2011年盆休・奈良大阪旅行Ⅳ
大阪市・尼崎市を抜けて西宮市へ。甲子園球場ではこの時間まだ熱戦が続いているようだ。熱気が伝わってくる。芦屋市から神戸市に入った。中央区までは渋滞に捕まることもなく順調に流れる。道路標識には頻繁に国道2号線への合流案内が示されている。俺は渋滞を怖れてぎりぎりまで2号線には入らないつもりで車を走らせる。
兵庫区でとうとう2号線との合流地点が見えてきた。2号線に入って須磨区で山手の山陽電鉄と海浜側のJRに挟まれる。そして地獄の渋滞だ。息子が親友のやすきと盛んにメールのやり取りをしている。やすきは高専に通っていて将来はJRで働きたいという希望を持っているようだ。
「ちゃん誰とメールしよるんか?」
「やすきちゃ。左がJRなら右は何か聞いてたんちゃ。そしたら山陽電鉄やないかち」
明石に入ったらJRと山陽電鉄の位置が逆転した。渋滞が緩和されることはない。車がスムーズに流れたら一般道路で西に、行けるところまで行こうと思っていたが諦めだ。日もどっぷり暮れた。
ビッグボーイがある。ちょうど良い、ここで腹拵えだ。8時過ぎだというのに店内は結構客がいる。ビッグボーイの戸畑の店にお客がいたときはよく利用したが、この頃はとんとご無沙汰だ。
3人とも注文したのはもちろん安いハンバーグ。嫁にだけサラダセットを注文させて店に内緒でこそっと横から頂く。料理が来るまでにセットのスープを2杯も飲めば腹に貯まる。息子はせっかくセルフで注いできたコーンスープを飲まずに料理が来るまで待っている。
「ちゃん何しよるんか?何杯でもタダで飲めるんぞ」
「俺は一杯でいいちゃ」
「勿体ねぇな」
車に乗り込んでナビを一応自宅に設定したが、このまま帰る気はない。明石から加古川に入ってパイパスに乗る。この道は山陽道への連絡道の有料道路に繋がり、山陽姫路東インターに至る。
吉備SAに入った。
「明日は原爆ドームに行ってみゅうか」
嫁が偉そうに、「行ったことないの?私はあるよ。亡くなったお父さんが連れて行ってくれたんよ」
親父の初盆、真夏から原爆が連想された。広島は関西への通過インターでしかなかったが、10年前に亡くなった伯父が安佐南区に住んでいた。お袋が兄貴に会いたいと言うので自宅で病気療養中の伯父を2回見舞ったが、市の中心部に足を伸ばすことはなかった。デリカの後部座席に敷いたマットに横になって俺は伯父貴のことを回想し出した。きっとその夜は伯父貴の夢を見たに違いない。
お袋は9人兄弟姉妹だったが、成人したのは女2人男3人のたった5人だ。産めや増やせやの富国強兵の時代、国としては5人残ればまぁ良しだ。男兄弟の内、大学に行ったのは広島の伯父貴と佐世保の幸夫叔父貴の2人だ。
対して親父の兄弟姉妹は7人とも成人したが、俺が産まれる前に長男が結核で死に、俺が物心ついてヒロシ叔父貴が死んだ。7人の内、高校に行けたのが一番下のカツヨ叔母とヒロシ叔父貴だけだ。お袋は親父の兄弟より学歴が高いのをよく自慢していた。
俺と従姉妹達は伯父貴の住まいが変わるたびに呼び名を変えていた。最初は北松浦郡吉井町のお橋に住んでいたので「お橋のおんちゃん」、次に小倉に移ったら「小倉のおんちゃん」、もっとも今小倉に住んでいる俺は姪の夏子から「小倉のおんちゃん」と言われているそうだ。そうだ、と言うのは俺は滅多に夏子と会う機会がなく元気な頃のお袋から聞いた。
伯父貴は関西大学を卒業して日鉄炭鉱に入社した。俺が物心ついたときには閉山してしまっていて、大きなボタ山だけ残って往時を偲ばせていたが、北松は炭鉱の町だった。戦時中は朝鮮人も、徴用かどうかは分からないが、大勢働いていたと伯父貴から聞いた。炭鉱は戦争遂行の基幹産業だったからだろう、伯父貴が戦争に召集されることはなかった。
