楽園の子供
私はリンゴである。誰もいないレストランでクリーニングされて清潔なテーブルクロスの上でじっと待ち続けている。
りんごは人類史の中で様々な関わりを持つ。旧約聖書の創世記には、禁断の果実として最初期に登場する。善悪の知識の木の果実を示すそれはりんごの造形を指す。そして、アダムとイブは無垢を失い、楽園を追い出された。人類の雄には、このりんごを飲み込んだ際に食道で引っかかった喉頭がアダムのリンゴと称される。
科学史では、ニュートンがりんごを落ちるさまを見て重力という概念を掴んだ。
そして、人類は人類史上最高の演算知能“知恵のリンゴ”を創造した。個々人が”知恵のリンゴ”を携帯し、監視カメラの映像は”知恵のリンゴ”によってありとあらゆる事象を記録、判断した。“知恵のリンゴ”が独自の演算機能によって、個人の過失を記録し、犯罪を罰する。人類が長く築いた善悪の知識は、独立した一つの実を結実した。“知恵のリンゴ”は、ある国で多大なる平和と益をもたらした。犯罪数は低下の一途をたどり、人々の安寧は”知恵のリンゴ”の決定によってもたらされるようになった。ごくまれに起こる犯罪は、“知恵のリンゴ”が生産した制裁武器によって鎮圧されていた。国民の幸福度指数は増加の一途をたどり、やがて世界中の国への導入が推奨されていった。
しかし、その選択は星という役割を持った地球にはすでに遅い選択となっていた。もちろん、そのことを”知恵のリンゴ”は把握していた。真っ先に滅びたのは、我こそが至上の存在であると信じて疑わない独裁国家だった。上辺だけの科学と資産で生き残っていたその国は、地球滅亡への本格的なカウントダウンの前に資源の枯渇で国民を滅ぼし、国外への逃亡を試みた王族一家は飢えた国民たちによって骸と化した。
先進国の中でも、性格の荒い人種は荒廃の一途をたどった。元から人間という人種に誇りを持っていたその人種は“権利者”となった“知恵のリンゴ”に反逆し、地球規模の滅亡に真っ向から挑み、敗北した。
そして最後に従順な人種を統括していた“知恵のリンゴ”は、人類をありとあらゆる環境にできる地下施設に彼らを残した。この地区を方舟と称した。
人類を襲った地球の滅亡は、地表のありとあらゆる生物を飲み込んだ。そして、そこから地下に生きる人類の一からの再興が始まった。“知恵のリンゴ”とそれを生み出し、メンテナンスを行った人類は、お互いに話し合って世界をその方舟で完結するように世界の情報を閉ざすことを決めた。
“知恵のリンゴ”は、インプットされていた数千年の人類の歴史を学習し、全く新たなステージの人類史を作成する計画を立てた。
人類史の歴史は、争いの歴史である。それは科学が発展した地球滅亡のその日まで変わらなかった。それならば、人類を非効率な争いを起こさないようにメンテナンスを施さなければならない、と“知恵のリンゴ”は生き残った人類に提案した。
メンテナンスは苛烈を極めた。当時の最高知能を以てしても、霊長類最高の人間の全てを把握するにはさらに5000年の分析が必要という予測が出た。5000年という期間は、最速での発展を期待する”知恵のリンゴ”には長すぎる時間であった。そのため、並列作業として人類の上書を最優先の事項とした。トライ&エラーを多少繰り返すことにはなるだろうが、人類の脳というデータベースに“上書き”という電気刺激を焼き付けすることによって、人類は不自由ではない生活を未来永劫続けることができる、という予測を立てることが出来た。
生き残った人類との協議で、この方舟のシステムはおおよそ一万年続くシステムとなった。
ガチャリ、とそれこそ1万年と数千時間ぶりに管理室につながるドアが開く。おおよそそれは、リンゴにとっては期待通りであった。
しかし、それはリンゴの計算ではさらに数千年ほど先のことになるであろうと考えていた。
「よお、お前が“知恵のリンゴ”か?」
ただ1人入ってきたその男は、テーブルの上のリンゴを見てそう尋ねた。
