2011年盆休・奈良大阪旅行Ⅱ
彼はエンジンを掛けてエアコンを入れ回転を上げた。ギャーと激しい音。
「おそらくコンプレッサーがダメでしょう。回転の軸がずれてるようです」
「岡山県までは効きよったんですが…この暑さん中エアコンが効かんやったらたまらんもんで、2・3日もてばいいんで応急処置できませんか」
彼はエンジンルームを開けて点検していたが、「ベルトが緩んでます。音はベルトでしょう」
「ベルト締めて貰えませんか?」
「やってもいいですがコンプレッサーが壊れるかもしれませんよ」
「もし走行中壊れたらブレーキ掛かりますか?」
「はい掛かります」
「もうぶっ壊れても構いませんからやって下さい」
「分かりました。やってみましょう。どうぞ中でお待ちください」
ここは奈良中央MB自動車・香芝店、昔のカープラザ系列の販売店だ。ショールーム内にはデリカD5の展示車が一台、お客様気分で入るショールームは居心地が良い。アリス(シュールーム担当の女性のこと)が飲み物まで出してくれた。せっかくいい気分に浸っているのにこちらの素性を明かす必要はない。ただ同じMB車を扱っているというだけの全くの別会社なのだから。
「お待たせしました」
先ほどの彼がショールームに入ってきた。
「エアコン効いてます。コンプレッサーにガタはありませんでした。純正ベルトより今付いているベルトがちょっと長いようなんです。目一杯締めても少し緩いんですが十分もつと思います」
正に地獄に仏とはこのこと、感謝感激雨霰だ。
嫁が歓喜の表情で、「ほんとに直ったん?やったぁ!やっと暑さから解放されるぅ」
これで明日の朝一小倉に帰らなくてもよくなった。夏の貴重な時間を無駄にせずに済んだ。感謝してもしきれない。彼は、これくらい無料でいいですよ、と工賃も取らなかった。
――うっ涼しい!!
エアコンのありがたみが骨身に沁みて分かった一日だった。彼が道路にでて誘導してくれる。俺らは颯爽と今日の宿「二鶴」に向かう。
じゃらんネットで捜した宿に泊まるのは今回で三軒目だ。前回まではお世辞にも綺麗とか新しいとか言えない宿だったが、俺ら家族は宿にそんなもの求めていない。安宿しか泊まらないから、掃除が行き届いて、夏ならエアコンが効いてダニが居らず快適ならそれでいい。食事も普通に食えたらいい。自宅より居心地が良ければそれでいい。
何しろ、嫁と来たら掃除機は掛けるが真剣に片付ける気はさらさらない。洗濯物はそこらに雑多に積み上げ、通販で気紛れに買った服は辺り構わず家中に下げ、家に5匹いる猫軍団は我が物顔でのさばり、部屋を猫臭で充満させる。我慢の限界に達した俺が、こん家はゴミ屋敷やな、と怒鳴るとぷいっとへそを曲げてふて寝する。
二階の寝室の布団は敷きっぱしで、網戸は猫の爪にやられてしまって夜は窓を開けることもできず、噎せ返る中、扇風機の風だけで寝る。夏は大好きだが、身体中をダニに噛まれるのが玉に瑕。諦めきった俺は、要するにダニに免疫をつければえぇんや、と発想の転換をせざるを得ない。幸か不幸か、今年は例年ほどダニに噛まれてない。
二鶴のチェックインは16時、まだ2時間あるが、宿の口コミに分かりづらいとあったので早目に場所だけ確認しておくことにした。
――近鉄の踏切を超えて左か…
嫁が、「商店街に入るよ。車で入っていいん?」
「ナビじゃここ入るごつなっとるぜ」
「あったぁ。二鶴って書いてある」
「ありゃ、門が狭いな。中に停めてええんか」
この進行方向では頭から入れられない。俺はバックして尻から門に突っ込んで停めた。
「ちょっと待っとけ。ここに停めてええか聞いてくる」
すいません、と玄関を開けたら若女将らしい四十路の細身の女性、「駐車場はここでいいんでしょうか?」
「横の白い車の後ろに付けて貰ったらいいです」
「チェックインまでその辺うろうろしようと思うんですがどこか良いところありますか?」
「そうですね。ここら辺だったら駅前のショッピングセンターくらいですね」
「なら車でうろうろしてきます」
「夕食のお時間はお帰りになってからお聞きしましょうね」と若女将は笑顔で送り出してくれた。
さて、車で出たものの夕食の時間があるからそう遠くまで行けない。適当に走っていたら橿原市に入った。
――そうや、ゴールデンウィークに行き損なった橿原考古学博物館に行っちみよう。
――おっと、橿原神宮の案内板。ここも外せない。
