【⑦】
いついかなるときでも無礼を許し、己を受け入れてくれる存在は貴重だ。
実の親以外にそんな存在を得ることができたなら、それは、何物にも代え難い人生の財となるだろう。
わずか十四歳の涼介は、そのことを感覚的に理解していた。
夜と朝とが混じり合う白の闇。突然の来訪にもかかわらず登喜子の自宅の扉はゆっくりと開かれて、いつものように涼介を招き入れる。
「やあ。今日はどうしたんだい? 少年」
登喜子は涼介の苦心惨憺を察してか、いつも以上に明るく振舞おうと努めた。わざわざこんな時間帯を選んでやってくるからには、なにかあったには違いない。ならば、自分はそれに寄り添うことのできる存在でありたいと願う。
またその一方で、そんな辛苦の夜に自分の元を訪れてくれたことを心底喜んだ。心細い夜に隣にいてほしいと望まれる自分であれたことを、誇らしく思った。
「濡れた子犬のような顔をしてどうした少年。ささ、中に入りゃんせ」
靴を脱ぎながら涼介は、目頭が熱くなるのを感じていた。
登喜子の気遣いが手に取るように伝わってくる。いつもよりも一層誇張されたその口調が心地よい。涼介は、登喜子の身体に触れたいと心から望んだ。少し背の高い登喜子を背後から抱き寄せて、唇を重ねてみたいと願った。
これまで味わったことのない、身体の芯が燃え上がるような情欲。生唾がごくりと喉を通って腹に落ちた。
しかし、それも束の間。
靴を脱ぎ、部屋へ踏み入れた涼介の足がその場で固まった。
ばくん、ばくん、と胸が高鳴る。
それは先程まで涼介を包んでいた暖色の情感ではない。固く、刺すようにして心肝寒からしめる恐怖の衝動。
身体が震える。歯はがちがちと騒ぎ立て、額に脂汗がぶわりと湧く。
涼介は身体を翻して登喜子の瞳を真っすぐに見据えると、震える口で叫んだ。
「お前、この部屋に老人を入れたのか!?」
えっ?
咄嗟にそう訊き返すしかできなかった登喜子の胸倉を、涼介の両手が荒々しく掴んだ。
「お前は、この部屋に老人を入れたのか!!」
一層、強い口調で登喜子を責め立てる。
瞳は涙で潤み、全身が戦慄いている。
強烈な吐き気が涼介を襲い、息は荒れて鼻道が腐る。
「ごめんなさい。昨日、田舎から祖父母が遊びに来たの。悩んだけど、どうしても部屋を見てみたいと言うから少しだけ家に上げてしまった」
登喜子の話は真実だった。
家にはけっして高齢者を立ち入らせないでほしい、というのはかねてから涼介に頼まれていて、登喜子はそれを遵守するつもりであった。
しかし昨日、登喜子を訪れた祖父母にどうしてもと頼まれてやむなく部屋に上げてしまっていたのである。実父の虐待に耐え兼ねて都心部に出た初孫が、一人できちんと生活できているのかどうか安心させてくれと懇願されれば登喜子とて断る術はない。
もとより、登喜子にとっては親愛なる祖父母である。
本来であれば手料理でも振舞いたいと思うところ、ゆっくり腰を下ろすことも許されずに部屋を後にした彼らの背中に針のような罪悪感を抱いていた。孫とともに一晩を過ごしたいと希望した祖父母に対し、片道四時間の日帰りを強いることになってしまったのも涼介を思えばこそである。
登喜子には、涼介のことを軽んじるつもりなど毛頭なかった。
しかし、もしも登喜子が本気で涼介との共存を望むのならば、その認識はあまりにも甘かったとの謗りを免れないであろう。
登喜子は祖父母を帰らせると、間髪入れずに部屋の掃除を行った。
たとえば床に落ちた彼らの髪の毛が、涼介のアレルギー反応を引き起こすのかもしれない。嫌老障の人は高齢者の体臭に敏感だというから、消臭も欠かさなかった。時間にすれば十五分程度にもならない祖父母の滞在。涼介との約束を一方的に反故にするのは胸が痛んだが、ここまでしておけば大丈夫であろうという打算もあった。
己の都合を優先した浅はかな皮算用は、涼介の抱える嫌老障の前に脆くも崩れ去った。
そして、甘い考えという点では涼介もまた同じであった。
涼介は心のどこかで、己が望みさえすれば登喜子と共に生きてゆけるのだと考えている節があった。しかし、よく考えるまでもなく登喜子には母がいて、祖父母がいる。
嫌老障である自身にとってはたとえ肉親であろうと老いればただの化け物だが、登喜子にとってはそうではない。そんな当たり前の現実から、涼介は目を逸らして生きてきた。
涙が溢れて止まらない。
ぼやける視界の中心で、登喜子もまた涙を咥えて立ち尽くしている。
「好きだ」
涼介が、消え入りそうな声で呟いた。
「好きだ。好きなんだ。きっと俺はもう、お前がいなきゃだめなんだ」
登喜子は無言で頷いた。何度も何度も、繰り返し頷いていた。
そして、無理を重々承知で、涼介はとても大切な質問をした。
「もし、お前も俺を選んでくれるんだとしたら。お前は母親や祖父母との縁を切って、俺だけのために生きてくれるか?」
それは、震える声色。
涼介とて阿呆ではない。その質問がどれほど馬鹿げているか、理解できぬわけではなかった。
無言が部屋を埋め尽くす。登喜子は、なにも言ってやることができなかった。
往生際悪く、五分ほどが経ったであろうか。
なにも応えられない登喜子の苦悶の表情をあらためて一瞥して、涼介はふっと苦笑した。
「今までありがとう。もう、ここには来ないよ」
靴を履き、部屋を出る。
あとから登喜子の足音が追ってきているのが聞こえた。けれど、聞こえてくるのは足音だけで、登喜子はなにも言わなかった。涼介もまた、去り行く歩みを止めることはなかった。
今日は、件の日曜日。
尾崎に誘われた会合が開かれる日である。
涼介は出掛け支度をして外に出た。
太陽がよく照っている、晴れがましい日であった。
『今日は、涼介の好きなカレーだよ。食べに来たら?』
登喜子からの誘いは今でも続いていた。
涼介はメッセージを確認すると、やや乱暴にスマートフォンを鞄へと放った。
涼介は、なにも返信しなかった。すなわちそれが、同意しないということであった。
人は、独りでは生きていけない。
新たな宿り木を求めて少年は彷徨う。
ひとつめの交差点を超えた先で、バイクに跨った男がこちらに気が付き手を振った。
case3.へつづく
第2章、了。
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