【④】
ぎゅっと下唇を噛む貞江の表情を、貞蔵が静かに見つめていた。
貞一郎をとるか、大蔵家としての生活をとるか。
人は、利己的に生きるだけの機械ではない。情に生きて、愛をとる。時として非合理的な選択肢にその身を委ねる、この世でもっとも哀れな動物である。
「悪いことは言わないよ、姉さん。貞一郎のことは諦めるんだ」
だから、貞蔵のこの提言は到底受け入れられるものではなかった。
「母さんは横暴だが、言うことには一理ある。嫌老障は出生前診断で判別できる障害ではないらしいが、たとえばこんな風に考えてみてほしい。もしも、胎の中にいる時点で嫌老障であることが分かっていたならば。義兄さんと貞江姉さんは、どうしていただろうか?」
その言葉に、忠義と貞江はきゅっと心の臓を掴まれる思いがした。
「もし、堕胎という選択肢がちらりとでも頭の中に浮かぶのならば。それは母さんの言う通り、胎の中で殺すか外で殺すかの違いでしかない。今、貞一郎の親権を手放す選択をしたとしても、それはあらためて姉さんの人間性を貶めることにはならないよ」
「ははは。貞蔵もきついことを言うね」
貞世が薄く笑った。
「姉さんのためを思って言っているんだ。貞一郎を抱えて親子三人、大蔵家の外で生きていくのは口で言うほど簡単じゃないよ」
貞蔵はちろりと忠義にも目を配った。
「貞江姉さんは外で働いたことのない人間だ。三十余年、ずっとこの大蔵家の中で生きてきた。母さんの言うことを聞き、家事手伝いのようなことだけをして悠々自適に生きてきたんだ。グループ企業を手放すことになるであろう義兄さんの収入だけで食べていけるのか、あるいは共働きになるのかは分からないけど、いずれにしても、貞江姉さんに家庭を支えていくだけの能力があるとは思えないよ」
長台詞を述べながら貞蔵は、それもまた貞子の目論見だったのではなかろうかと思い至った。つまり、貞江に社会的能力が欠如しているこの現状そのものが、である。絶対的な力を有する母の元、何不自由なく暮らしていける代わりに、なんの能力も与えない。
大蔵家の外では生きていけない。
そういう盆暗に我が子を仕立て上げて、いつまでも己の支配下に置く。それこそが貞子の本望なのではなかろうか、と。むろんそれは、貞蔵の推測の域を出ないが。
「親子三人で野垂れ死にするか、あるいは貞一郎に、ここではないどこかで生きてもらうか。最終的に選ぶ権利は二人にあるけど、俺の意見としちゃあ、二人が家を出ていくのは寂しいね」
柔らかさを帯びる口調とは裏腹に、貞蔵の瞳が力強く貞江を諭していた。




