【①】
おひさしぶりです。
がんばって書きますので、読んでもらえたらうれしいです。
感想とかもらえたらもっともっとがんばります。
親子は、身を寄せ合って生きてきた。
父はない。金銭的余裕もないし、趣味もない。
だが親子はそれでよいと心底満足していた。郊外に建てられた公営住宅の、高層マンションに遮られて常に陽の当たらない一室で、ひっそりと身を寄せ合って生きてきた。
母の里子が今年で還暦を迎える齢であるから、優一は三十五になる。
派遣社員としての境遇はお世辞にも恵まれているとは言えないが、母一人子一人、慎ましく生きていくには事足りる。
その日、里子は、優一にめんつゆを買ってくるように頼むのを失念していた。
初夏、という表現がいささか生易しく思えるくらいの蒸し暑い日であった。優一の希望でその晩は素麺をこしらえるつもりであったが、めんつゆを切らしているのを今になって思い出した。
時計の針は、六時半を回っていた。
すでに優一は勤務を終え、とっくに帰路についている時分である。
優一は携帯電話を持っていないのであるから、連絡をとる手段はない。急遽別の献立にしてもよかったが、炎天下の中、冷たい素麺を楽しみにしていたであろう優一のことを考えるとどうにか食べさせてやりたいという思いもある。
里子が慌てて買い物に出かけようとしたそのとき、部屋の扉が鈍い音を立てて開かれた。
「ただいま」
扉の隙間からひょっこりと煤けた顔を覗かせた優一の右手には、しっかりめんつゆの小瓶が握られていた。
「母さん、めんつゆ切らしてるの忘れてたでしょ」
そう言って得意げに見せびらかすその様は、まるで小学生がテストの点数を母親に褒めてもらいたがっている風でもあった。
はたして里子がそう感じたかどうかは定かでないが、里子が「あんたは本当に気が利くねぇ」としゃがれた声で褒めてやると、優一は少年っぽく笑った。
そんな微笑ましい会話が、里子の気をやや緩ませたのかもしれない。
ありがとう、と言ってめんつゆを受け取ろうとしたそのとき、優一はハッとして小瓶を握る右手をとっさに逃がした。
二人の間に、茨のような静寂が走る。
少ししてから、里子が「ごめんね」と弱々しく謝った。
優一は、なにも応えてやることができなかった。
立ち竦む里子の傍らを優一は目も合わさずに横切って、絞り出すように「めんつゆ、台所に置いておくよ」と呟いた。それが、精一杯であった。
〇
優一は、高校に行っていない。
金銭的な都合がつかなかったわけではないが、あまり必要性を感じられなかった。
中学を出てすぐに勤め人となり、その収入のほとんどすべてを里子に渡した。私利私欲をまるで持たず、強いて言えば、里子とふたり睦まじく生きることだけが望みであった。
ただし、里子は優一のそんな選択を強くなじった。
高校や大学に通い、一人の男として普通に生きて、やがて普通に家を出て、普通に家庭を築いてほしいと心から願っていた。
それでも優一の意思は鋼より固く、熱した鉄よりも温かかった。
高校の受験をすべて取りやめると若い身空で建設会社へ飛び込み、無我夢中で働いた。仕事以外の時間はすべて里子と過ごした。
里子がまだ元気だった頃なら、休日のたびに方々へと赴いた。海へ山へ、様々な景色をたった二人で共有して生きてきた。ゆく先々で里子に旨いものを食べさせてやり、喜ぶ顔を見るのが至上の喜びであった。
そんな生活を続けるうちに、やがて里子も、優一の固い意思の前に折れるようにして腹を括った。
優一が真にそれを望むのならば、思うがままにさせてやるのも母の務めかと考えるようになっていた。
ただし、務め、と自負するのはあまりにも傲慢である。
里子とて、優一と二人で過ごす時間はなによりもの至福なのだ。夫を失い、友もなく、あとは朽ちてゆくだけの人生と思っていた。里子は、息子の優しさによって色彩豊かな半生を得た。