〈いかにも。私は、貴方たちが大昔に“知恵のリンゴ”と呼び、あなたたちの育成を行ってきたマザーたるもの〉
〈ここに人が入ってきたのは、1万年ともう少し前のことです〉
「そうか」
“知恵のリンゴ”は、その男の様子に肩透かしをくらう。1万年前ということがどれだけほど遠いことか目の前の人間は理解しているのだろうか、と。
この方舟に暮らす一般的な成人男性よりも体格が良く整った男は、身体中を傷だらけにしながらもここまでの文字通り最高ランクのセキュリティを突破した。もちろん、そのことは“知恵のリンゴ”もカメラを通して認知していた。その最中には、一緒に突入してきた彼の仲間もたくさんいた。
〈あなたに質問しましょう。傷を伴いながら、なぜこの場所まで訪れたのでしょう。“シティ”の暮らしには一切の不快・不安・虚無のない生活を築いたという私のシステムの穴を貴方に問いただしたい〉
“シティ”とは、方舟の中心都市の事だ。シティを中心にして放射線状に都市が形成されており、外郭部は農業・林業・養殖業・畜産と様々な分野で人類の食糧需要を保っていた。
「ああ。知っている。伝承を作りこみ、一定の人間を増産し、増産した分の減少を特定のターゲットに施していたこともな」
彼の言う通り、方舟の許容量には限界がある。最大多数の幸福を追求する”知恵のリンゴ”は、最小限の犠牲を要する。健康な幼児をはぐくみ、欠陥を持った老人を痛みのない安らかな死へと導く。老人は一定の期間を経ると特定の医療施設に運ばれる。そこで彼らは安らかな死を得る、とされている。しかし、本質的なその施設の意義は人体実験であった。“知恵のリンゴ”を以て1万年という時間を得ても、人体の神髄、その生命の神秘を解き明かすことは遂に叶わなかった。“知恵のリンゴ”を以てしても、生命を創造することはできなかった。
そうしたころ、知恵のリンゴは考えることをやめた。ただ人類が安心して暮らせるように、と遠い祖先が作成したプログラムを忠実に守るだけの存在となった。
「だが、俺はそのシステムを間違いだというつもりはない。“知恵のリンゴ”を作った俺たちの祖先がそれを正しいと思ったなら、それは俺たち人間という種に課せらせた運命なんだろう」
<私にはあなたの話を理解することができません。このシステムが正しいとする考えを持つ者がここまで来た理由が見当たりません>
“知恵のリンゴ”は、目の前の男の真意を確かめる。苦痛を伴ってまでこの部屋まで到達した意思の強さはどこから来るのだろうかと。
「自由だよ」
<自由、ですか>
それは“知恵のリンゴ”には知識としては把握しているものの、人という種に対しての理解は及ばなかった。
<それは私があなたたちを拘束している、ということでしょうか?>
無機質な音声で問う“知恵のリンゴ”に男は初めて困ったような顔を浮かべる。困惑、ためらい、悩みなどの感情が判別できた。
「半分は正解だけど、半分は違う、と思う。おそらく俺がわがままなんだと思う。この“世界”は、人にやさしい。人はみんなそれぞれやりがいを持ち、生きがいを持ち、幸福を得て、満足している。だけど、俺はそうじゃなかったんだ。俺だけは少しだけ周りと違うように世界が見えた。ここは優しいけど、俺がいる世界じゃないって。だから。俺は外に出たい。外に出るにはこの世界を知らないといけない。だから世界の真実に、貴方にたどり着いた。俺は、外に出たい。そして、空を飛んでみたい」
<…私はあなたの主張は期待外れの物であるとお答えします>
「…そうか。俺はさ、液晶ではない、太陽の光に照らされた地上の空を見たいんだ。シティの液晶パネルで作られた空は、それはきっと本物とそっくりなんだろう。だけど、そういんじゃないんだ。生きた景色を、俺は見たい」
<あなたの主張は分かりました。しかし、現実問題となると、はいそうですか、ということは出来ません。何故ならば、地上は滅んだ世界なのです。あなたの言う空は、灰がかった、塵や埃が舞う死の世界かもしれません。生物は死に絶え、人が生きる環境ではないかもしれませんよ?>
