまくいっているのだ。
そうじゃなければ、この婦人のように、裕福な身なりをしているはずがない。
だとすれば、俺にだって、いつもそう思い描いているように、素晴らしい幸運が転がり込んでくるかもしれない……。
そのときバーの扉が開く音がした。
その扉へと目を向け、婦人が言う。
「まあ、夫が来ましたわ」
その男は、たくさんの荷物を腕に下げていた。
おそらくギャンブルの勝ち分で手に入れたものだろう。
美しい婦人に似合わず、でっぷりと太ったその男が、婦人に気づき、片手を振ってこちらに近づいてくる。
どこかに違和感があるが、その笑顔の方に俺は目を取られてしまう。
「夫君は大勝したようですな」
婦人は不思議そうな顔をして俺を見返し、それから笑ってみせた。
「あら、あれはわたしの勝ち分ですわ。勝ったお金でわたしは買い物をし、夫には、その買い物を取りに行ってもらっていたのです。何しろ、夫はもう、ギャンブルは、――特に、大好きだったポーカーは――二度とできませんから」
俺は戸惑う。
夫は、ギャンブルに行っていたわけではなかったのか。
「でも、夫のせいですわね。わたしもすっかり、ギャンブルをするようになってしまって……」
そこで婦人は言葉を切り、残っていたカクテルを飲み干すと、バーカウンターから立ち上がる。
両手が塞がっている夫の代わりに、夫のコートのポケットに手を伸ばすと、そこから財布を抜き出した。
そしてお札を一枚、バーカウンターへ置く。
一杯のカクテルの代金としては、十分すぎるほどの金額だ。
そして俺にも一枚、お札を差し出してくる。
困惑しながらも受け取ると、女は微笑んで、うなずいた。
「楽しい時間でしたわ。さあ、行きましょう、あなた」
何のことやらわからない夫も、笑顔を見せ、かぶっていたハットに手をかけながら頭を下げる。
婦人はその右手を包み込むように握り、二人で手をつなぎ、連れ立って歩きはじめる。
俺はそのとき、気が付いた。
そう、あの、指を賭けたギャンブルに勝ったのは夫の方じゃなかった。
婦人の方だったのだ。
そして婦人の『夫はギャンブルができない』という言葉。
あれはただ、約束を守る、という意味ではなかった。
まさに、文字通りの意味だったのだ。
背中を向けて去っていく夫の左手へ目を向け、そして背筋が寒くなるのを感じていた。
酔いはもう、とうに覚めていた。
今後、俺にはギャンブルが出来るのだろうか。
今ではもう、その自信がない。
あの二人に何が起こったのか、はっきりとはわからない。
でも、想像は出来る。
『負けても一度じゃ、止めやしない』
婦人のその言葉が蘇る。
夫の手には、指が一本もついていなかったのだ。