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虚空の果てに東から暁の陽が昇り、それはやがて命の灯火が消え入るように闇の中へと呑み込まれていく。
そういった一連の光景を目にすることが、どれだけ当たり前で不変的なことなのかさえ老婆は久しく忘れ去っていた。
かつてこの地は一年の大半を雪と氷で閉ざされた極寒の地であったのだが、今は邪悪な魔物が大地を這いずるように灼熱のマグマが溢れる大地へと北部は変わり果てていた。
古エルフ族が暮らしていた針葉樹や落葉樹などが広がっていた広大な美しい森もかつての姿を消し、過去の面影を偲ぶことさえできない。
冬季は温暖な別の大陸へと渡りをおこない越冬する大型の渡り鳥である白鳥が生息する美しい氷の湖面も今は存在しない。
永久凍土は解け、川は干上がりその豊かな水の代わりに高温のマグマが大地で無形の生き物が蠢くかのごとく流動的に流れている。
太古の森は焼け落ち炎の火の粉は動物をも焼き払った。
逃げ遅れるトナカイの群れは四肢から燃え上がりのたうち回る。
生きながら命を削られ絶命していくことに何も意義を見出だせなかった。
そして、大気は毒ガスに覆われ大小様々な命あるもの全てが姿を消した。
狼の紋章の王国はかつての白銀の王国ではなく、亡者の王国であり死者の墓場へとその有り様を変えてしまっていた。
その王城ロンカストラ城は今は魔法の球体に包まれ、大地から遠く離れた上空へと浮かび上がり天空の城として浮上している。
そして、王城ロンカストラ城のそれとは別の土地からもうひとつの球体も上空に浮かび上がり、マグマから驚異を回避していた。
それは貴族の館であった建物である。
その貴族の館の中では、以前まで廃墟の村にあったその地を治めていた貴族の廃館に身を隠している老婆がいた。
老婆の氷のような鋭い視線の先には、冷たい氷の棺に閉じ込められた清らかな少女の姿を眺めていた。
老婆は黒衣の魔女と呼ばれている数百年もの歳月を行き続けている人間である。
黒衣の魔女の想いは、このまま炎の神によりこの地上に存在する生きとし生けるもの全てが、たとえ世界が明日で終わりを告げたとしても後悔することはなかった。
それは、これまで同様に黒衣の魔女である自分のシナリオ通りに事が運んでいるからだ。
あとは”わたしの王”であるウィリアムという青年を待つだけなのだ。
若き騎士は古エルフのイザベラ女王殿から与えられた剣グラムにより、ディヴィナという名の少女の心臓を貫くことを老婆はただただそのことだけを渇望したのだった。
この哀れで無垢な魂の少女さえ死ねば、その身に封じられた古竜ファーヴニルも死すからだ。
忌まわしいあの古竜”抱擁するもの”は巨大な蜥蜴であれば扱いやすいが、知的でありそして神にも匹敵する強大な魔力を持っているのが厄介でならなかった。
狼の紋章の王子であるウィリアムには古竜退治の後には炎の神と対峙してもらわなくてはならない。
神を弑いすることはさすがに大罪である。
本来ならば神の子として生れた人間が弑逆を企む事などあってはならないことであるのだ。
「人間は皆、善なる神の子であったのは神話の中にしか記されていない」
黒衣の魔女は己の考えを言葉にした。
「それは、あくまでも神話。人間は自らの過ちから学び成長することができる。決して純然たる悪ではない」
何処からともなく黒衣の魔女に意見する声がした。
「また、お前か。いつもわたしの邪魔をする。わたしは必ずこの世界を救う。それこそがわたしの使命なのだ」
「何からこの世界を救うというのだ? それはお前の傲慢な考えだよ。お前は“使命”と言うが、わたしからすればそれは“使命”ではなくただの“呪い”だ」
「うるさい! 黙らぬか! わたしはこの世界を救うためにしなくてはならないのだ。何故、お前は解かろうとしない!」
「黒衣の魔女よ。お前の企みは成就せぬよ。絶対にな」
「お前にわたしの何が分かるというのだ! さっさとこの場から失せよ!」
「わたしからは逃げられぬよ……」
その言葉を最後に黒衣の魔女に語り続けていた声は止んだ。
「おのれ、忌々しい奴め!」
黒衣の魔女は振り乱した髪に狼狽した表情でその場に崩れ落ちた。
両手で顔を覆いながら肩を小刻みに震わせていた。
嗚咽の様な物を漏らしながらその場から立ち上がり、先程の声の主に向かって叫んだ。
「いいだろう。お前がわたしの邪魔をすると言うのなら受けて立ちましょう。安定と調和をもたらすのがこの美しい戦争だとお前に見せてあげる」
黒衣の魔女は神の子と呼ばれた人間たちが、自らの業で滅びに瀕しているという考えをよりいっそう深めた。
その滅びから逃れるためには安定と調和が必要であり、それは生産と消費の均衡が守られなければならない。
増えすぎた人間はこの地上を害する存在となりやがて土地や食料不足から戦争が始まる。
その戦争はまた別の戦争を生み出し、人類ある限り永久に下さい繰り返されるであろう。
ならば、人間は自らを律していかなくてはならないため、黒衣の魔女はその役目を己の使命としたのだった。