むろん、その優しさに甘えることで優一の人生を縛ってしまう罪悪感は誰に言われるまでもなく里子自身が痛感していた。眠れない夜も多々あった。食事が喉を通らないことも一度や二度ではない。
それでもいつかその日が来るまでは、全力で優一に依存してやることが自分にしてやれる唯一の愛情なのだと己に言い聞かせた。
たった二人の親子に降り注いだ、運命という名の天災。
時間が許してくれるうちは、全力で抗ってやろうと前を向いた。
〇
そして、水が上から下へと流れるように、必然的にその時はやってきた。
二人とも、表情は晴れやかに澄んでいた。
覚悟を決めるだけの時間は十二分にあった。そのための二十年間だったのだから。
二人とも、とっくに限界が来ていることは自覚していた。それでも、せめてこの日まではと歯を食いしばって生きてきた。
今日は、里子の六十回目の誕生日。無事に還暦を迎えて訪れたのは海の見える老舗の旅館。
人ひとり分の間隔を空けて、里子と優一は、それぞれ窓の桟に手を置いた。
「素敵な景色だねえ」
里子が、とても嬉しそうに呟いた。
「ああ、素敵だ、とても」
優一も、また。
人ひとり分の間隔は、けっして詰まることなく保たれた。
そうしてしばらくしたのち、里子が、無駄なこととは理解しつつ問いかけた。
「もう、限界なんだろう?」
また、静寂。
優一の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
ああ、と頷いた。
「ごめん。本当に、本当に、もう、無理なんだ」
言葉を紡ぐ、そのたびに。口から漏れる音とともに、滝のように涙が零れる。
「自分で自分が分からないんだ。ただひたすら気持ちが悪くて、気持ちが悪くて、たまらないんだ」
「なにを、泣くことがあるかぁ。あんたのおかげで、母さんは本当に幸せだったよ。ありがとうねえ」
里子の枯れた肌にも、涙が走る。
また、静寂。
せっかく訪れた御膳上等の旅館で、なにをするでもなく、ただ窓の外を見やって二人の時間を過ごしている。
最期に、里子は、「手を握ってもいいかい?」と訊いた。
すると優一は里子の皺だらけの手を引いて、その身を胸の中へと抱き寄せた。
その時間は、そう長くは続かなかった。
数十秒かそこら、力いっぱい里子を抱き締めたのち、優一は自ら身を引いた。
「ありがとう」
そして、里子は優一に頼み事をした。
「なんだか、喉が渇いてしまったね。悪いんだけど、下の売店でお茶を買ってきてくれないかい?」
優一は、快諾した。
袖で目元を拭うと、財布を握り部屋の外へと出た。
里子は窓際の安楽椅子に腰を下ろすと、優一が部屋に戻ってくる前にと、せわしなく事を済ませた。
部屋の中心の座卓に一枚の手紙を遺して。
親子が身を寄せ合って生きていたのは、ひと昔。
優一へ
長い間、本当にありがとう
あなたのおかげで、私の人生は幸福でした
たくさんの景色を見せてくれてありがとう
高校に行かせてあげられなくて、ごめんね
野球をさせてあげられなくて、ごめんね
そして、そんな身体に産んでしまって、本当にごめんなさい
母さんは、優一からたくさんの幸せをもらいました
もう、十分です
母さんは、一人で逝きます
なにも、わざわざ心中なんてする必要はないじゃないか
母さんが逝けば、すべては丸くおさまるのです
寿命だと、思ってください
思い残すことはありません、本当です
優一は、生きてください
これから先、辛いこともたくさんあると思います
けれど、せいいっぱい、生きてください
それが母さんの願いです
本当に身勝手な、母さんの願いです
母さんのために生きてくれて、ありがとう
母さんの息子に生まれてきてくれて、本当にありがとう
さようなら
里子
先天性重度高齢者嫌悪障害
通称、“嫌老障”
ひとり残された優一は、この先も障害と共に生きてゆく。
case2.へつづく




