【④】
尾崎の満面の笑みを目の当たりにして、涼介は目頭がじわりと熱くなるのを感じた。
こんな風に笑える日がいつか自分にも来るのかもしれないと思えたからである。
先に進めば進むほど色濃い絶望が待ち受けているのだと考えていた人生の展望。
だが少なくとも尾崎は、自分の目の前にいるこの男は教師という務めをまっとうしながら屈託のない笑みを浮かべている。それは、なによりもの希望だった。
涼介にとって尾崎はほとんどこの世の真理であり、すべての答えだった。そんなことを十四歳の涼介が語っても中学生ゆえの浅慮だと周囲の失笑を誘うだろうが、尾崎の存在を全力で肯定することが涼介にとっての救いなのだった。
「今度、バイクに乗せてやるよ。バイクはいいぞ、老人どもが到底追いつけない速度で世界を駆け抜けさせてくれる」
そう言って、涼介の髪の毛を両手でくしゃくしゃとかき混ぜた。
〇
二人の心強い理解者を得ても、夜を迎える度にふたたび涼介は深い絶望の底へと沈んでゆく。
山村登喜子と尾崎義春。二人の存在を交互に思い浮かべてみても、“夜”が持つ暴力的なまでの恐怖を拭うことは叶わない。一晩中を布団の中で震えて過ごし、あるいは家の外に出て、あてもなく闇の中へと消えてゆく。
“老い”が恐ろしい。
たった一日の時の流れが心底恐ろしくてたまらない。数十年後の己の姿を思い浮かべたりすると、もう膝がすくんで立ち上がることすらままならない。手は皺だらけで腰は折れ、あの鼻の曲がるような腐敗臭を全身に纏っている。
たとえば健常者が「少しずつ醜い怪物へと化けてゆく」と告げられて、それに向かって進んでゆくような人生だ。その醜さの程は尋常ではない。己の体臭に気が狂い、鏡を見るたびに天地がひっくり返るような本物の怪物だ。涼介を含む嫌老障の者たちは皆、そんな絶望の暗闇の中を歩んでいる。
自分にも尾崎のような将来が待っている。
支えてくれる登喜子という存在がある自分は、それだけで幸運だ。
そんな風に言い聞かせてみても、本能から生まれる恐怖心は理性を力ずくで押さえつけて離さない。
すでに深夜二時を回っている。吐き出す息がほの白く輪郭を得る秋の寒空。
迷惑を承知で涼介はスマートフォンを操作し、登喜子と尾崎の双方へ同時にメッセージを送信した。
『眠れない』
縋るような救助信号。
そんな涼介の心情を知ってか知らずか、間髪入れずにメッセージが返ってくる。
『今、どこだ?』
涼介が慌てて周囲を見渡すと、電柱に貼られている住所表示が目に入った。それをスマートフォンで撮影し、送信する。
ほどなくして、尾崎義春は涼介の元へとやってきた。バイクに跨ってやってきた。
尾崎の言うように、バイクの爽快感はひととおりではなかった。
己の全身が風を切り、音が後から追いかけてくる。バイクに乗っている間、世界には涼介と尾崎のただ二人しか存在しなかった。間違っても、老人などには足を踏み入れることの叶わぬ音速世界。
バイクの奏でる轟音に隠れて、涼介は力の限り金切り声を上げた。腹の底の底から引っ張り出してきたような絶叫。
尾崎は、なにも言わなかった。まるで過去の自分も涼介とまったく同じ道程を歩んできたかのように、優しく口角を上げて前を向くだけであった。
三十分ほど走っただろうか。
寒空の下のツーリングもなんのその、涼介は身体が火照ってしかたがなかった。コンビニにバイクを停めて降車すると、己の輪郭から湯気が立ち上っている。
えも言われぬ充足感と心地のよい疲労。尾崎も、老化の足音に怯える夜はこんなふうに風を切るのだろうかと涼介は思いを馳せた。
「辛いか、涼介」
ツーリングの疲労を指して問うているのではないことを、涼介は当然に理解していた。
涼介はなにも発さず、ただ黙って小さく頷いた。
尾崎が、しゃがみ込む涼介の表情を斜め上から眺めている。
「その苦悩を解消する方法を、教えてやろうか」
え?
涼介が素っ頓狂な声を上げるのと、はたしてどちらが早かったか。尾崎は膝を折って涼介と目線の高さを合わせると、力強く肩を掴んで言葉を続けた。
「ぶっ殺しちまうんだよ、老人全員」