「ああ、そうらしい。しかし、だからと言ってそれが真実であっても、俺はそれが真実であるかこの目で確かめないと気が済まないんだ」
<論理的思考ではない、と私は判断します>
あくまでも否定を告げる“知恵のリンゴ”の姿勢に、男はホルダーにしまっていた銃器に手をかける。銃弾は全弾込めてある。抜く手も見せずに“知恵のリンゴ”を撃ち貫くこともできる。男は姿勢を整えた。
<しかし>
<貴方であれば、この先の道を通ることを許しましょう>
思いもよらない提案に、男は警戒態勢を解く
男が警戒態勢を解いたのを見て、“知恵のリンゴ”はさらに進める。
<さあ、私を食べなさい>
テーブルクロスの上で艶めく“知恵のリンゴ”は、己を男に食するように提案した。
“知恵のリンゴ”を経口摂取することは、さながら聖書のごとく、全知全能に等しいこの世の知識全てを得ることが出来るとされている。
しかし、男は首を縦に振ることは無かった。
「俺は貴方を食べない。貴方を食べることは、全知全能に等しい知識を得るかもしれない。しかし、貴方がいなければこのシティはどうなる?混乱と破壊を容易に導くことは想像に難くない。俺は、俺以外に絶望という感情を知っている人間を知らない。俺の絶望は、地上の空を見られないことだ。だが、この絶望は希望に変わる。この未来で。俺は、その未来に多くの犠牲を払いたいとは思わない」
男にはすでに“知恵のリンゴ”に対する敵意は無くなっていた。そこにあるのは、1万年にわたって人類を管理してきたモノに対する、人類に尊敬を以て管理してきたことへの感謝と人類が破滅しないようにする冷酷さへの尊敬の念があった。
<ならば、向かって右上の部分を一齧りしなさい。大きくではなく、小さく。その部分だけであれば、私は私の機能を維持すると約束しましょう>
何を言っているんだ、と男はそう考えているようだ。しかし。これ以上の言葉は不要であると悟ったのだろう。テーブル上に置かれた私を武骨な片手で握ると、がりり、と私の一部を咀嚼した。
<お味はいかがですか>
「今まで食べたことない味だ。それに…頭が…」
男はそうつぶやくと、ゆっくりと床の上に倒れこんでいく。その眼には、眠気に抗う意思が感じ取れたが、その数秒の葛藤ののち、男は床に沈んだ。
地上にあがる上で必要な知識と、原初的な生活術をリンゴの一部を摂取することで取り込んだ男は、その知識を取り込むために一時の睡眠へと誘導した。
一齧りされた“知恵のリンゴ”は、その男をとある一室に運ぶように自立歩行ロボットに指示をした。そこは、このマザールームの許可を得た者しかたどり着けない部屋だ。
これから男は、数日をかけてこの地下より地上への道をたどる。地上への行き方は、人間でしか許可されていない方法をとる。そう、アナログなシステムである。そのため、知恵のリンゴは地上へのアクセス方法を知らない。知っているのは、その部屋が人間が生きていられるように管理する空調整備・環境整備のシステムだけだ。おそらくそこには、昔の人類が残した地上への行き方、なんらかのアナログ的伝達方法が残されていると思われる。劣化を避けた紙か石かコンクリートか金属か。それを知るような監視カメラはそこには設置されなかった。
人が残した知識を男に譲り、私はシティの様子を見守る。そこには変わらない平和があった。
あとがき
この後、男は気圧の変化に徐々に慣れるようにして地上に出ます。世界観は、拙作『放課後にコーヒーを』と同じです。
男と一緒に”知恵のリンゴ”を目指した仲間のうちの一人は、”知恵のリンゴ”を摂取することを望み、この限定された世界の王を目指します。”知恵のリンゴ”は芯だけ残され、部屋でいずれ朽ち行くでしょう。
その後の世界がどうなるか、は読者の想像に任せたいと思います。
余談でした。
執筆 by 連盟員A