標識に沿って右折すると右手は深い森になっていて神武天皇御陵の看板。帰りに必ず寄ってみることにして、ひとまず橿原神宮の駐車場を捜す。閑散としている。去年行った伊勢神宮とは大違いだ。まぁ平安神宮と一緒で明治に創建された歴史の浅い神社だから仕方ない。伊勢と比べるのは酷というものだ。
表参道は十分な広さで真夏を嫌というほど味わいながら歩く。参拝客も一人二人しか目にすることもなく、まさに静けさや森にしみいる蝉の声だ。境内の左手に大きな蓮池があった。深田池だ。性格でついつい引き寄せられる。
「うわっちゃぁ、きったねえ水じゃ」
「ちゃん来てみぃ。亀がいっぱい泳ぎよるで」
大宰府天満宮の池の亀はいつも岩に上がって甲良干ししているが、ここの池には岩がない。青みどろで汚濁した水面から首をいっぱいに伸ばして泳ぎまわる亀どもは辛そうだ。顔を近づけてみると首に赤い縞と緑の縞の二種類生息しているようだ。
「もう行くよ」と嫁。
蒸し暑さに汗が滲んだ掌に手水を使い、南神門の石段を上がり神域に入ると、背後に畝傍山を控えた雄大な社殿が眼前に開ける。
「暑ぃ!何か飲もうで」
右手に結構広い休憩所があった。ご丁寧に長椅子一つ一つに座布団まで敷いてある。確か京都の二条城の休憩所もこんな感じだった。自動販売機で飲み物を贖って一服しながら暑さ凌ぎの休憩だ。
「さてと」と俺は飲み掛けのカルピスウォーターを手に持って腰を上げる。
「まだ行くと?暑いよ」と嫁はもろに嫌な顔をする。
「折角ここまで来たんじゃ。外拝殿まで行って手合わせるでや」
中では数人の参拝客の姿が見受けられた。窓口では巫女さんが坐ってこちらを窺っている。となると気のいい俺は橿原神宮に幾許が落として帰らねばならない気がしてくる。買ったのは吸盤で車に付けられる500円の交通安全のお守りと橿原神宮の100円のパンフレットだ。貯まったアクセサリーは第二席のガラスに貼り付けて落ちる度に貼り直していたが、今ではもう諦めて纏めて運転席シートバックポケットに入れたままにしている。
帰りは勿論神武天皇陵前で車を止めた。嫁は車から降りたくなさそうだったので、「お前らは車で待っとけや」と二人を残して歩き出す。
玉砂利が敷き詰められた参道の道幅は優に5メートルはある。初代天皇の陵と比定されたとはいえ、ここまで立派な参道がいるのか疑問に思う。それに幕末以前はここはただの田んぼの畦道だったそうだが、さすが金持ちの宮内庁と感心してしまう。
なだらかにカーブしていて御陵が見えないのでほんとにあるのか不安になる。ふと誘惑に駆られる。このグラベルを俺の持つレース用パジェロで疾走したなら素晴らしいカウンターの妙技ができそうだし、もしオフロードレースを開催したならこの道幅だったら前車をパスするとき軽く二台並走できる。
不謹慎な妄想を描き立てながら構わず歩くと小川に橋が掛かっていて…見えた…宮内庁管理神武天皇陵だ。夫婦だろうか、参拝している人がいる。真夏の炎天下、こんなところを訪れるのは俺だけかと思っていたが、もの好きな人がいるものだ。
手水があった。腐ってはいないようだ。もうちょっと神域の荘厳な空気に触れていたかった俺は、少し手前の石橋に戻って一服でもしようかとポケットを弄ったが、無い。車に置き忘れて来てしまった。仕方ない。車に戻ろう。
二鶴に着いたのは16時過ぎ。玄関を入ったら若女将がすぐに奥の部屋から出て来て俺らを迎えてくれた。
「お疲れさんです」
携帯電話が鳴った。
――ちゃんか…
「父ちゃん、ローソンに来たけどビールは置いてないよ。どうする?」
「なら水でええわ。」
仕方がない。ミネラルウォーターで失った水分を補給しながら晩食まで一眠りだ。夕食はチェックインのとき案内された部屋だ。入ったらもうちゃんと準備されていた。献立・味は可もなく不可もなくといったところか。じゃらんネットの口コミでは料理旅館なのに内容が寂し過ぎるとあったが、病気で満腹感が味わえない俺には問題ない。
食事を終えて部屋に戻るとすでに布団が敷かれてあった。入浴後、嫁とちゃんは布団に潜り込む。夏に布団を被って眠れるとは俺ら家族には贅沢極まりない。空調が完璧にコントロールされているということだから。これが自宅だったら年代物の扇風機を一晩中回して寝苦しい夜を耐えなければならない。
「寝らんの?快適よ」と嫁。
「あぁちょっと書き物してから寝るわ」
旅日記の文章が捗るものだから調子に乗って午前様になってしまった。