【①】
「…………で。どうしましょう?」
息の詰まる静寂を破って忠義が問うた。今にも消え入りそうな、か細い声色であった。
今年で三十八になる。まだまだ老け込む齢ではないが、苦労を積んだ夜の数が、同級生たちと比較しても一段と深い皺を顔に刻んでいる。汗が一筋、頬を伝って顎まで辿る。
「どうしようったって、ねえ」
忠義の妻、貞江もまた視線を泳がせて口を噤み、チークの座卓の木目に小指を走らせるばかりで先の見えない議論を打破する妙案などは持ち得なかった。
「私からは、特になにも。なにがどうなったって、この家から出ていくつもりは毛頭ないし」
貞江の妹、貞世は飄々として述べた。飲み干したアイスコーヒーのグラスの底を天に向け、ほどよく溶けた氷をがらがらと口に迎える。
「貞一郎と暮らせないのは少しだけ残念だけどさ。こうなっちゃった以上、仕方ないじゃん?」
「まあ、一緒に暮らすっつうわけには、いかねえよなあ」
貞世の弟、貞蔵は口を尖らせて顎鬚をもしゃりと撫でた。
貞蔵がそう言い終えたところで、はからずも四人の視線が一点に集う。
座卓の上座、大仰な屏風を背にして座る屋敷の主。
「そうだねえ」
大蔵貞子はゆっくりと口を開いた。
「勘違いしてほしくはないのだけれど、この中で、一番残念に思っているのは私だよ。なんと言っても初孫さ。一日千秋の思いはお前たちには分かるまい。」
貞子が口を開くとき、周囲の時間は凍ったように停止する。誰一人として貞子の言葉を遮ろうとする者はいない。
「今だって、貞一郎をこの膝に乗せておきたいくらいなんだよ。それが叶わないとは悲劇のような人生だ」
瞬間、雄叫びのような鳴き声がけたたましくこの和室に鳴り響いた。
誰一人として遮ろうとしない貞子の言葉も、赤子相手には到底威厳を持ち得ない。貞子は和室の隅、声の方向をちろりと見やった。
「……嫌老障、だったかい?」
先天性重度高齢者嫌悪障害、通称、嫌老障。
先日、病院で診断を受けた貞一郎の精神障害である。
大蔵家の長女、貞江と入り婿の忠義との間に生まれた貞一郎は、今日でちょうど三か月になる。貞子が待望した初孫の誕生に一家は湧いたが、ほどなくして、どうにも様子がおかしいという話になった。
生まれたばかりの貞一郎が、貞子に対してのみ尋常ならざる拒否反応を示すのである。
貞子が近寄るだけで顔を歪め、触れられようものならまるで沸き立つ血の池に放り込まれたがごとく泣き叫ぶ。もとより貞子が周囲から好かれる類の人間でないことはたしかだが、貞一郎には知る由もない。平時はむしろ大人しい部類の赤子だというのは看護師の弁。一家の頭に、これまで噂でしか耳にしたことのないとある障害の存在が浮かんだ。
「ごめんなさい。部屋の隅なら大丈夫かと思ったのだけれど」
母親の貞江が、ばつが悪そうに貞一郎の元へと駆け寄る。
その様子を見て、貞蔵が「不思議なもんだよねえ」と他人事のように呟いた。