伯父貴は再婚だ。滅多に離婚を目にすることのないこの地方では再婚には悪いイメージが付きまとう。口さがない連中の口の端に上って離婚の理由とか色々と詮索され、それが俺ら子供の耳にも入ってくる。伯父貴は最初の嫁さんとの間に子供がなかったので養女を迎えた。お袋の姉貴の忘れ形見の従姉だ。ヨウコちゃんと呼んでいたが、歳が俺らいとこ同士ではただ一人上に離れていたので盆・正月に顔を合わせることも無かった。伯父貴も何故か連れて来なかった。写真は見せてくれたが。
伯父貴は小倉に居を移したのを機会に転職して企業向けのコンサルタント業を始めた。俺ら家族が親父の転勤で鳥巣に引っ越すと度々泊まりに来た。鳥巣には取引先の久光製薬があった為だ。そのコネで伯父貴はヨウコちゃんを久光製薬に入社させた。
ヨウコちゃんは国道3号線沿いのアパートで一人暮らしをしていたようだが、あれは俺が高校二年のときだったか、伯父貴が泊まりに来て、明日親父とヨウコちゃんのアパートを訪ねると言う。何故か俺も二人に付いて行った。親父が言うには、ヨウコちゃんが悪い男に引っ掛かって騙されているのだと。伯父貴はヨウコちゃんを説得して連れ帰る為に鳥巣にやって来た。
記憶がはっきりしないが、確かヨウコちゃんはそのときアパートに居たと思う。高校生の俺には全くちんぷんかんな大人の世界のこと。黙って成り行きを見守っただけだ。その後、ヨウコちゃんは見合いをさせられて神戸製鋼勤めの男と結婚して神戸に行った。
今改めて記憶を辿ってみたら、この時ヨウコちゃんに会ったとしても、俺は生涯1・2度しか彼女に会ったことがないようだ。それでもヨウコちゃんの姿が思い浮かぶのは、俺のアルバムに何故かある一枚の和服姿の彼女の写真のせいだろう。
俺にとって伯父貴はブルジョアの象徴だった。なぜなら親戚の大人達が誰も持ってなかったカメラをいつも所持していたから。今は大好物の明太子だが、北松の田舎には売ってなく、高級品の代名詞だった。それを伯父貴はお土産に惜し気もなく買って来てくれた。
しかし、伯父貴は母方の親戚の中ではあまり評判が良くなかった。俺ももしかしたら伯父貴の悪口を言っていた一人か。お土産とかはよく持ってきてくれたが、現金となったらケチだ。お年玉はくれたが、それ以外で小遣いを貰ったことはない。
そして、昔の高学歴のオヤジに有りがちの頑迷・堅物のイメージが伯父貴にもついて回る。俺が小倉に就職が決まって、伯父貴がアパート経営をやっていたので試しに部屋を貸してくれと頼んでみたら、「アパートの家賃は新入社員の安月給じゃ払えん止めとけ」
本気で借りるつもりは更々なかった。お袋は泊まりに来た伯父貴にいつも甲斐甲斐しく世話を焼いていた。そのありがたさを思うならせめてこのくらいは言ってくれよと思ったものだ。
「2DKやけん家賃は5万貰うとる。安う貸してやりたいんやが、他の住民の目もあるけん3万5千円くらいでどうか」と。
伯父貴の指摘通り、新入社員に家賃3万以上はまず不可能だ。俺は伯父貴の愛情ある甥への好意をありがたく辞退したに違いない。結局、不動産屋で家賃二万円のアパートを借りて住んだ。伯父貴の家まで歩いて行ける距離だ。
俺は新卒で入った会社を1年ちょっとで辞めた。その頃の小倉は下水道工事の真っ只中だった。工事に従事している下請け会社は柄の悪い奴が多かった。住所はあるが、無職で怖いもの無しの俺はこいつらと揉めた。愛車のトレノで帰って来た俺がアパートの前の駐車場に入ろうとバックで進んでも奴らは退こうとしない。かっかきた俺は奴らに突っ掛かっていった。取っ組み合いになって引き倒される。起き上がった俺を奴らは恫喝する。
「貴様、小倉でなめた真似しやがると簀巻きにされて紫川に浮かぶぞ」
――けっくそが!
俺は車に乗り込むと小倉南区役所の土木課に怒鳴り込んだ。
「お前ら俺が若造ち思うて嘗めくさっとんか」
窓口の男性職員が狼狽して、「ど、どうかなさったんですか?」
「お前らどこでんかんでん掘り捲りやがって。そいで何かあいつらは。みんなヤクザやねぇか。俺も納税しとるんじゃ。その俺を殺して紫川に簀巻きにして放り込むちゃなんかちゃ」
一通り捲し立ててアパートに戻ったところに即行で親会社が詫びの菓子折を持って来た。
――ざまぁ見さらせ!
