159.魔物と困惑
学院を出発してしばらく。
どこを見ても山しか見えない、周囲を森に囲まれた場所を馬車はガタゴトと進んでいた。
この道は城砦へ行くためにしか使われないであろう道は綺麗に整備されているとは言い難く、路肩も狭い。
「さて……そろそろ水飲み場なんだけど……」
サクラが外の様子を見ながらつぶやく。
隣に座っているウタさんの顔も少し緊張したものに変わっていた。
たしかに耳を澄ますと近くに水が流れているようだった。心なしか空気も澄んで涼やかになった気がする。
「どう? 目的の魔物はいる?」
「まぁまぁ、そう急かさないでよクロエ。そんなんじゃ、モテないわよ?」
「いや関係ないでしょ……」
「関係あるに決まってるでしょう。余裕を持ってたほうがきっとあの子たちも良いと思うけどな」
「あの子たち?」
「そんなの決まって……って、まぁ、いいや。あなたのそれは昔からだし」
……?
勝手に話を脱線させて、勝手に一人で納得されてもよくわからないけど……。
サクラがいいのなら、いいのかな?
「さ。そんなことより、魔物はいるかにゃ~?」
そう言ってサクラは窓から身を乗り出して目を凝らすと、ぺろりと上唇を舐めた。
「ふふん、さっすがサクラちゃんね」
その反応を見るに、どうやら目的の魔物がいたらしい。
サクラの視線を辿ると、二本の大きな角が生えている巨大な体躯をしたイノシシのような魔物が水を飲んでいた。
「サクラ、あの魔物が」
「そう。あいつが今回の目的よ」
まだ距離があるから正確な大きさはわからないけど、おそらく馬車と同じかそれ以上の大きさはありそうだ。
四足歩行の足は丸太のように太く、蹴られたら重症間違いなし。踏まれたら一巻の終わりだと思っていい。さらに、人間くらいなら楽々丸呑みできそうな大きな口には鋭利な歯が刃のように並んでいた。
見た感じでは、出会えるか出会えないか不確定でも、確実に一匹とだけ戦えるであろう水飲み場を選んだサクラの判断は正しかったと思う。
もしも森の中に探しに行って、あの魔物が群れで行動していたとしたら……ウタさんや御者さんを守りながら戦えるかは微妙なところかもしれない。
たぶんだけど、あの魔物は地上戦だけに限れば飛竜などの竜種ともいい勝負をするだろう。
「馬車はどうするの? この辺りに止めて、私だけ川辺まで下りる感じ?」
「いや、この先に川辺に下る道があるから、そこまでは行くわ。だけど、そこからはクロエだけで頼める? 念のためね」
「わかった」
あまりに近くにいると巻き込んでしまうかもしれないし、いざというときにすぐに逃げられるようにしてもらっていたほうが嬉しい。
サクラがいるとはいえ、相手がどんな攻撃をしてくるかわからない。
できるだけ安全なところで待機してもらうほうがいいだろう。
やがて川辺へ続いている下り坂が見えてきて、その付近で馬車が止まった。
「それじゃあクロエ、よろしくね☆」
「うん。だけど、サクラも油断はしないでね? 近くに仲間がいるかもだし、別の魔物だっているかもしれないから」
「おけまる☆ でも、サクラちゃんたちがそんなに心配なら、ちゃちゃっと倒してきてちょ?」
「……できるだけ頑張るよ」
緊張感のないサクラにため息を吐きながら、坂を下って川辺へ向かう。
あまり人が立ち入っていない土地であるためか、人がいた形跡はどこにも見当たらず、美しい自然が広がっていた。流れている水は綺麗だし、草木も爽やかな緑をしていて、とても心地いい。
あのイノシシの魔物さえいなければ、心が安らぐ素敵な場所だと思う。
「…………」
さてと。
いつでも魔法を放てるように構えつつ、魔物へ近づいて行く。
できれば遠くから不意を衝きたいところだけど、もし一発で仕留めきれず、怒り狂った魔物が突進してきたらひとたまりもない。私は避けられても、その先にある坂を上っていってサクラたちに被害がでるのは絶対にダメだから、できるだけ近くに行かなければ。
……こうして近くで見ると、やっぱり大きい。家と同じくらいとは言わないけど、馬車と同じくらいの大きさはある。もしも突進されたら馬車は粉々に砕け散ってしまうだろう。
このまま不意を突けるといいんだけど……。
だけど、そんなに上手くいくはずもなく。
川で水を飲んでいたイノシシ魔物が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
そして自分の縄張りを侵犯してきた敵だと瞬時に判断したらしく、威嚇するように唸り声を上げた。
まだ少し距離はあるけど、十分に魔法の射程圏内である。
普通に近接戦闘をすると勝ち目は薄いので、相手が動き出した瞬間に魔法を食らわしてやろう。
……と思ったのだけど。
見た目だけだと、敵を見つけた瞬間に突進してきそうだけど、唸り声を上げながらもどうやら冷静な様子だ。
無謀な攻撃を仕掛けるつもりはないらしい。
低級な魔物と違って、考える力もそれなりにはあるみたいだ。
でも、そっちが来ないのなら、こっちから……と腕に魔力を集めようとした瞬間。
「あ、クロエ~!」
背後からサクラの声が聞こえて、イノシシ魔物を警戒しつつ振り返る。
馬車から降りたサクラが坂の上から大きく手を振っていた。
「何、どうかしたの?」
「一つ、言い忘れてたんだけど」
サクラはにっこりと笑顔を浮かべて、
「そいつ、火を吹くから気を付けてにゃん☆」
「はぁぁぁぁ!?」
その情報、もっと早く言ってくれませんかね!?
完全に物理的な攻撃しかないと決めつけていた。
その刹那。
目の前の魔物が口を開けたと同時に真っ赤な炎を勢いよく吐き出した。
飛竜などといい勝負をするかもって思ったけど、炎を吐くって普通に竜種と同じじゃないか……。
広範囲に広がった灼熱の炎が目の前に迫って来る。
私ではない冒険者だったら、このまま丸焼きにされていたかもしれない。(サクラの忠告が遅かったせいもあるけど!)
だけど私の場合、相手も火を使うのなら好都合である。
(——シャル、お願い)
(かかっ! 任せておけ主よ)
魔法書に触れて手をかざすと、炎は見えない壁にぶつかったように急停止した。
そして、シャルの支配下に置かれたイノシシ魔物の炎は、私が手を横に払うと同時に綺麗サッパリ消えてなくなった。
イノシシ魔物は、まさか無効化されるとは思っていなかったようで、驚いたのか動きが止まっていた。
この機を逃さず反撃を……と思ったのだけど、
「……シャル?」
(いや、すまぬ。少しばかり気になってな)
(気になる?)
(うむ……)
神妙にうなずいて、シャルは続ける。
(今の炎……魔法であるな)
「え……?」
思いもよらない言葉に耳を疑いながら、私は攻撃するのを一旦やめて、イノシシ魔物をじっと見つめた。
――なぜならば。
基本的に魔物は魔法を使わない。いや、使えないのだ。