【③】
登喜子とて、必ずしも順風とはいえぬ寒波の中を生きてきた。
瞳を閉じるたびに、鼻先に迫る実父の舌が暗闇にぼうっと浮かぶ。紅く染まった右の掌が視界を覆う。腫れぼったい唇の感触、頬を伝う脂汗の塩気が今でも鮮明に蘇る。
父と呼ぶことすら憚られるその男は登喜子が中学を卒業するより早く泡沫のように消えて失せたが、赤黒い思い出の宿る実家に住み続けようとは到底思えなかった。高校進学を口実にして田舎を飛び出し、夏でも人肌恋しい人混みの森でたった独り揺蕩っている。
己の心血を注ぐような部活動も、気の置けない友もない。
涼介に食事をさせてからアルバイトに向かう日々の慌ただしさが、暗い記憶を胸の底へと追いやってくれた。
「食べたいもの、なんでも言ってみんさい」
目尻をとろりと下げて、登喜子は問う。
照れ隠しのようなわざとらしい口調が、六畳一間に浮かんで消える。
「なんでもいいよ」
本心だった。
涼介にとって、登喜子の手料理はなんであろうと御馳走だった。
涼介は、登喜子の手料理そのものを心底欲する。
登喜子は涼介に食事を与えるという行為、あるいはそれに費やす時間を求めていた。
儚く釣り合う共依存が、薄氷の上で揺れていた。
〇
「つーかさ。お前、嫌老障だろ?」
二人目の理解者が、尾崎義春だった。
涼介の学級担任である。とある日の二者面談で、唐突に涼介に問うた。
一人の教師として、ともすれば大問題にもなりかねない件の発言。ただし、他ならぬ尾崎自身が嫌老障であるというから情状酌量の余地もある。
尾崎は二十代後半とまだ若く、涼介が仲間意識を抱くのに支障はなかった。人生で初めて得た、共通の障害を抱える仲間。
「なあ。どうして先生は俺が嫌老障だって分かったんだよ」
とある日の、屋上。選択肢が乏しいとはいえ、二人の落ち合う場所に立入禁止箇所を指定するからには尾崎も教師として優等生であるとは言い難い。
「なんでって、そりゃ。普段の様子を見てりゃあ誰にだって分かるさ」
むろん、それは、同じ境遇の者であれば、ということである。涼介とて嫌老障を隠して生きる術についてはそれなりに達者であった。
しかし、嫌老障であることを周囲に悟られることなく教師業をまっとうする尾崎のそれは別格であって、たとえば経験豊富な盗人が防犯という観点において優れた知見を持つように、他人の嫌老障を見抜く尾崎の慧眼は卓越していた。
「たとえば、目線ひとつ。さりげなく年寄りに背を向けようとして身を翻すその仕草。お前、校長が近くにいると啜るふりして指で鼻を塞ぐだろ?」
すべて、図星であった。
涼介は、尾崎の得意げなご高説に真剣に聞き入っていた。
不快感は一切ない。まるで齢の離れた弟が兄の一挙手一投足に憧れるかのように、涼介は、尾崎に対して尊敬の念を抱き始めていた。
「俺も、同じさ」
尾崎が、革靴の爪先でコツコツと屋上の床を蹴る。
「くっせえよな、校長」
そう言うと尾崎は、わざとらしく鼻をつまんでからりと笑った。




