【③】
ふうう、と、忠義の深いため息が部屋に漂う。
「お疲れ様」
貞蔵が苦笑まじりに義兄を労う。
貞子の実子である自分は、彼女の発する威圧の風と巧みに付き合う術も心得ている。しかし、もしも、自分が忠義の立場であったなら。貞子と血の繋がりを持たぬよそ者として彼女と寝食を共にすることを想像すると、それだけで背筋の凍る思いであった。
「実際問題、どうなんだい。義兄さんの会社は、母さんの助けがなくてもやっていけるのかい?」
忠義が、ぎゅっと唇を噛み締める。
「いや……、厳しいよ。ウチはお義母さんの下請けを前提として成り立っているような会社だ。仕事を回してもらえなくなったらやっていけないよ」
もっとも、貞子に依存せざるをえない体制を整えさせたのが、他ならぬ貞子自身であった。貞子は、大蔵家の人間をすべて己の支配下に置かねば気が済まない。そういう性分であった。
その支配欲は大蔵家だけに留まらず、この町すべてに及ぶ。元大蔵財閥の血流を継ぐグループ企業を指先ひとつで操る大女傑。あえて国内に広く事業を展開することはせず、県内に強固な“根”を張っている。
“大蔵貞子に逆らうな”は、大蔵家の中だけの不文律ではない。
「これだけの大屋敷だよ?」
貞世が、口を開いた。
「お母さんと貞一郎と、その気になれば上手く住み分けられるんじゃないの? 必ずしも家を出ていく必要なんて全然ないじゃん」
「いや……、母さんのことだ。貞一郎に気を遣って家の中を動かなきゃならないなんて到底受け入れ難いだろう。触れることも話すことも近寄ることすら叶わない、そんな存在をこの家に住まわせたりはしないよ」
貞蔵の指摘は、実によく的を射ていた。大蔵貞子の性格をよく知る貞江と貞世が、反論の弁を持ち得ない。
「あなた、ごめんなさい」
貞江が、伏し目がちにして忠義を見た。
「やっぱり、言い出せなかったわ」
そう言って、傍らに据えていた茶封筒を座卓に乗せる。
すっと茶封筒に手を伸ばした貞世が中を覗くと、「ワオ」と小さく声を上げた。
貞江は。
貞江と忠義の二人は今日、貞子に、高級高齢者住宅への入居を勧めるつもりでいた。
茶封筒の中の分厚いパンフレットが、ちらりと頭を出した。
ハハハと、貞蔵が乾いて笑う。
「いやいや、これは言い出せなくて正解でしょ。こんなの母さんに見せたら殺されるよ? 正気かよ、姉さん」
「たまに、すごい度胸してるよね」と貞世も続く。
「そんなこと言ったって……仕方ないじゃない」
三十六にしてようやく授かった子宝。
三十六でなかろうと第一子でなかろうと、貞一郎の親権を放棄するなどという選択肢が到底受け入れないものであることは言うまでもない。