後日、伯父貴の家でこの話しをすると、「あいつらは横柄さは目に余る」
「おんちゃんも何かあったんや?」
「狭い道で工事しよろうが。通れんで、まぁちょっと待てばどいて(避けて)くれるやろうって待っとったが全然どかん。こらっいい加減どかんかって怒鳴りあげたら逆に俺に掴み掛かってきやがった。あいつら狂犬ばい」
伯父貴はものの加減が分からない。自分がこう出れば相手はああ出るかもしれないという後先を考えない蛮勇だ。俺は片足でもまだ20代だ。オヤジ狩りという言葉もある。60越えた爺さんに怒鳴られればほとんどの奴は逆切れするだろう。殺されないだけ幸いだ。年甲斐もなくという形容は正に伯父貴のためにあった。
この伯父貴の性格に俺も逆切れしたことがある。親父とお袋は今思うと俺に対して過保護だった。いい歳こいた息子のために一年に数回アパートを掃除しに来てくれていた。小倉に出てきたその日は伯父貴の家に泊まる。汚れ物も持って帰って洗濯して送ってくれていたが、日中は俺が居ないので伯父貴の住所に送っていた。
ある晩、1階の大家に伯父貴から電話が入った。受話器を取った途端、伯父貴の怒鳴り声。
「こらっ!いつまでほたっとく(放っておく)とか。いい加減に取りに来い。邪魔になるとが分からんとか」
邪魔という言葉に俺は切れた。売り言葉に買い言葉、「うるせぇ。お袋の送ったもんば邪魔たぁ何か。まっとけ今すぐ行ったる」
俺は足を引き摺って速足で伯父貴の家に着くと門前で近所迷惑も顧みず大声張り上げる。
「こらっ糞じじい出てこい。邪魔ちゃ何か」
俺のきちがいじみた剣幕にビビった伯父貴は家から出て来なかった。代わりに再婚の伯母が出て来て、荷物を受け取った俺は早々に引き揚げた。
これから伯父貴の人生最大の悲劇が始まる。俺が切れたといっても身内だし、理性のある普通の人間だ。血の繋がった伯父貴を追い込むような馬鹿な真似をする筈がない。しかし、俺に言ったようなことを他人に、しかも知的障害者にやり続けてはいけない。伯父貴の家の前に知恵遅れの子供が居た。伯父貴の家に遊びに行ったとき、俺も何度か見たことがある。
伯父貴はその子が粗相をする度、どうも普通の子供のように叱りつけていたらしい。やがてその子が長じるに及んで伯父に敵愾心を持つようになった。頭の弱い人間に善悪の判断はできない。何しろ理性がないんだから。大人しい犬でも繋がれているからとずっと虐め続ければ、鎖から解放された途端その人間に飛びかかって行くのと同じだ。言い聞かせることもできない。実際その子の親も努力したとは思うが無駄だった。
その子は執拗に伯父貴に嫌がらせを始めた。もしかしたら、嫌がらせという認識はなかったかもしれない。動物的な本能による攻撃か。洗濯物が干される度に泥を投げつけ、また石を投げて窓ガラスを割る。いつか殺されるかもしれないと恐怖に戦いた伯父夫婦は小倉の家を借家にして広島に逃げて新築した。よく金があるものだ。
伯父貴は警察には相談しなかったようだ。その子への過去の自分の行為を恥じたのかもしれない。伯父貴がもしあのまま小倉に住んで居られたらもっと楽しい余生が送れたかもしれないなぁと俺は思う。息子と遊びにも行けたし。
亡くなった伯父には子供が居ない。噂によると伯母とその子供達が財産は相続したようだ。伯母の子供と伯父貴は当たり前だが、血の繋がりはない。甥の俺の方がまだましだろう。
今年親父があの世に旅立った。
「親父、小倉のおんちゃんとはもう会うたか。積もる話しもあるだろうよ」
俺はまだ伯父貴の仏前に線香もあげてないのだ。もし機会があったら焼香に行ってみたいとは思っているのだが、何処に行けばいいのが分からない。伯母は、広島の家はもう売って子供に引き取られたか。まだ存命だとしたら相当の歳だから老人ホームにでも入所していることだろう。お袋からはその後のことは何も聞いてない。今更聞こうにもお袋は病気で喋れないし、船の村やユキオ叔父に聞くつもりもない。そう言えば親父の葬式に伯父貴家族の香典は見なかった。やるせない。