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その浮島は、黒煙を割るようにして天穹を渡っていた。
崩壊した聖都の上空、燃え立つ雲を切り裂きながら――まるで、神の審判を下すために現れた巨大な祭壇のように。
マーク・オーウェンは焦げたバルコニーの欄干に手をかけ、焼けただれた指先を顧みることもなく見上げていた。
その浮島の輪郭は、やがて幾重にも重なる魔法陣の光で縁取られた。赤、蒼、金――三色の光が交差し、空を覆うほどの巨大な印章を形作っていく。
「まさか……あれは、“神炎の方舟”……!?」
マークの唇が震えた。
古代王国時代、炎の神ファル=イグナが地上を離れる際、己の眷属を乗せて天へと昇ったという伝承に出てくる、神話上の浮島。
それが、今、彼の眼前に実在していたのだ。
雷鳴のような音が空気を裂いた。
浮島の下層部に開いた巨大な門――そこから、炎をまとった影が次々と飛翔してくる。
それらは鳥の形をしていたが、羽ばたくたびに羽毛ではなく灼熱の炎が舞い散り、尾が灼光の残滓を引いていく。
「……不死鳥の群れ……!」
マークの喉から漏れた声は、もはや言葉ではなかった。
それは畏怖、絶望、そして――崇拝にも似た感情の混じり合った呻きだった。
フェニクスたちは黒竜の周囲を旋回しはじめた。
空の覇権を争うように咆哮が響く。
竜は怒りに満ちた金色の炎を吐き、不死鳥は紅蓮の翼でその焔を裂いた。
天と地の境が消えたかのように、光と闇が交錯する。
「……まさか、黒衣の魔女は……これを呼んだのか……」
そう呟いた瞬間、彼の脳裏に、あの女の能面のような微笑が浮かんだ。
──『伝説はやがて、神話になるのよ』。
その言葉が、冷たい鎖のように彼の胸を締めつける。
マークは杖を握りしめ、意識を集中させた。
崩れかけた城壁の中で、なお己が生きている理由は一つしかない。
“この地に起きたことを、見届けるためだ”。
だが、彼の決意を嘲笑うかのように、突如、バルコニーの下から黒い影が立ち上がった。
それは、血のように赤い双眸を持つ巨大な影。
炎でも煙でもない。
漆黒の闇そのものが、意思を持って形を取ったような存在だった。
「……抱擁する者……!」
黒衣の魔女が口にしていた“伝説の竜”。
それが、すでにこの地に降臨していた。
竜の鱗は、光を吸い取るような漆黒。その縁を淡い紅が舐める。
動くたびに周囲の空気が歪み、炎の音が遠のき、代わりに心臓の鼓動のような低い響きが大地を伝う。
そのとき、天空の浮島から、一条の赤光が地上へと放たれた。
光は一瞬で王城を貫き、黒竜の額に突き刺さる。
轟音が響き、黒竜は苦悶の咆哮を上げた。
そして、その赤光の中から、ひとりの少女が降り立った。
その髪は焔のように赤く、瞳は蒼。
浮島の上位祭司の衣を纏いながらも、その背に展開した翼は純白ではなく、血に濡れたような深紅に染まっていた。
「……炎の神の従者……まさか、生きて……」
マークは膝をついた。
この名を知る者は、古代文献の中でも限られた者しかいない。
神炎の方舟を操る“焔の巫女”、すなわち炎の神に最も近い存在。
伝承ではすでに“焼却の審判”とともに滅んだはずの存在だった。
「この地は、もはや赦されぬ。――契約の火は途絶え、神の盟約は破られた」
セラフィーナの声は、静寂の中に響いた。
その声に応えるように、不死鳥たちが一斉に鳴き声を上げる。
黒竜は怒り狂い、黄金の炎を吐いた。
炎と炎がぶつかり、空が裂ける。
閃光が一瞬、昼のような明るさで燃え上がった。
「黒衣の魔女……貴様は……何を求めたのだ……」
マーク・オーウェンは焼ける空を見上げながら、呟いた。
その瞳には、崩壊の中に宿る“何かの誕生”を感じ取っていた。
――この戦いの果てに、神話が新たに書き換えられるのだと。
そしてその瞬間、風が凪いだ。
黒竜が、静かに翼をたたんだ。
炎の女神の巫女と、竜が視線を交わした。
やがて、紅蓮の光の中で、ふたりの輪郭が一つに溶け合っていく。
それは、古の預言書にある一節を思わせる光景だった。
“竜は女を抱き、炎は再び神の名を得る。そのとき、世界は終わりの黎明を迎えるだろう。”
マーク・オーウェンの頬を、熱い風が撫でた。
彼はそのまま、静かに目を閉じた。
眼下の王都は崩れ、天は赤く燃えている。
そして空には、新しい太陽が生まれつつあった。




