孤立した大衆の向かう先
野田宣雄の「教養市民層からナチズムへ」という本を読んでいたのだが、面白かった。
そこでマックス・ウェーバー論が最初に述べられているのだが、要するにドイツがナチズムに走った根源には、ドイツの教養層が大衆と遊離していた事に原因があるというのである。これと比べた時、イギリスは貴族層が各地域に存在し、大衆と密な交流があったので、インテリ層と大衆の乖離が起こらなかった。
ナチスというのは周知の通り、ヒットラーの大衆扇動によって生まれている。ヒットラー自身、教養層から疎外されていたし、その事が彼の強い怨恨にも繋がっている。ヒットラーは徹底した大衆侮蔑の上に大衆支配を行ったが、大衆の方でも、行き先のない鬱憤が溜まっていたから、ヒットラーの策略はうまくはまった。
それで今の日本に話に持っていきたいのだが、ここ最近のコロナウイルス対策で、少なくとも安倍首相とか麻生大臣とかが、大衆と遊離した政治家である事は証明されてしまったように思う。
安倍首相なんかは、メディアに出演したりして大衆扇動、大衆支持を取り付けたいタイプだろうが、いかんせん中途半端なエリート意識があってそこまで演じきれない。いずれにしろ、安倍首相、麻生大臣といった人は庶民感覚はまったくないお坊ちゃん的エリートであるとは大衆もある程度、今回の危機で見えてしまったと思う。
それで、ではその大衆はどこへ行くかと言うと、やはりどこにも行く先はないのではないかという気がする。自分はこれから、大衆とファシズムが結合する可能性は十分あると見ている。大衆と遊離したエリートが大衆を満足させられない事がわかった今、大衆の心情を掴むタイプの独裁者が出てこないとも限らない。本源的には、大衆は独裁者を望んでいるのではないかという気もしている。大衆は率先して支配される事により、支配する側の強者との一致を感じたい、そういう欲望を底に持っているように思われるからだ。
私が感じるのは、極端に全てを解決するような一刀両断を期待している全体的心情である。この心情は危険で、フランス革命にしろロシア革命にしろ、絶対的な自由の希求、理想の現実化は最後には専政と独裁に終わってきた。
安倍首相は中途半端にヒーローを演じようとしたが、今、挫折している最中のように思う。ただ、重要な事はどんな人間もヒーローを演じきるのは不可能だという事であり、この世界は通俗作品が描くようなものではないという事にある。
知性というのは深い諦念に繋がっていると常々感じているが、諦念が欠け、過度な希望、過度な礼賛、過度な期待を持った、多数の人々が自分の信念を託して独裁者を生む時、歴史は今より更に暗くなるように思う。
その鍵を握る大衆は、大衆にごまをする事しか知らないタレント的インテリしか手に握っていない。これからもっとひどい事になろうと私はそんなに驚かないと思う。私個人はコロナウイルスよりも人間の方が恐ろしい。自分達を規定するなにものも持たない巨大な集団意識がどこへ向かうか。少なくともそこに筋道をつけようとする人間は排除されているし、啓蒙しようとする知識人ももうこの国にはほとんど残されていない気がしている。